一例を挙げれば、第二十六世日寛上人は、
事(じ)の戒壇とは即(すなわ)ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり
(報恩抄文段·御書文段 四六九A)
と仰せられ、
第四十八世日量上人は、
(戒壇の大御本尊は)広布ノ時天母原ニ掛ケ奉ルベシ(中略) 夫(そ)レ迄(まで)ハ富士山大石寺則(すなわ)チ本門戒壇ノ根源也
(本因妙得意抄·松寿院聞書 一一|一三)
と御指南されています。
しかし日達上人は、
天生原とは大石ヶ原のことであります
(達全 二ー五ー四七○ 大日蓮 昭和五〇年 一一月号 一二)
とも。
富士山本門寺とは、当山であります。当山が大石寺と称しているのは、未だ広宣流布せざる間は暫(しばら)く大石寺と称しているのでありまして、時来らば本門寺と名乗るべきであります
(昭和四五年四月六日 霊宝虫払大法会御説法·宗務院文書)
とも仰せられ、天生原とは大石ヶ原のことであり、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立する地は、大石寺に他ならないことを御指南されています。
したがって、日達上人の御指南を拝するならば、大石寺こそが本門戒壇建立の地・天生原なのです。
事(じ)の戒壇とは即(すなわ)ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり
(報恩抄文段·御書文段 四六九A)
と仰せられ、
第四十八世日量上人は、
(戒壇の大御本尊は)広布ノ時天母原ニ掛ケ奉ルベシ(中略) 夫(そ)レ迄(まで)ハ富士山大石寺則(すなわ)チ本門戒壇ノ根源也
(本因妙得意抄·松寿院聞書 一一|一三)
と御指南されています。
しかし日達上人は、
天生原とは大石ヶ原のことであります
(達全 二ー五ー四七○ 大日蓮 昭和五〇年 一一月号 一二)
とも。
富士山本門寺とは、当山であります。当山が大石寺と称しているのは、未だ広宣流布せざる間は暫(しばら)く大石寺と称しているのでありまして、時来らば本門寺と名乗るべきであります
(昭和四五年四月六日 霊宝虫払大法会御説法·宗務院文書)
とも仰せられ、天生原とは大石ヶ原のことであり、広宣流布の暁に本門寺の戒壇を建立する地は、大石寺に他ならないことを御指南されています。
したがって、日達上人の御指南を拝するならば、大石寺こそが本門戒壇建立の地・天生原なのです。