宗門の七百数十年来の宿願は、広宣流布の暁(あかつき)に本門寺の戒壇を建立することであり、「国立戒壇」の建立ではありません。
浅井は「国立戒壇」なるものを理想とし、その精神が大聖人以来、厳然と堅持されてきたなどと言いますが、仮に国立戒壇が「宗門の宿願」であるとすれば、第五十九世日亨上人以前の御歴代上人の御教示に「国立戒壇」の語句があるはずです。
しかし、それが全くないという事実は、大聖人の仏法に「国立戒壇」なる教義も精神も一切存在しないということです。
なお宗門では、日亨上人以後、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、第六十六世日達上人が「国立戒壇」という名称を使用されましたが、それは当時の宗教界や社会状況のなかで、便宜上(べんぎじょう)、用いられたものです。
大聖人が『開目抄』に、
先判後判(せんぱんごはん)の中には後判につくべし(御書 五三七)
と仰せのように、後に判ぜられた法門につくのが仏法の習いです。
同様に、昭和以後の四上人が用いられたお言葉であっても、その当事者のお一人である日達上人が、後に改められたことに随順するのが仏法の鉄則です。
浅井は「国立戒壇」なるものを理想とし、その精神が大聖人以来、厳然と堅持されてきたなどと言いますが、仮に国立戒壇が「宗門の宿願」であるとすれば、第五十九世日亨上人以前の御歴代上人の御教示に「国立戒壇」の語句があるはずです。
しかし、それが全くないという事実は、大聖人の仏法に「国立戒壇」なる教義も精神も一切存在しないということです。
なお宗門では、日亨上人以後、第六十四世日昇上人、第六十五世日淳上人、第六十六世日達上人が「国立戒壇」という名称を使用されましたが、それは当時の宗教界や社会状況のなかで、便宜上(べんぎじょう)、用いられたものです。
大聖人が『開目抄』に、
先判後判(せんぱんごはん)の中には後判につくべし(御書 五三七)
と仰せのように、後に判ぜられた法門につくのが仏法の習いです。
同様に、昭和以後の四上人が用いられたお言葉であっても、その当事者のお一人である日達上人が、後に改められたことに随順するのが仏法の鉄則です。