東京都・善福寺支部
大渕 清子
一家で入信し女子部の活動家に
我が家は、昭和二十八年四月に、東京池袋の常在寺で御受戒を受けて創価学会に入りました。当時の創価学会は、日蓮正宗の信徒団体として、戸田二代会長の号令のもと、「折伏大行進」の真っ只中でした。
入信のきっかけは母の病気です。母は四人姉妹の末っ子である私を出産すると、心臓、腎臓、肝臓他、内臓の様々な病気を発症し、それを治したい一心でたくさんの宗教に関わりました。しかし病状は一向に良くならず、その時、たまたま近所の創価学会員から話を聞き、藁(わら)にもすがる思いで入信したのです。
創価学会に入るや、母は、真剣に朝晩の勤行、唱題、折伏に励みました。すると、母はどんどん元気になり、数ヵ月もしないうちに病気が治ってしまったのです。
それに感激した母は、一人でも多くの人にこの仏法の偉大さを話したいと、乳飲み子の私を背負って、毎日折伏に歩きました。
母と私はいつも一緒でした。池袋・豊島公会堂で開かれる戸田先生の”金曜講義”にも、私は母に背負われて毎日参加をしていたそうです。
やがて、池田大作が第三代会長に就任し、私は、板橋区の女子部として青春を過ごしました。
選挙の時などは遊説カーに乗り、「〇〇をよろしくお願いします!」と、公明党の候補者名を声をからして連呼しておりました。
当時の私は、学会活動の一端として、何の疑問も抱かず、むしろ使命感に燃えて選挙活動に頑張っていたのです。
学会内部からの改革を決意
さて、創価学会は平成三年に日蓮正宗から破門され、今では完全に邪教集団となってしまいましたが、破門に至る過程で、日蓮正宗に反逆しようとする池田大作の本音が明るみに出たのは、いわゆる「11・16」--すなわち平成二年十一月十六日の本部幹部会における池田スピーチでした。
ところが、日蓮正宗が問題視したこの録音テープを、創価学会側は「出所不明の代物(しろもの)だ」と言い張り、池田の問題発言に対する指摘を”言い掛かり”と反発しました。
しかし、あの「11・16」の録音は、当時学会の女子部本部長であった私が、会場で直(じか)に録(と)ったものなのです。今、その時の経緯を明らかにしたいと思います。
## ## ##
私が小川頼宣さん(元学会本部広報副部長)と後藤順子さんに連れられて福島源次郎さん(元・学会副会長)のお宅を訪問したのは、平成元年八月のことでした。
その当時の私は、原島嵩氏(元・教学部長)や山崎正友氏(元・学会顧問弁護士)らの内部告発によって次々に明るみに出た池田大作の金銭・女性スキャンダル等を耳にし、学会幹部の言う”素晴らしい池田センセイ”と”スキャンダルまみれの池田大作”のあまりのギャップに、頭の中は混乱していました。
福島源次郎さんは、私達に対し、「それは池田の妙法観、本尊観、師弟論の誤りから引き起こされているのです」と真剣に話してくれました。
そして、福島さんが執筆中だった『蘇生(そせい)への選択』の内容にも触れて、学会内部からの改革を志していることを打ち明けてくれたのです。
私達はその場で、一緒に戦うことを決意し、「蘇生の集(つど)い事務局」を立ち上げました。『蘇生への選択』が発売されると同時に『月刊アサヒ』で「池田大作のウソとカネ」という特集が組まれました。
読者からは賛同の声、批判の声が寄せられました。そうした中で、小川さんと後藤さんを中心に、賛同者に声を掛け、池袋の区民センターで池田の邪義を正す勉強会を開催しました。
第一回の受講者は二十人でしたが、やがて関西、中部、九州、北海道まで広がる全国的な勉強会となりました。
池田の邪義から解放されていくごとに、不思議と気分がすっきりと晴れるのです。
一方、学会の妨害は激しく、会場の出入り口には不審な車が駐車し、参加者の顔写真を撮ったり尾行して、自宅をつきとめたりしました。
我が家にも朝起きると玄関先にゴミ袋が散乱した状態で置かれたり、玄関の扉には汚物が塗られたりして大変な日々でした。
学会の大幹部は「福島さんの言うことが正しいなら、日顕猊下が池田先生を総講頭にされるワケがない」と言って、賛同者の切り崩しにかかりました。
「11・16 池田スピーチ」の録音に成功!
