本門寺支部
木村 誠
(香川布教区広布推進会より)平成二十九年3月5日
私は昨年八月一日に勧戒を受け、本門寺信徒となりました。
今から三十八年前の昭和五十四年、小学四年生のときに創価学会を通じて、両親、妹と共に日蓮正宗へ入信しました。
かつて純真だった創価学会で
その頃はまだ、古くからの学会員が地域の中で活躍していて、私も両親と共に座談会等の会合に参加する中で、自然と五座三座の勤行の大切さを知りました。他にも、本門戒壇の大御本尊様は宗祖日蓮大聖人の出生の御本尊であらせられ功徳の源泉であること、御本尊様は絶対であること、大聖人様の仏法は七百年以上にもわたって一器の水を一器に瀉(うつ)すが如く代々の御法主上人猊下に受け継がれて現在に至っていること、日蓮正宗のみが唯一正しい信仰であり、それ以外の宗教はすべて邪教で人々を不幸にするものであること、創価学会は日蓮正宗の信徒団体であること等々、当時の創価学会の中で常識とされていたことを学び、覚えるようになりました。
総本山へ登山参詣
私にとって中学一年生のときの二回目の登山が、学会員として最後の登山となりました。昭和五十六年、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の年だったことを覚えています。
その時の総本山大石寺の清々(すがすが)しい佇(たたず)まいや、厳粛な御開扉で、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊様にお目通りさせていただき御題目を唱えた時の感激は、子供心にも深く刻まれ、今もはっきりと覚えています。その頃に大きな功徳を戴いたこともあり、御本尊様の御力の絶大であることを、身をもって実感しました。
異様な学会に距離を置く
それから何年かが過ぎ、学会の会合や集まりで多くの学会員が、池田名誉会長を絶対視し「先生、先生」と絶賛、崇拝していることにどうしてもついていけず違和感を覚えていた私は、やがて会合にも、五回誘われてしぶしぶ一回行くといったように次第に距離を置くようになりました。
そしてある時期から、聖教新聞や創価新報などの機関紙に、御宗門や前御法主日顕上人猊下、御僧侶方を誹謗中傷する記事が、センセーショナルな白抜きの大見出しで連日のように掲載されるようになりました。
同じ新聞の別の面には、聞いたこともない国や大学から授与されたという称号や勲章をぶら下げ、まるでチンドン屋のような出で立ちで得意気に写真に納まる池田の姿がありました。
本部幹部会衛星同時中継でも、それは同じでした、御法主上人猊下を呼び捨てにし、口汚く罵(ののし)り、自分のことも自ら「先生」と言い自画自賛のオンパレード、詳しい事情など判らない私でしたが、この宗教者としての品格の欠片(かけら)も感じなれない異常な姿に、
「こんなん、絶対おかしいやろ」
と、何度も母に言ったことを覚えています。この頃から、父も学会活動を全くしなくなりました。
実家になんと『ニセ本尊』が
平成五年に結婚を機に実家を出た私は、やがて長女、長男も生まれ、疑問を持っていた学会活動や信心と離れた生活をずっと送っていました。
そして平成十五年、父が糖尿病が悪化した合併症による足の神経障害、脳梗塞・腎臓の機能障害を発症して入院。退院後も病院へ通って人工透析を続なければならなくなって母だけでは心許なくなったため、私は家族を伴い実家へ帰りました。
一緒に暮らすようになって、実家の御本尊が変わっていることに気づきました。幼い頃から拝していた総本山第六十六世日達上人書写の御形木御本尊様が、全く見覚えのないものに、いつの間にか替えられていたのです。
「この御本尊、どうしたん(どうしたんだ)」
と母に尋ねると、
「新しいのに替えてもろた、古うなっていっぱい染みが出とったけん」
と言います。「誰に」と聞くと、
学会の会館へ連れていかれ、一万円を払って替えたとのこと。
