百貫坊支部 斎藤浩記
私は医師を志し、高校までは健全かつ充実した曰々を送っておりましたが、後輩の勧めで、あろうことか顕正会こそ唯一の如説修行の団体と思って入信してしまいました。その後は瞬く間に顕正会の活動にのめり込み、学業をそっちのけで親兄弟、親類、同級生、先輩、後輩と周囲の人すべてを勧誘し、両親、妹、親類も入信させ、挙句の果てには
「顕正会に入って曰蓮大聖人に帰依すべし」
と長文の手紙や顕正会の書籍を、全学生のみならず教授から学長、さらに他大学、病院にまで送付・電話する始末で、気付けば班長、副長、支隊長と、幹部になっていました。
当時の私は、顕正会幹部によくありがちな世間を見下す感覚をもって全医学界を勝手に怨嫉業界と決めつけていたため、「最悪、広宣流布してからでも医師になれる」と指導されれば、医学界すベてを敵にする覚悟で活動しました。
「仏法が究極なら仏法を基とした医療が究極になるはず」
という思いだけは持ち続けていたため、辛うじて退学はせずにおりましたが、医学部に在籍する意味が全くないような学生となり果てていました。当時顕正会に勧誘した後輩から、
「仏法はすこいと思うけど、斎藤さんのようになりたくない」
と言われたことは印象的です。教授、学長にも勧誘のために電話をしていましたので、教授会では
「六十年安保闘争を彷彿とする」
などと揶揄されていたようで、有名な問題児でした。
結果的に三回も留年した上に国家試験も不合格となり、通常より四年遅れて医師になるという落ちこぼれぶりを露呈しました。さらに私生活においては両親の経営する会社は倒産し、両親は離婚、私自身もタクシー運転手や新聞店の仕事をして借金を返済するという八方塞りの生活を送るようになっていたのです。
今思えば顕正会人信直後から起こった出来事ばかりで、罰としか言いようがないにもかかわらず、
「福運が切れた」「罪障消滅」
と思って、顕正会員としてさらなる前進を誓う始末でした。
そして同じく顕正会女子部区長であった妻と結婚して、医師となり病院経営をするようになってからは、騙されることや争い事ばかりで裁判を三つ抱える等、これでもかとトラブルに見舞われましたが、浅井昭衛の指導を真に受けて歓喜に変えてしまっておりました。そのため、考えられないほどの困難を抱えながら
「祈りはすベて叶った」
と大きな勘違いをし、総支隊長、隊長という中枢幹部の立場で活勣をしていました。
見えてきた実態
そのようなときでした。当時私の精神科の診療所は顕正会本部に近い埼玉県の大宮駅前にあったため、顕正会員の患者さんが全国から来院し、その数が半年ほどで四百人くらいまで増え、精神疾患に罹患するきっかけが顕正会の組織そのものにあると気付いたのです。従業員は全員顕正会員で、患者さんやその家族の中には総班長、支隊長以上も多く、さらには隊長、区長、支区部長、地区部長もおりましたので、各組織の情報が横に流れにくい顕正会の組織続制は私のもとでは意味をなさず、一つの問題についての情報源が私にとっては複数存在し、実態・事実が浮き彫りになっていったのでした。
幹部が多く来院することもさることながら、体験発表で
「精神疾患が治った」
などと登壇した人がその後に悪化している姿もあり、従業員が
「先生、なぜ顕正会が正しいのに、がんばればがんばるほど具合が悪くなっているの」
と聞いてくることもありました。まさに顕正会の邪教としての現証ですが、殊に見過こせなかったのは、顕正会本部や会長一族周辺が関わっている場合は隠蔽するという実態でした。皮肉にも「妙法の医療」を志して曰蓮大聖人様の御徳を仰ぎ、顕正会員のため国のためと開業した結果、かえって顕正会の実態をまさに″検証″することになってしまったのです。 私は実際に見ました。「人と国を救い仏国建設の大事業を成す精鋭部隊」などとうたいながらチンピラまがいの勧誘や活動を展開し、学業・仕事を蔑ろにする者が多く存在する男子部の虚構。「街頭での折伏は禁止」としていながら浅井の書籍を不特定の人に配布して入信することは認めている矛盾。顕正新聞の購読が幹部によって立て替えられ、借金で苦しんでいる者が存在する事実。あるいは