福島さんと小川さんが大阪や北海道の勉強会に行った時のことです。ある御尊師から、
「池田は間違っています。しかし証拠がありません。証拠がほしいですね」
と言われたとのこと、そこで私達は、「池田の問題発言を録音しよう!」ということにしました。
今から思えば、怖いもの知らずです。
平成二年、実際に本部幹部会での池田大作のスピーチを録音することにし、まず機材をそろえるところから始め、私達は秋葉原に行き、高性能のワイヤレスマイクなどを二セット買い求めました。
一回目は、私が一人、送信機を持って会場の渋谷文化会館の中に入り、他のメンバーは、近くのホテルで受信録音をすることになっていました。
ところが、会合終了後、私が意気揚々と皆の所に戻り、ふとバックの中を見ると、機械の入力ランプが消えているではありませんか。スイッチが入っていなかったのです!
会場で何度も何度もスイッチの点検をしたはずだったのですが、緊張のあまり、逆にスイッチを消してしまったようです。
次こそは、と二回目に臨(のぞ)みました。今度はうまくいった、と胸をなでおろしたのですが、高性能の機材が聴診器のように心臓の音を拾ってしまい、肝心の池田のスピーチが聞こえません。
三回目は、マイクの位置を変えたことによってきれいに録音されたのですが、またも操作ミスで、テープの片面のみしか入っておらず、肝心の池田のスピーチはほんの少ししか入っていません。
そして、平成二年十一月十六日、四回目の挑戦です。場所は、同じく渋谷文化会館です。
この時は念のため、もう一人がテープレコーダーを持ち込むことになりました。録音テープは、両面ともきれいに入っていました。
その夜のうちに小川さんが録音テープを福島さんに届け、福島さんは重大な覚悟で、それを総本山の日顕上人猊下に送られました。
この「11・16」の録音テープが、創価学会の謗法路線を明るみにする発端となり、後に池田大作の総講頭資格喪失から創価学会の破門にまで至ったのですが、当初は、こんな大きな影響を与えるとは想像もつきませんでした。
今でも渋谷を通るたびに、あの時の「ドキドキ感」が鮮やかに思い出されます。私にとって、十一月十六日は、一生忘れられない”テープ記念日”です。
第六十七世日顕上人猊下のお言葉
それから十四年後、「御法主日顕上人猊下御登座二十五周年奉祝行事の砌(みぎり)」のお言葉の中に、
「平成二年は大石寺開創七百年の年なのです。この時に創価学会の謗法が具体的にはっきり出てきたのです。そのはっきりした最初が『11・16』なのである。(中略)ある人が命懸けで中へ潜入して、ある所で始めからしまいまでのスピーチを録ってっくれたわけです。それがこちらの手に入ったので、創価学会に『どういうことですか』とそのテープを提示して聞いただけなのです。
ところがそれに対して創価学会は荒れ狂いました。なぜそんなに荒れ狂う必要があるのか。堂々と言っていることなら、それに対してまた堂々と返事をしたらよいではないか。けれども、彼らが言ったことはどうだ。
『こんなテープはうそなのだ』と、全部、うそだと言うのです。いかに彼らの考え方の表と裏とが違っているかということが色々な形で解るだろうと思うのです。そういうことから、どうしても創価学会は直らないので、
はっきりとけじめをつけて、平成三年に破門にしたのです」
(『大日蓮』平成十六年九月号)
との有り難いお言葉がありました。まことにもったいないかぎりです。
内部改革運動を終え
学会を破門にされて、私達は内部改革運動を推進してきた「蘇生の集い」の使命が終わったことを感じました。そこで、私達は平成三年十二月、創価学会を脱会し、晴れて日蓮正宗寺院に所属する法華講員となりました。
それと前後して、私はいわば”テープ仲間”である大渕と結婚しました。
主人は、大手通信社に勤めておりましたが、「11・16」のテープを録ってからドンドン出世しました。高学歴ではないにもかかわらず、考えてもいなかった功徳をいただきました。
一方、母は、学会からの取り込み攻勢に屈して、私の活動に対して狂ったように反対し、「仏法は勝負! 必ず結果が出るからね」などと学会支持を口にしていたのですが、平成十九年四月に病で倒れてしまいました。
その母の入院中の平成二十年、同じく学会員だった姉が、交通事故で亡くなりました。姉は、青信号の横断歩道を歩いている最中、四トントラックに胸を轢(ひ)かれて即死したのです。