「御本尊を勝手に替えたらいかんやろ」
と言うと、
「みんな替えた。こっちのほうが大きいし、きれいなけん(きれいだから)と。
私は学会から発行されたその本尊を不審に思い、手を合わせる気さえ起きませんでした。
家庭は崩壊身体も不調に
平成十六年に闘病生活を送っていた父が亡くなり、葬儀は母の希望で創価学会による友人葬で行いました。その時も、こんな葬儀でいいのかと、疑問でいっぱいでした。それからさらに十年余り過ぎた平成二十七年、今度は私自身に様々な問題が起こってきました。
広島の大学に進学していた長女と高等専門学校に進学していた長男が、同時に落第したのです。それをきっかけに家庭がうまくいかなくなり、私は離婚することになりました。長女は大学をやめ、長男は休学して東京へ出ていき、私と母の二人暮らしになってしまいました。一家離散の状況になってしまったのです。
また、その頃から私は、左眼の視界が白くかすむようになり、やがて、前が見えないほど真っ白になってしまいました。眼科に行くと重度の白内障と診断され、すぐに手術を受けることを勧められました。外的な要因ではなく血液検査でも特に異状が見られないことから、医師から
「原因不明。まれに強いストレスがかかることで白内障になることがある」との説明を受けました。
私の場合は、それだったのだと思います。
学会を信じ活動を迫る母
そんなある日、仕事から帰った私に、母が
「あんたが信心せんけん、いかんのや(信心しないからだめなんだ)」
と、学会活動をするように言い出したのです。
「学会やしたっていかん(学会なんか、したってだめだ)」
と言う私に、母は毎日同じことを言うようになり、あまりにうっとうしく感じた私は
「学会やせん、絶対にせん。(学会の信心はしない、絶対にしない)」学会やしたって、幸せになっとる人やおらん」
と言い放ちました。
『一家和楽』はどこへ破仏法により瓦解
事実、学会の同じ支部内で、毎年多額の財務(学会への金銭の寄付)をし、聖教新聞拡販のノルマのため一人で何十部も購読するような、学会で言うところの「信心強情な人」に限って、本人やその家族がガン、脳梗塞、孤独死、突然死、破産、事業の倒産、自殺、交通事故、離婚、一家離散などの不幸に見舞われ、若年であったりまだまだ現役という年齢の方が、次々に亡くなるということが続いていたのです。
父の友人葬の導師役をした支部長も、程なくしてガンを患(わずら)い、手術しては再発するということを繰り返し、六十代で亡くなりました。
次の支部長も、経営していた会社が倒産し、家は人手に渡り一家離散の上に、引っ越した先でくも膜下出血で亡くなりました。
このようなことは、ほんの一例に過ぎません。皆さんにお話しするのもはばかられるような、すさまじい事実がいくつもあるのです。
それらがすべて、私の家から半径わずか一キロメートル以内という狭い範囲で起こっている恐ろしい現実がありました。
昔、学会で理想とされていた「一家和楽の信心」をしている家など、一軒もなかったのです。これは絶対におかしいと思った私は、本やインターネットで創価学会の現状について調べるようになりました。
そして、創価学会が謗法を重ね破門に至った経緯や、『ニセ本尊』を作成販売し、「お取替え」と称して会員宅の御本尊を『ニセ本尊』と交換していること、さらには、根本中の根本であったはずの本門戒壇の大御本尊様様への信仰を捨てるなど、信じられないほどの無茶苦茶な教義変更を繰り返していることを知ったのです。
それからは、仕事から帰ると毎日のように、母に
「創価学会はとんでもない謗法団体で、今やすべてがでたらめ。まともな信心はなく、広宣流布すべきものなど何一つない完全な邪宗教に成り下がっている」
ことを繰り返し話しました。
「正法に戻ろう」
母への説得続く
「お寺にお願いして日蓮正宗に帰らせてもらう」
という私に、母は
