まず「国教化」や「国立戒壇」は、田中智学が盛んに主張した語であり、日蓮正宗の伝統的な教学用語ではありません。
ここで浅井は、日達上人の御指南を歪曲(わいきょく)しています。
日達上人の御指南は、
わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
一閻浮提第一ノ本尊ヲ可以✓立ジ此国二。(新定二ー九七五)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰ぜられてはおりません。
日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当 であったのであります
(達全二ー五ー四九九、大日蓮 昭和四五年六月号一七)
というものです。
すなわち全世界の衆生を救済すべき日蓮大聖人の仏法において、一国のみにこだわる「国立戒壇」や「国教」という言葉を使うことが不適当であると御指南されたのです。
これは現今、世界広布を目指して海外の寺院,拠点で布教している僧侶や信徒が、事実上、大勢いることを深く認識すべき御指南でもあります。
「御付嘱状を見よ」と大層なことを言っていますが、
その御付嘱状『日蓮一期弘法付嘱(いちごぐほうふぞく)書』は、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人へ唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承がなされた証(あかし)となる書状であり、その末文に、
就中(なかんずく)我が門弟等此(こ)の状を守るべきなり(御書二六七五)
とあります。これは門下一同に対し、日蓮大聖人の仏法の根本命脈(めいみゃく)たる唯授一人の血脈に信伏随従(しんぷくずいじゅう)することを教示された御遺命(ゆいめい)なのです。
この御遺命に違背して信徒除名になった浅井に、日蓮大聖人の御遺命を論ずる資格はありません。
ここで浅井は、日達上人の御指南を歪曲(わいきょく)しています。
日達上人の御指南は、
わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
一閻浮提第一ノ本尊ヲ可以✓立ジ此国二。(新定二ー九七五)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰ぜられてはおりません。
日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当 であったのであります
(達全二ー五ー四九九、大日蓮 昭和四五年六月号一七)
というものです。
すなわち全世界の衆生を救済すべき日蓮大聖人の仏法において、一国のみにこだわる「国立戒壇」や「国教」という言葉を使うことが不適当であると御指南されたのです。
これは現今、世界広布を目指して海外の寺院,拠点で布教している僧侶や信徒が、事実上、大勢いることを深く認識すべき御指南でもあります。
「御付嘱状を見よ」と大層なことを言っていますが、
その御付嘱状『日蓮一期弘法付嘱(いちごぐほうふぞく)書』は、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人へ唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承がなされた証(あかし)となる書状であり、その末文に、
就中(なかんずく)我が門弟等此(こ)の状を守るべきなり(御書二六七五)
とあります。これは門下一同に対し、日蓮大聖人の仏法の根本命脈(めいみゃく)たる唯授一人の血脈に信伏随従(しんぷくずいじゅう)することを教示された御遺命(ゆいめい)なのです。
この御遺命に違背して信徒除名になった浅井に、日蓮大聖人の御遺命を論ずる資格はありません。