姉は、私の話には人が変わったように猛反対し、睡眠時間を削ってまで学会のニセ本尊に手を合わせていました。
私はショックを受けている母に、思い切って、『まじめ一方の姉ちゃんがこんな死に方をするなんておかしくない? 成仏とは程遠いいよね。これは罰だと思う」
と言うと、母は素直にうなずきました。十五年近く閉ざされていた母の心が開けれ始めたのです。この時ほど御本尊様のお力をありがたく思ったことはありません。
功徳でガンを早期発見
平成二十四年十一月、日曜日の明け方のことです。
身の置き所がないくらいの下腹全体の痛みで目が覚めました。
病院で検査してもらったところ、その時は、単なる便秘という診断だったのですが、その後も、便秘ではないのに下腹部に違和感があり、再度、内視鏡の権威である専門医に診察してもらいました。
すると、エコー検査で「膵臓(すいぞう)に腫瘍(しゅよう)がある」と言われ、日を改めてCT検査をすることになりました。
私は、膵臓ガンを覚悟し、「何があっても、御本尊様の功徳で治してみせる」と決意していました。
そして、CT検査を受けた結果、納得がいかないような表情で念入りに画像を見ていた医師から出た言葉は、「あったはずの腫瘍が無くなっている」というものでした。
やったー!第一関門突破です。
その後、さらに念のために受けた内視鏡検査で、食道ガンが見つかりました。まだ、初期の段階で、直ちにレーザーメスの手術をしたところ、、無事切除され、危機は回避されました。
もし、あの時、便座による下腹部の猛烈な痛みがなければ、また、あったはずの膵臓の腫瘍が消えている現証がなければ、ここまで念入りな検査も受けず、食道ガンは手遅れになっていたでしょう。
私は、御本尊様の功徳の不思議をしみじみと思わざるをえませんでした。
もし、学会員のままでいたら、邪信からニセ本尊へと進み、いかなる厳罰の人生を送っていたかと考えると、心底恐ろしくなります。
学会員の皆さんには、早く池田大作の謗法の酔いから覚めて、速やかに総本山大石寺の戒壇の大御本尊様に参詣されますことを願うばかりです。
(慧妙 平成二十九年十一月十六日号)
大渕 清子
一家で入信し女子部の活動家に
我が家は、昭和二十八年四月に、東京池袋の常在寺で御受戒を受けて創価学会に入りました。当時の創価学会は、日蓮正宗の信徒団体として、戸田二代会長の号令のもと、「折伏大行進」の真っ只中でした。
入信のきっかけは母の病気です。母は四人姉妹の末っ子である私を出産すると、心臓、腎臓、肝臓他、内臓の様々な病気を発症し、それを治したい一心でたくさんの宗教に関わりました。しかし病状は一向に良くならず、その時、たまたま近所の創価学会員から話を聞き、藁(わら)にもすがる思いで入信したのです。
創価学会に入るや、母は、真剣に朝晩の勤行、唱題、折伏に励みました。すると、母はどんどん元気になり、数ヵ月もしないうちに病気が治ってしまったのです。
それに感激した母は、一人でも多くの人にこの仏法の偉大さを話したいと、乳飲み子の私を背負って、毎日折伏に歩きました。
母と私はいつも一緒でした。池袋・豊島公会堂で開かれる戸田先生の”金曜講義”にも、私は母に背負われて毎日参加をしていたそうです。
やがて、池田大作が第三代会長に就任し、私は、板橋区の女子部として青春を過ごしました。
選挙の時などは遊説カーに乗り、「〇〇をよろしくお願いします!」と、公明党の候補者名を声をからして連呼しておりました。
当時の私は、学会活動の一端として、何の疑問も抱かず、むしろ使命感に燃えて選挙活動に頑張っていたのです。
学会内部からの改革を決意
さて、創価学会は平成三年に日蓮正宗から破門され、今では完全に邪教集団となってしまいましたが、破門に至る過程で、日蓮正宗に反逆しようとする池田大作の本音が明るみに出たのは、いわゆる「11・16」--すなわち平成二年十一月十六日の本部幹部会における池田スピーチでした。
ところが、日蓮正宗が問題視したこの録音テープを、創価学会側は「出所不明の代物(しろもの)だ」と言い張り、池田の問題発言に対する指摘を”言い掛かり”と反発しました。