「長年の付き合いやしがらみがあって、学会をやめることはできない」
と言うばかりでした。このとき母は学会組織の中の、白ゆり長(支部・地区には婦人部長、副婦人部長の役職があり、それがブロックでは白ゆり長、副白ゆり長となる。各ブロックに白ゆり長が一人、副白ゆり長が二人から三人置かれている)、福運グループ長(福運グループとは近所の婦人部員数名で構成する組織)、教宣部員などという、いくつもの役職を持たされていたのです。
ちょっと前ならば若手婦人部が就(つ)くようなこれらの役職に、八十三歳にもなる高齢の母が就いていること自体が、いかに創価学会に人がいなくなっているかを如実に物語っていました。
一人、本門寺へ
昨年の夏、私はこれまでの経緯と現状を、本門寺に伺って在勤の御僧侶にお話しした上で、日蓮正宗信徒に戻らせていただきたいことを御住職・梶原慈文御尊師にお取り次ぎいただいたのです。その後、八月一日に勧戒式を受け、再入信させていただくことができました。
そして、母の仏壇とは別に、小さいながらも新しいお厨子、仏具、お樒(しきみ)などを自分の部屋に用意しました。
御本尊様を御下付戴いて、八月十八日に御住職様をお迎えして入仏式を執り行っていただきました。
御住職様に接して母もついに決意
この日、御住職様は母に、御書の新尼御前と大尼御前の故事を引かれ、どんなことがあっても信心を持(たも)ち続けることの大事さ、御本尊様を御下付戴くことの有り難さをお話くださいました。
日蓮正宗への帰伏を頑(かたく)なに拒(こば)んでいた母でしたが、入仏式にお越し下さった御住職様の立派なお姿、お振る舞いに接し、日蓮正宗の正統な信心と、嘘の情報で会員を欺(あざ)き続ける謗法の創価学会とではどちらが正しいか、はっきりと判ったのだと思います。
ついに母は脱会を決意し、学会組織に『ニセ本尊』の返却と脱会を申し出たのです。それからというものは、下は地域の婦人部に始まり教宣部、上は香川総県副総合長といった、大層な役職の県下でも地位の高い幹部までが連日のように押しかけました。
母と支部総登山に参加
そのような妨害を乗り越え、翌月の九月一日に母は勧戒式を受け、晴れて再入信させていただくことができたのです。
十一月の支部総登山に母と共に参加させていただき、私は実に三十六年ぶりに本門戒壇の大御本尊様にお目通りさせていただくことができました。
御法主日如上人猊下大導師のもと、日蓮大聖人様にお題目を唱えさせていただきましたとき、再びその大慈大悲に浴することができた喜びと「大聖人様は待っていてくださったのだ」という有り難さで、胸はいっぱいになりました。
母も、以前にも増して美しく荘厳に整備された総本山の姿と、何万人という大勢の信徒が、大御本尊様にお目通りを願って参詣されていることを知りました。
それと共に、創価学会が組織を挙(あ)げて喧伝(けんでん)している
「お山は参詣する人もなく荒れ放題で、ペンペン草が生えている」
「桜の木は根こそぎ伐採(ばっさい)され、なくなってしまった」
「建物は修理もされずボロボロで、屋根の上に草が生えている」
「境内地は野犬やカラスのすみか」
などの情報が嘘八百で、卑劣な捏造(ねつぞう)であることを目の当たりにしたのです。
真実を会員に伝えたい、救いたい
母はお山から帰ると、その喜びと真実のお山の姿を、
「学会組織に騙(だま)されている会員さんにどうしても伝えたい」
と、近所の数名の学会員を訪ねて話をしました。
すると、その日のうちに教宣部幹部の知るところとなり、ものすごい形相と陰湿な言葉で、真実を伝えることをやめるよう強要されたのです。
その後しばらくの間、母はどこへ出かけるにも
「木村さん、どこ行っきょん(どこへ行くの)」と、
どこからともなく現れた教宣部員にいきなり背後から声をかけられる、といったように監視され、尾行される状況が続きました。
その一方で、学会員の中には、献身的ですばらしい方がたくさんいることも事実なのです。
