こに挙げられる日達上人のお言葉は、創価学会の機関誌『大白蓮華』昭和四十三年の新年号に掲載されたものです。
当時の創価学会の折伏の進展は目を瞠(みは)るものがあり、すべての宗門人が広宣流布間近 の感を抱いていました。
当時の宗内僧俗は大きな喜びをもって正本堂の完成を待望(たいぼう)していたのです。
日達上人は、そのことを見そなわし、正本堂の完成の時は大聖人の御本意に適い、教化·化導の方軌も確定し、「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」である旨を仰せられたのです。
しかし、正本堂に関する日達上人の御本意は、昭和四十七年四月二十八日の「訓論(くんゆ)」に尽きます。その「訓論」では、
現時にあっては未(いま)だ誇法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり(中略)未来において更に広布への展開を促進し
(達全二ー 一 三、大日蓮昭和四七年六月号二)
と、今はまだ誇法の徒が多く、真の広宣流布は未来のことであると明確に御指南されています。
なお、浅井は日達上人が正本堂を御遺命の戒壇と断定していると非難していますが、日達上人が御書写された昭和四十九年九月二十日の賞与御本尊 の裏書(うらがき)に、
此(こ)の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事(じ)の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 (傍線編者·本尊裏書)
と、正本堂はあくまでも御遺命の事の戒壇に準ずるものであって、直ちに御遺命 の事の戒壇ではないと明示されています。
したがって、浅井が言うように、日達上人が正本堂を御遺命の戒壇と断定したなどということは全くないのです。
当時の創価学会の折伏の進展は目を瞠(みは)るものがあり、すべての宗門人が広宣流布間近 の感を抱いていました。
当時の宗内僧俗は大きな喜びをもって正本堂の完成を待望(たいぼう)していたのです。
日達上人は、そのことを見そなわし、正本堂の完成の時は大聖人の御本意に適い、教化·化導の方軌も確定し、「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」である旨を仰せられたのです。
しかし、正本堂に関する日達上人の御本意は、昭和四十七年四月二十八日の「訓論(くんゆ)」に尽きます。その「訓論」では、
現時にあっては未(いま)だ誇法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇(しゅみだん)は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり(中略)未来において更に広布への展開を促進し
(達全二ー 一 三、大日蓮昭和四七年六月号二)
と、今はまだ誇法の徒が多く、真の広宣流布は未来のことであると明確に御指南されています。
なお、浅井は日達上人が正本堂を御遺命の戒壇と断定していると非難していますが、日達上人が御書写された昭和四十九年九月二十日の賞与御本尊 の裏書(うらがき)に、
此(こ)の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事(じ)の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 (傍線編者·本尊裏書)
と、正本堂はあくまでも御遺命の事の戒壇に準ずるものであって、直ちに御遺命 の事の戒壇ではないと明示されています。
したがって、浅井が言うように、日達上人が正本堂を御遺命の戒壇と断定したなどということは全くないのです。