北海道俱知安町・知法寺支部 菅原 正代
私は昭和四十六年、四歳の時に、創価学会員であった父に連れられ、小樽の妙照寺で御受戒を受けました。
その後、何があったのか、父は創価学会から離れてしまいましたが、私は中等部・高等部と、学会活動に励んでおりました。そして、専門学校卒業後の平成二年に、一人暮らしのアパートへ妙照寺から御本尊様を下附していただき、御安置しました。
その頃はまだ、創価学会も日蓮正宗の信徒団体でした。
私はアナウンサーになりたいという夢があったのですが、両親が経営していた会社を手伝うこととなり、仕事を優先しているうちにだんだんと御本尊様の前に座らなくなり、学会の会合からも足が遠のいていきました。
ニセ本尊に替えた後、次々と暗雲が!
そのような中の平成九年の秋頃、学会員から「御本尊を取り替えるように」と言われ、初めは反発したものの、『聖教新聞』の購読を機に、会合にも参加するようになって、とうとう平成十年に学会版のニセ本尊に取り替えてしまいました。そして、再び、学会活動や選挙活動にも積極的に取り組み、ニセ本尊に向かって勤行・唱題に励みました。
ところが、ここから、私の人生は大きく変わり出したのです。
平成十四年、婚約していた相手が事故で片目を失明し、それでも婿(むこ)養子として迎えて結婚したものの、すぐに私は流産し、さらに夫が車両事故を起こしたことがキッカケで、夫は父から勘当され、離婚となってしまいました。
その後、父が脳梗塞で倒れて入院し、母と私は看病に付き添い、大変な日々でした。
父がそんな状況ですから、商売も行き詰まり、借金はどんどん膨(ふく)らむばかりです。平成十六年、私は心労と不安から眠れなくなり、気がつけばウツ病になっていました。
ウツ病のために病院に入院し、退院後は薬も飲んでおりましたが、まったく回復せず、人に会うのが怖くて、毎日、「死にたい」と思いながら、父が亡くなる平成二十四年までの約八年間、引きこもりの生活をしていました。
ウツ病と引きこもりの中で正信に戻る
父が亡くなった時に電話をくれたのが、現在の知法寺支部講頭の山田博子さんでした。
山田さんは、私が中学生の時、お宅にお邪魔して朝の勤行を教えてもらったり、会合に連れて行ってもらったりと、お世話になった方ですが、山田さんが別の地区の学会組織へ派遣されてから疎遠になってしまいました。その後、創価学会が日蓮正宗から破門されて、山田さんは法華講員となり、銀行やスーパーでバッタリ会うたび、「早く学会をやめなさい」と言われておりました。
その山田さんが、父の葬儀終了後、我が家に折伏に来てくださいました。そして、創価学会は謗法団体になったこと、学会の本尊はニセモノであること、日蓮正宗のお寺に付いて正しく信心していかなければ幸せになれないことなどを話してくださったのです。
おかげで父が亡くなってから十三日後、私は母と共に知法寺で勧戒を受けることができました。
知法寺の三島御住職には、父が昔、御下附いただいていた御本尊の表装替えをしていただき、ニセ本尊を処分して入仏式をしていただきました。
しかし、ウツ病を抱え、長年の引きこもり状態からの再スタートでしたので、初めからスッキリとはいかず、二年間はお寺への参詣も朝夕の勤行も休みがちでした。
一歩進んでは二歩下がるという状態で、なかなか前に進めないでいたのです。
しかし、そのような私を山田さんは見捨てることなく励まし続けてくださり総本山にも何度か連れて行ってくださいました。すると、登山するたびに前向きな気持ちになって、パートの仕事もできるようになり父が残した借金や財産の整理に動けるようになりました。
そしてパートをしながら、正社員の仕事を求めて就職活動も始めました。一年間で十二社受け、とうとう十二社目で、現在勤める会社に就職することができました。資格もなく年齢も若くはないので、非常に厳しい状況でしたが、応募した中で一番よい条件の会社に採用が決まったのです。
本当に御本尊様のお導きだ、と感謝しております。
折伏してきた会社の会長が入信
今年の三月には、かねてから折伏してきた会社の会長が、ついに御受戒を受けることができました。
会長の家は身延の日蓮宗で、年齢も八十代半ばですが、日蓮宗の害毒で一家はバラバラで、御自身も病気を抱えた状況でした。当初は
「俺は神も仏も信じない!」
と頑(かたく)なに言っていた会長ですが、粘り強く折伏を続けてきたところ、突然、「お寺に行ってみる」と言ってこられたのです。
知法寺の御本尊様に向かい、私の隣で「南無妙法蓮華経」と唱える会長の声を聞いた時、私は感激のあまり涙が溢れていました。
私が法華講員となってから六年間、三島御住職様と奥様をはじめ、山田さんやお寺さんの皆さんにも大変お世話になりながら、少しずつ前に進んでこられたと思います。
毎月の御報恩御講の際に全員で拝読する御文があります。それは
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」
という『諸法実相抄』の御文です。
この御文を肝(きも)に銘じ、これからは御本尊様に御報恩感謝をするためにも、唱題に励み、相手を選ばず、諦めることなく折伏を頑張っていきたいと思います。
そして、邪義邪宗をしっかりと破折していけるように教学も学び、精進してまいります。
(慧妙平成30年9月16日号)
私は昭和四十六年、四歳の時に、創価学会員であった父に連れられ、小樽の妙照寺で御受戒を受けました。
その後、何があったのか、父は創価学会から離れてしまいましたが、私は中等部・高等部と、学会活動に励んでおりました。そして、専門学校卒業後の平成二年に、一人暮らしのアパートへ妙照寺から御本尊様を下附していただき、御安置しました。
その頃はまだ、創価学会も日蓮正宗の信徒団体でした。
私はアナウンサーになりたいという夢があったのですが、両親が経営していた会社を手伝うこととなり、仕事を優先しているうちにだんだんと御本尊様の前に座らなくなり、学会の会合からも足が遠のいていきました。
ニセ本尊に替えた後、次々と暗雲が!