その方々は、信じているものが誤りであることを知らず、以前の母がそうであったように、学会から打ち出されるままに、ひたすら活動しています。
力のない私ではありますが、そういった方々を、悪鬼魔神の正体を露(あら)わにした創価学会の魔の手から、手遅れになる前に何とか一人でも救い出したい、という気持ちでいっぱいです。
日々感じる功徳
さて、年も改まり本年正月の三日、本門戒壇の大御本尊様の御前で、有り難くも長男と姪の二人が御受戒を受けさせていただきました。
また、春季総登山会に、母と共に登山参詣させていただきました。
長年にわたり信心から遠ざかっていましたが、正真の御本尊様を御下付戴いて朝夕の勤行・唱題を根本にした生活を取り戻し、これまで積んできた謗法をお詫び申し上げ、罪障消滅を御祈念する毎日を過ごしています。まだまだ克服すべき課題はたくさんありますが、確実に日々、御本尊様の功徳を感じながら、毎日の生活を送らせていただいています。
安心して励める福徳
御報恩を誓って
また、七百年の歴史と伝統ある本門寺の信徒にさせていただいたことに我が身の福徳を感じると共に、信心を御指導くださいます梶原御住職様、在勤の御尊師方、さらに、何も判らない私たちに親切に接し、いろいろ教えて下さる島田総代さん、中之坊の秋山さんをはじめ諸々の役職の方々、本門寺支部の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。
まだまだ信心未熟ではありますが、御本尊様への報恩感謝の気持ちをけっして忘れることなく、御法主日如上人猊下御指南のもと、平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節におかれての
「法華講員八十万人体勢構築」に向かって折伏誓願目標達成のお役に立てますよう、日々精進してまいる所存です。
(大白法 第九六0号 平成二十九年七月一日)
木村 誠
(香川布教区広布推進会より)平成二十九年3月5日
私は昨年八月一日に勧戒を受け、本門寺信徒となりました。
今から三十八年前の昭和五十四年、小学四年生のときに創価学会を通じて、両親、妹と共に日蓮正宗へ入信しました。
かつて純真だった創価学会で
その頃はまだ、古くからの学会員が地域の中で活躍していて、私も両親と共に座談会等の会合に参加する中で、自然と五座三座の勤行の大切さを知りました。他にも、本門戒壇の大御本尊様は宗祖日蓮大聖人の出生の御本尊であらせられ功徳の源泉であること、御本尊様は絶対であること、大聖人様の仏法は七百年以上にもわたって一器の水を一器に瀉(うつ)すが如く代々の御法主上人猊下に受け継がれて現在に至っていること、日蓮正宗のみが唯一正しい信仰であり、それ以外の宗教はすべて邪教で人々を不幸にするものであること、創価学会は日蓮正宗の信徒団体であること等々、当時の創価学会の中で常識とされていたことを学び、覚えるようになりました。
総本山へ登山参詣
私にとって中学一年生のときの二回目の登山が、学会員として最後の登山となりました。昭和五十六年、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の年だったことを覚えています。
その時の総本山大石寺の清々(すがすが)しい佇(たたず)まいや、厳粛な御開扉で、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊様にお目通りさせていただき御題目を唱えた時の感激は、子供心にも深く刻まれ、今もはっきりと覚えています。その頃に大きな功徳を戴いたこともあり、御本尊様の御力の絶大であることを、身をもって実感しました。
異様な学会に距離を置く
それから何年かが過ぎ、学会の会合や集まりで多くの学会員が、池田名誉会長を絶対視し「先生、先生」と絶賛、崇拝していることにどうしてもついていけず違和感を覚えていた私は、やがて会合にも、五回誘われてしぶしぶ一回行くといったように次第に距離を置くようになりました。