しかし、あの「11・16」の録音は、当時学会の女子部本部長であった私が、会場で直(じか)に録(と)ったものなのです。今、その時の経緯を明らかにしたいと思います。
## ## ##
私が小川頼宣さん(元学会本部広報副部長)と後藤順子さんに連れられて福島源次郎さん(元・学会副会長)のお宅を訪問したのは、平成元年八月のことでした。
その当時の私は、原島嵩氏(元・教学部長)や山崎正友氏(元・学会顧問弁護士)らの内部告発によって次々に明るみに出た池田大作の金銭・女性スキャンダル等を耳にし、学会幹部の言う”素晴らしい池田センセイ”と”スキャンダルまみれの池田大作”のあまりのギャップに、頭の中は混乱していました。
福島源次郎さんは、私達に対し、「それは池田の妙法観、本尊観、師弟論の誤りから引き起こされているのです」と真剣に話してくれました。
そして、福島さんが執筆中だった『蘇生(そせい)への選択』の内容にも触れて、学会内部からの改革を志していることを打ち明けてくれたのです。
私達はその場で、一緒に戦うことを決意し、「蘇生の集(つど)い事務局」を立ち上げました。『蘇生への選択』が発売されると同時に『月刊アサヒ』で「池田大作のウソとカネ」という特集が組まれました。
読者からは賛同の声、批判の声が寄せられました。そうした中で、小川さんと後藤さんを中心に、賛同者に声を掛け、池袋の区民センターで池田の邪義を正す勉強会を開催しました。
第一回の受講者は二十人でしたが、やがて関西、中部、九州、北海道まで広がる全国的な勉強会となりました。
池田の邪義から解放されていくごとに、不思議と気分がすっきりと晴れるのです。
一方、学会の妨害は激しく、会場の出入り口には不審な車が駐車し、参加者の顔写真を撮ったり尾行して、自宅をつきとめたりしました。
我が家にも朝起きると玄関先にゴミ袋が散乱した状態で置かれたり、玄関の扉には汚物が塗られたりして大変な日々でした。
学会の大幹部は「福島さんの言うことが正しいなら、日顕猊下が池田先生を総講頭にされるワケがない」と言って、賛同者の切り崩しにかかりました。
「11・16 池田スピーチ」の録音に成功!
福島さんと小川さんが大阪や北海道の勉強会に行った時のことです。ある御尊師から、
「池田は間違っています。しかし証拠がありません。証拠がほしいですね」
と言われたとのこと、そこで私達は、「池田の問題発言を録音しよう!」ということにしました。
今から思えば、怖いもの知らずです。
平成二年、実際に本部幹部会での池田大作のスピーチを録音することにし、まず機材をそろえるところから始め、私達は秋葉原に行き、高性能のワイヤレスマイクなどを二セット買い求めました。
一回目は、私が一人、送信機を持って会場の渋谷文化会館の中に入り、他のメンバーは、近くのホテルで受信録音をすることになっていました。
ところが、会合終了後、私が意気揚々と皆の所に戻り、ふとバックの中を見ると、機械の入力ランプが消えているではありませんか。スイッチが入っていなかったのです!
会場で何度も何度もスイッチの点検をしたはずだったのですが、緊張のあまり、逆にスイッチを消してしまったようです。
次こそは、と二回目に臨(のぞ)みました。今度はうまくいった、と胸をなでおろしたのですが、高性能の機材が聴診器のように心臓の音を拾ってしまい、肝心の池田のスピーチが聞こえません。
三回目は、マイクの位置を変えたことによってきれいに録音されたのですが、またも操作ミスで、テープの片面のみしか入っておらず、肝心の池田のスピーチはほんの少ししか入っていません。
そして、平成二年十一月十六日、四回目の挑戦です。場所は、同じく渋谷文化会館です。
この時は念のため、もう一人がテープレコーダーを持ち込むことになりました。録音テープは、両面ともきれいに入っていました。
その夜のうちに小川さんが録音テープを福島さんに届け、福島さんは重大な覚悟で、それを総本山の日顕上人猊下に送られました。
この「11・16」の録音テープが、創価学会の謗法路線を明るみにする発端となり、後に池田大作の総講頭資格喪失から創価学会の破門にまで至ったのですが、当初は、こんな大きな影響を与えるとは想像もつきませんでした。
今でも渋谷を通るたびに、あの時の「ドキドキ感」が鮮やかに思い出されます。私にとって、十一月十六日は、一生忘れられない”テープ記念日”です。
第六十七世日顕上人猊下のお言葉
