ここで浅井昭衛は日達上人の「本心」が「国立戒壇」であるとばかりに主張していますが、これについて日達上人は、昭和五十年七月五日に、詳細に御指南されています。
その御指南とは、
この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快(ゆかい)、かつ迷惑なことは他にありません。
また、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとして幾度か異流義(いりゅうぎ)も出ましたが、元妙信講ほど無体(むたい)な、そして卑劣なものは例を見ないと思うのであります。
およそ人たるも の、自分の信念を述べるに当(あた)って、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。
宗門の公式見解はこうなっているが自分の意見はこうである、というように、正々堂々と述べるべきであります。
ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、”私が浅井親子だけに内意を打明(うちあ)けた"と宣伝しておるのであります。浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを貼られては、私としてはたまったものではありません。しかもその内容が私が公の席で、手続(てつづき)をふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨(むね)と正反対であるというのですから、なおさら許せません。
いうなれば、私がうその訓諭(くんゆ)や説法をして全世界の人々をあざむいているというとになってしまいます。
そんなことがあるはずのないことは常識ある方々には、すぐ分ってもらえると思います。
仮に私が本心を打ち明けるにしても、よりによって、講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打ち明けようはずのないことは自明の道理でありましょう。
しかしながら、元妙信講書の中で今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。ふだんから寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだときかされていたためか今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、浅井の荒唐無稽(こうとうむけい)な話を信じてさわいでおるから困ったものであります。
私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりがあり、みだりに人に会うことも難しい地位にあります。
そのことを利用して何も知らない人たちを”国立戒壇こそ法主の内意である”などとあざくことは卑劣この上ないやり方であり、宗門史上かつてない猊座(げいざ)に対する冒涜(ぼうとく)であると思うのであります
(達全二ー六ー四二二 大日蓮昭和五〇年九月号 一九)
というものであり、ここで日達上人は、「国立戒域」はご本心ではないと明権こ仰せられているのです。
その御指南とは、
この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快(ゆかい)、かつ迷惑なことは他にありません。
また、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとして幾度か異流義(いりゅうぎ)も出ましたが、元妙信講ほど無体(むたい)な、そして卑劣なものは例を見ないと思うのであります。
およそ人たるも の、自分の信念を述べるに当(あた)って、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。
宗門の公式見解はこうなっているが自分の意見はこうである、というように、正々堂々と述べるべきであります。
ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、”私が浅井親子だけに内意を打明(うちあ)けた"と宣伝しておるのであります。浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを貼られては、私としてはたまったものではありません。しかもその内容が私が公の席で、手続(てつづき)をふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨(むね)と正反対であるというのですから、なおさら許せません。
いうなれば、私がうその訓諭(くんゆ)や説法をして全世界の人々をあざむいているというとになってしまいます。
そんなことがあるはずのないことは常識ある方々には、すぐ分ってもらえると思います。
仮に私が本心を打ち明けるにしても、よりによって、講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打ち明けようはずのないことは自明の道理でありましょう。
しかしながら、元妙信講書の中で今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。ふだんから寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだときかされていたためか今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、浅井の荒唐無稽(こうとうむけい)な話を信じてさわいでおるから困ったものであります。
私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりがあり、みだりに人に会うことも難しい地位にあります。
そのことを利用して何も知らない人たちを”国立戒壇こそ法主の内意である”などとあざくことは卑劣この上ないやり方であり、宗門史上かつてない猊座(げいざ)に対する冒涜(ぼうとく)であると思うのであります
(達全二ー六ー四二二 大日蓮昭和五〇年九月号 一九)
というものであり、ここで日達上人は、「国立戒域」はご本心ではないと明権こ仰せられているのです。