そしてある時期から、聖教新聞や創価新報などの機関紙に、御宗門や前御法主日顕上人猊下、御僧侶方を誹謗中傷する記事が、センセーショナルな白抜きの大見出しで連日のように掲載されるようになりました。
同じ新聞の別の面には、聞いたこともない国や大学から授与されたという称号や勲章をぶら下げ、まるでチンドン屋のような出で立ちで得意気に写真に納まる池田の姿がありました。
本部幹部会衛星同時中継でも、それは同じでした、御法主上人猊下を呼び捨てにし、口汚く罵(ののし)り、自分のことも自ら「先生」と言い自画自賛のオンパレード、詳しい事情など判らない私でしたが、この宗教者としての品格の欠片(かけら)も感じなれない異常な姿に、
「こんなん、絶対おかしいやろ」
と、何度も母に言ったことを覚えています。この頃から、父も学会活動を全くしなくなりました。
実家になんと『ニセ本尊』が
平成五年に結婚を機に実家を出た私は、やがて長女、長男も生まれ、疑問を持っていた学会活動や信心と離れた生活をずっと送っていました。
そして平成十五年、父が糖尿病が悪化した合併症による足の神経障害、脳梗塞・腎臓の機能障害を発症して入院。退院後も病院へ通って人工透析を続なければならなくなって母だけでは心許なくなったため、私は家族を伴い実家へ帰りました。
一緒に暮らすようになって、実家の御本尊が変わっていることに気づきました。幼い頃から拝していた総本山第六十六世日達上人書写の御形木御本尊様が、全く見覚えのないものに、いつの間にか替えられていたのです。
「この御本尊、どうしたん(どうしたんだ)」
と母に尋ねると、
「新しいのに替えてもろた、古うなっていっぱい染みが出とったけん」
と言います。「誰に」と聞くと、
学会の会館へ連れていかれ、一万円を払って替えたとのこと。
「御本尊を勝手に替えたらいかんやろ」
と言うと、
「みんな替えた。こっちのほうが大きいし、きれいなけん(きれいだから)と。
私は学会から発行されたその本尊を不審に思い、手を合わせる気さえ起きませんでした。
家庭は崩壊身体も不調に
平成十六年に闘病生活を送っていた父が亡くなり、葬儀は母の希望で創価学会による友人葬で行いました。その時も、こんな葬儀でいいのかと、疑問でいっぱいでした。それからさらに十年余り過ぎた平成二十七年、今度は私自身に様々な問題が起こってきました。
広島の大学に進学していた長女と高等専門学校に進学していた長男が、同時に落第したのです。それをきっかけに家庭がうまくいかなくなり、私は離婚することになりました。長女は大学をやめ、長男は休学して東京へ出ていき、私と母の二人暮らしになってしまいました。一家離散の状況になってしまったのです。
また、その頃から私は、左眼の視界が白くかすむようになり、やがて、前が見えないほど真っ白になってしまいました。眼科に行くと重度の白内障と診断され、すぐに手術を受けることを勧められました。外的な要因ではなく血液検査でも特に異状が見られないことから、医師から
「原因不明。まれに強いストレスがかかることで白内障になることがある」との説明を受けました。
私の場合は、それだったのだと思います。
学会を信じ活動を迫る母
そんなある日、仕事から帰った私に、母が
「あんたが信心せんけん、いかんのや(信心しないからだめなんだ)」
と、学会活動をするように言い出したのです。
「学会やしたっていかん(学会なんか、したってだめだ)」
と言う私に、母は毎日同じことを言うようになり、あまりにうっとうしく感じた私は
「学会やせん、絶対にせん。(学会の信心はしない、絶対にしない)」学会やしたって、幸せになっとる人やおらん」
と言い放ちました。
『一家和楽』はどこへ破仏法により瓦解