それから十四年後、「御法主日顕上人猊下御登座二十五周年奉祝行事の砌(みぎり)」のお言葉の中に、
「平成二年は大石寺開創七百年の年なのです。この時に創価学会の謗法が具体的にはっきり出てきたのです。そのはっきりした最初が『11・16』なのである。(中略)ある人が命懸けで中へ潜入して、ある所で始めからしまいまでのスピーチを録ってっくれたわけです。それがこちらの手に入ったので、創価学会に『どういうことですか』とそのテープを提示して聞いただけなのです。
ところがそれに対して創価学会は荒れ狂いました。なぜそんなに荒れ狂う必要があるのか。堂々と言っていることなら、それに対してまた堂々と返事をしたらよいではないか。けれども、彼らが言ったことはどうだ。
『こんなテープはうそなのだ』と、全部、うそだと言うのです。いかに彼らの考え方の表と裏とが違っているかということが色々な形で解るだろうと思うのです。そういうことから、どうしても創価学会は直らないので、
はっきりとけじめをつけて、平成三年に破門にしたのです」
(『大日蓮』平成十六年九月号)
との有り難いお言葉がありました。まことにもったいないかぎりです。
内部改革運動を終え
学会を破門にされて、私達は内部改革運動を推進してきた「蘇生の集い」の使命が終わったことを感じました。そこで、私達は平成三年十二月、創価学会を脱会し、晴れて日蓮正宗寺院に所属する法華講員となりました。
それと前後して、私はいわば”テープ仲間”である大渕と結婚しました。
主人は、大手通信社に勤めておりましたが、「11・16」のテープを録ってからドンドン出世しました。高学歴ではないにもかかわらず、考えてもいなかった功徳をいただきました。
一方、母は、学会からの取り込み攻勢に屈して、私の活動に対して狂ったように反対し、「仏法は勝負! 必ず結果が出るからね」などと学会支持を口にしていたのですが、平成十九年四月に病で倒れてしまいました。
その母の入院中の平成二十年、同じく学会員だった姉が、交通事故で亡くなりました。姉は、青信号の横断歩道を歩いている最中、四トントラックに胸を轢(ひ)かれて即死したのです。
姉は、私の話には人が変わったように猛反対し、睡眠時間を削ってまで学会のニセ本尊に手を合わせていました。
私はショックを受けている母に、思い切って、『まじめ一方の姉ちゃんがこんな死に方をするなんておかしくない? 成仏とは程遠いいよね。これは罰だと思う」
と言うと、母は素直にうなずきました。十五年近く閉ざされていた母の心が開けれ始めたのです。この時ほど御本尊様のお力をありがたく思ったことはありません。
功徳でガンを早期発見
平成二十四年十一月、日曜日の明け方のことです。
身の置き所がないくらいの下腹全体の痛みで目が覚めました。
病院で検査してもらったところ、その時は、単なる便秘という診断だったのですが、その後も、便秘ではないのに下腹部に違和感があり、再度、内視鏡の権威である専門医に診察してもらいました。
すると、エコー検査で「膵臓(すいぞう)に腫瘍(しゅよう)がある」と言われ、日を改めてCT検査をすることになりました。
私は、膵臓ガンを覚悟し、「何があっても、御本尊様の功徳で治してみせる」と決意していました。
そして、CT検査を受けた結果、納得がいかないような表情で念入りに画像を見ていた医師から出た言葉は、「あったはずの腫瘍が無くなっている」というものでした。
やったー!第一関門突破です。
その後、さらに念のために受けた内視鏡検査で、食道ガンが見つかりました。まだ、初期の段階で、直ちにレーザーメスの手術をしたところ、、無事切除され、危機は回避されました。
もし、あの時、便座による下腹部の猛烈な痛みがなければ、また、あったはずの膵臓の腫瘍が消えている現証がなければ、ここまで念入りな検査も受けず、食道ガンは手遅れになっていたでしょう。
私は、御本尊様の功徳の不思議をしみじみと思わざるをえませんでした。
もし、学会員のままでいたら、邪信からニセ本尊へと進み、いかなる厳罰の人生を送っていたかと考えると、心底恐ろしくなります。
学会員の皆さんには、早く池田大作の謗法の酔いから覚めて、速やかに総本山大石寺の戒壇の大御本尊様に参詣されますことを願うばかりです。
(慧妙 平成二十九年十一月十六日号)