そのような中の平成九年の秋頃、学会員から「御本尊を取り替えるように」と言われ、初めは反発したものの、『聖教新聞』の購読を機に、会合にも参加するようになって、とうとう平成十年に学会版のニセ本尊に取り替えてしまいました。そして、再び、学会活動や選挙活動にも積極的に取り組み、ニセ本尊に向かって勤行・唱題に励みました。
ところが、ここから、私の人生は大きく変わり出したのです。
平成十四年、婚約していた相手が事故で片目を失明し、それでも婿(むこ)養子として迎えて結婚したものの、すぐに私は流産し、さらに夫が車両事故を起こしたことがキッカケで、夫は父から勘当され、離婚となってしまいました。
その後、父が脳梗塞で倒れて入院し、母と私は看病に付き添い、大変な日々でした。
父がそんな状況ですから、商売も行き詰まり、借金はどんどん膨(ふく)らむばかりです。平成十六年、私は心労と不安から眠れなくなり、気がつけばウツ病になっていました。
ウツ病のために病院に入院し、退院後は薬も飲んでおりましたが、まったく回復せず、人に会うのが怖くて、毎日、「死にたい」と思いながら、父が亡くなる平成二十四年までの約八年間、引きこもりの生活をしていました。
ウツ病と引きこもりの中で正信に戻る
父が亡くなった時に電話をくれたのが、現在の知法寺支部講頭の山田博子さんでした。
山田さんは、私が中学生の時、お宅にお邪魔して朝の勤行を教えてもらったり、会合に連れて行ってもらったりと、お世話になった方ですが、山田さんが別の地区の学会組織へ派遣されてから疎遠になってしまいました。その後、創価学会が日蓮正宗から破門されて、山田さんは法華講員となり、銀行やスーパーでバッタリ会うたび、「早く学会をやめなさい」と言われておりました。
その山田さんが、父の葬儀終了後、我が家に折伏に来てくださいました。そして、創価学会は謗法団体になったこと、学会の本尊はニセモノであること、日蓮正宗のお寺に付いて正しく信心していかなければ幸せになれないことなどを話してくださったのです。
おかげで父が亡くなってから十三日後、私は母と共に知法寺で勧戒を受けることができました。
知法寺の三島御住職には、父が昔、御下附いただいていた御本尊の表装替えをしていただき、ニセ本尊を処分して入仏式をしていただきました。
しかし、ウツ病を抱え、長年の引きこもり状態からの再スタートでしたので、初めからスッキリとはいかず、二年間はお寺への参詣も朝夕の勤行も休みがちでした。
一歩進んでは二歩下がるという状態で、なかなか前に進めないでいたのです。
しかし、そのような私を山田さんは見捨てることなく励まし続けてくださり総本山にも何度か連れて行ってくださいました。すると、登山するたびに前向きな気持ちになって、パートの仕事もできるようになり父が残した借金や財産の整理に動けるようになりました。
そしてパートをしながら、正社員の仕事を求めて就職活動も始めました。一年間で十二社受け、とうとう十二社目で、現在勤める会社に就職することができました。資格もなく年齢も若くはないので、非常に厳しい状況でしたが、応募した中で一番よい条件の会社に採用が決まったのです。
本当に御本尊様のお導きだ、と感謝しております。
折伏してきた会社の会長が入信
今年の三月には、かねてから折伏してきた会社の会長が、ついに御受戒を受けることができました。
会長の家は身延の日蓮宗で、年齢も八十代半ばですが、日蓮宗の害毒で一家はバラバラで、御自身も病気を抱えた状況でした。当初は
「俺は神も仏も信じない!」
と頑(かたく)なに言っていた会長ですが、粘り強く折伏を続けてきたところ、突然、「お寺に行ってみる」と言ってこられたのです。
知法寺の御本尊様に向かい、私の隣で「南無妙法蓮華経」と唱える会長の声を聞いた時、私は感激のあまり涙が溢れていました。
私が法華講員となってから六年間、三島御住職様と奥様をはじめ、山田さんやお寺さんの皆さんにも大変お世話になりながら、少しずつ前に進んでこられたと思います。
毎月の御報恩御講の際に全員で拝読する御文があります。それは
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」
という『諸法実相抄』の御文です。
この御文を肝(きも)に銘じ、これからは御本尊様に御報恩感謝をするためにも、唱題に励み、相手を選ばず、諦めることなく折伏を頑張っていきたいと思います。
そして、邪義邪宗をしっかりと破折していけるように教学も学び、精進してまいります。
(慧妙平成30年9月16日号)