事実、学会の同じ支部内で、毎年多額の財務(学会への金銭の寄付)をし、聖教新聞拡販のノルマのため一人で何十部も購読するような、学会で言うところの「信心強情な人」に限って、本人やその家族がガン、脳梗塞、孤独死、突然死、破産、事業の倒産、自殺、交通事故、離婚、一家離散などの不幸に見舞われ、若年であったりまだまだ現役という年齢の方が、次々に亡くなるということが続いていたのです。
父の友人葬の導師役をした支部長も、程なくしてガンを患(わずら)い、手術しては再発するということを繰り返し、六十代で亡くなりました。
次の支部長も、経営していた会社が倒産し、家は人手に渡り一家離散の上に、引っ越した先でくも膜下出血で亡くなりました。
このようなことは、ほんの一例に過ぎません。皆さんにお話しするのもはばかられるような、すさまじい事実がいくつもあるのです。
それらがすべて、私の家から半径わずか一キロメートル以内という狭い範囲で起こっている恐ろしい現実がありました。
昔、学会で理想とされていた「一家和楽の信心」をしている家など、一軒もなかったのです。これは絶対におかしいと思った私は、本やインターネットで創価学会の現状について調べるようになりました。
そして、創価学会が謗法を重ね破門に至った経緯や、『ニセ本尊』を作成販売し、「お取替え」と称して会員宅の御本尊を『ニセ本尊』と交換していること、さらには、根本中の根本であったはずの本門戒壇の大御本尊様様への信仰を捨てるなど、信じられないほどの無茶苦茶な教義変更を繰り返していることを知ったのです。
それからは、仕事から帰ると毎日のように、母に
「創価学会はとんでもない謗法団体で、今やすべてがでたらめ。まともな信心はなく、広宣流布すべきものなど何一つない完全な邪宗教に成り下がっている」
ことを繰り返し話しました。
「正法に戻ろう」
母への説得続く
「お寺にお願いして日蓮正宗に帰らせてもらう」
という私に、母は
「長年の付き合いやしがらみがあって、学会をやめることはできない」
と言うばかりでした。このとき母は学会組織の中の、白ゆり長(支部・地区には婦人部長、副婦人部長の役職があり、それがブロックでは白ゆり長、副白ゆり長となる。各ブロックに白ゆり長が一人、副白ゆり長が二人から三人置かれている)、福運グループ長(福運グループとは近所の婦人部員数名で構成する組織)、教宣部員などという、いくつもの役職を持たされていたのです。
ちょっと前ならば若手婦人部が就(つ)くようなこれらの役職に、八十三歳にもなる高齢の母が就いていること自体が、いかに創価学会に人がいなくなっているかを如実に物語っていました。
一人、本門寺へ
昨年の夏、私はこれまでの経緯と現状を、本門寺に伺って在勤の御僧侶にお話しした上で、日蓮正宗信徒に戻らせていただきたいことを御住職・梶原慈文御尊師にお取り次ぎいただいたのです。その後、八月一日に勧戒式を受け、再入信させていただくことができました。
そして、母の仏壇とは別に、小さいながらも新しいお厨子、仏具、お樒(しきみ)などを自分の部屋に用意しました。
御本尊様を御下付戴いて、八月十八日に御住職様をお迎えして入仏式を執り行っていただきました。
御住職様に接して母もついに決意
この日、御住職様は母に、御書の新尼御前と大尼御前の故事を引かれ、どんなことがあっても信心を持(たも)ち続けることの大事さ、御本尊様を御下付戴くことの有り難さをお話くださいました。
日蓮正宗への帰伏を頑(かたく)なに拒(こば)んでいた母でしたが、入仏式にお越し下さった御住職様の立派なお姿、お振る舞いに接し、日蓮正宗の正統な信心と、嘘の情報で会員を欺(あざ)き続ける謗法の創価学会とではどちらが正しいか、はっきりと判ったのだと思います。
ついに母は脱会を決意し、学会組織に『ニセ本尊』の返却と脱会を申し出たのです。それからというものは、下は地域の婦人部に始まり教宣部、上は香川総県副総合長といった、大層な役職の県下でも地位の高い幹部までが連日のように押しかけました。
