ここでいう「天生原」とは、左京(さきょう)日教師が『類緊輸集私(るいじゅかんしゅうし)』に、
天生ヵ原に六万坊を立て法花(ほっけ)本門の戒壇を立つべきなり
(富要二ー三二三)
と主張したのが初出(しゅしゅつ)で、さらに要法寺日辰が『御書抄·報恩抄下』に、
「富士山の西南に当たりて、山名は天生山と号す。此(こ)の上に於(おい)て本門寺の本堂御影堂を建立し、岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時、彼(か)の山に於て戒壇院を建立レ
(達全、二ー五ー三三四参照)
と主張したところに端を発します。
天生原について、古来宗門では様々な伝承による説がありますが、第五十九世日亨上人は、
空談にもせよ、天生が原の寸地 にいかに重畳(ちょうじょう)しても、摩天楼(まてんろう)にしても六万の坊舎が建設せらるべきや(詳伝二六八)
と、天生原すなわち、天母山を中心とする狭隘(きょうあい)な土地に六万坊を建立することは不可能であると仰せられ、また日達上人は、
天生原とは大石ヶ原のことであります
(達全二ー五ー四七〇、大日蓮昭和五〇年一一月号一二)
と、大石寺のある大石 ヶ原こそ天生原であると御指南されています。
なお、浅井が天生原戒壇説に固執(こしゅう)する根拠として、日興上人筆と伝えられる大坊棟札(むなふだ)の、
国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり(達全二ー五ー三二七参照)
の文を挙げますが、この棟札は、第五十九世日亨上人が詳しく検証された結果、後世の贋作(がんさく)であったことが判明しています。
浅井は、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇の場所についても、迷言を吐(は)いているのです。
天生ヵ原に六万坊を立て法花(ほっけ)本門の戒壇を立つべきなり
(富要二ー三二三)
と主張したのが初出(しゅしゅつ)で、さらに要法寺日辰が『御書抄·報恩抄下』に、
「富士山の西南に当たりて、山名は天生山と号す。此(こ)の上に於(おい)て本門寺の本堂御影堂を建立し、岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時、彼(か)の山に於て戒壇院を建立レ
(達全、二ー五ー三三四参照)
と主張したところに端を発します。
天生原について、古来宗門では様々な伝承による説がありますが、第五十九世日亨上人は、
空談にもせよ、天生が原の寸地 にいかに重畳(ちょうじょう)しても、摩天楼(まてんろう)にしても六万の坊舎が建設せらるべきや(詳伝二六八)
と、天生原すなわち、天母山を中心とする狭隘(きょうあい)な土地に六万坊を建立することは不可能であると仰せられ、また日達上人は、
天生原とは大石ヶ原のことであります
(達全二ー五ー四七〇、大日蓮昭和五〇年一一月号一二)
と、大石寺のある大石 ヶ原こそ天生原であると御指南されています。
なお、浅井が天生原戒壇説に固執(こしゅう)する根拠として、日興上人筆と伝えられる大坊棟札(むなふだ)の、
国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり(達全二ー五ー三二七参照)
の文を挙げますが、この棟札は、第五十九世日亨上人が詳しく検証された結果、後世の贋作(がんさく)であったことが判明しています。
浅井は、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇の場所についても、迷言を吐(は)いているのです。