母と支部総登山に参加
そのような妨害を乗り越え、翌月の九月一日に母は勧戒式を受け、晴れて再入信させていただくことができたのです。
十一月の支部総登山に母と共に参加させていただき、私は実に三十六年ぶりに本門戒壇の大御本尊様にお目通りさせていただくことができました。
御法主日如上人猊下大導師のもと、日蓮大聖人様にお題目を唱えさせていただきましたとき、再びその大慈大悲に浴することができた喜びと「大聖人様は待っていてくださったのだ」という有り難さで、胸はいっぱいになりました。
母も、以前にも増して美しく荘厳に整備された総本山の姿と、何万人という大勢の信徒が、大御本尊様にお目通りを願って参詣されていることを知りました。
それと共に、創価学会が組織を挙(あ)げて喧伝(けんでん)している
「お山は参詣する人もなく荒れ放題で、ペンペン草が生えている」
「桜の木は根こそぎ伐採(ばっさい)され、なくなってしまった」
「建物は修理もされずボロボロで、屋根の上に草が生えている」
「境内地は野犬やカラスのすみか」
などの情報が嘘八百で、卑劣な捏造(ねつぞう)であることを目の当たりにしたのです。
真実を会員に伝えたい、救いたい
母はお山から帰ると、その喜びと真実のお山の姿を、
「学会組織に騙(だま)されている会員さんにどうしても伝えたい」
と、近所の数名の学会員を訪ねて話をしました。
すると、その日のうちに教宣部幹部の知るところとなり、ものすごい形相と陰湿な言葉で、真実を伝えることをやめるよう強要されたのです。
その後しばらくの間、母はどこへ出かけるにも
「木村さん、どこ行っきょん(どこへ行くの)」と、
どこからともなく現れた教宣部員にいきなり背後から声をかけられる、といったように監視され、尾行される状況が続きました。
その一方で、学会員の中には、献身的ですばらしい方がたくさんいることも事実なのです。
その方々は、信じているものが誤りであることを知らず、以前の母がそうであったように、学会から打ち出されるままに、ひたすら活動しています。
力のない私ではありますが、そういった方々を、悪鬼魔神の正体を露(あら)わにした創価学会の魔の手から、手遅れになる前に何とか一人でも救い出したい、という気持ちでいっぱいです。
日々感じる功徳
さて、年も改まり本年正月の三日、本門戒壇の大御本尊様の御前で、有り難くも長男と姪の二人が御受戒を受けさせていただきました。
また、春季総登山会に、母と共に登山参詣させていただきました。
長年にわたり信心から遠ざかっていましたが、正真の御本尊様を御下付戴いて朝夕の勤行・唱題を根本にした生活を取り戻し、これまで積んできた謗法をお詫び申し上げ、罪障消滅を御祈念する毎日を過ごしています。まだまだ克服すべき課題はたくさんありますが、確実に日々、御本尊様の功徳を感じながら、毎日の生活を送らせていただいています。
安心して励める福徳
御報恩を誓って
また、七百年の歴史と伝統ある本門寺の信徒にさせていただいたことに我が身の福徳を感じると共に、信心を御指導くださいます梶原御住職様、在勤の御尊師方、さらに、何も判らない私たちに親切に接し、いろいろ教えて下さる島田総代さん、中之坊の秋山さんをはじめ諸々の役職の方々、本門寺支部の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。
まだまだ信心未熟ではありますが、御本尊様への報恩感謝の気持ちをけっして忘れることなく、御法主日如上人猊下御指南のもと、平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節におかれての
「法華講員八十万人体勢構築」に向かって折伏誓願目標達成のお役に立てますよう、日々精進してまいる所存です。
(大白法 第九六0号 平成二十九年七月一日)