「広布御供養は上限があるから崇高。お金に対する姿勢が顕正会の正しさを端的に表している」
などと嘯きながら実際は上限がないという偽善。人事や除名処分等が不公平かつ虚偽により成された上にその情報が歪められていたり、インターネットや過去の書籍などを目に触れさせないように徹底する等の隠蔽体質。学会を攻撃しておきながら実は何から何まで情報源が学会の情報という二番煎じの恥知らず。「浅井先生への忠誠が大聖人様への忠誠に当たる」などと徹底させて、真の「師弟相対」を隠しながら法論から逃げる卑怯・己義。さらには国家安泰をめざしながらその最小単位である家庭が不安定な幹部が多いという邪教たる現証。
「濁世の中の白蓮華」「出処進退正々堂々」など、賛美の言葉が多ければ多いほど、実態である四悪道の姿が脳裏から離れなくなり、浅井昭衛の息子で男子部長であった現埋事長・浅井城衛に不審を感じてから、会長・浅井昭衛に疑いの目を向けるまでにさほど時間は要しませんでした。それでも長くマインドコントロールされてきていた私は、「これらの問題について会長は知らないのではないか」などと根拠のない思いを交錯させ、また、一人ひとりの会員は真面目な者が多いため、何とかせねばと組織改革を念頭に「直接会長に伺いを立てるしかない」と「お伺い書」作成まで始めておりました。そして悩んだ末に、顕正会で禁じられているインターネットの検索や過去の顕正会の書籍・機関紙の調査、御宗門の書籍の検索等を始めたのです。
御授戒戴く決意
そこにうっすらと見えたことは、池田大作に憧れながらも「冨士大石寺顕正会」と僭称・詐称して負け犬の遠吠えをする浅井の小さな姿、顕正会の安っぽさ、また、幹部ほどそれに気付かずにいつの間にか「浅井教」の信者になっている哀れな実態でした。 やがて、同じくネットを見ていた妻があるブログを見つけたのでした。それは「先生は曰興上人と曰目上人の御徳の両方を兼ねた方」と、今思えばとんでもないことを熱く語って浅井に忠誠を尽くしていた石井さんと奥さんのブログでした。石井さんは壮年部長、奥さんは女子部幹事、奥さんのお母さんは婦人部支区部長、と三人共が言わば顕正会中枢幹部でしたが、一度に顕正会からいなくなっていたのでぜひとも話を聞きたいとご自宅を訪ねました。
当曰は私の家族の他、私を顕正会に紹介した井上君や数人の隊員も誘い一緒に話を聞きました。すると、重苦しい雰囲気だった石井さんと寄ると斬られそうな迫力を持った奥さんが、柔和な表情で手料理を用意して待っていてくださったのです。顕正会時代では考えられない姿であったため、とても驚きました。その後石井さんたちが目の当たりにした浅井昭衛の実像を聞き、一気に今までの疑問等が氷解したのでした。
「大聖人様の仏法は顕正会には存在しない」
と確信し、御授戒を戴く決意をしました。
ご登山の感動
御授戒までの一週間、皆で声をかけ合い、当曰は十一人の御授戒が叶いましたが、三門が見えてきたときに
「ああ顕正会が間違っているんだ」
と埋屈抜きに実感しました。そして、一生受けられるかどうか判らないと思いつめていた御開扉の瞬間は涙が止まりませんでした。「大聖人様が御導きくださったのだ」と鴫咽で出ない声をしぼって御題目を唱え、妻共々
「一曰も旱く、一人でも多くの顕正会員が救われますように」
と祈ったのが昨曰のごとくです。
その後も毎週のように元顕正会員の御授戒のために登山してはその感動を噛み締めました。今では私の一族や患者さん等、石井さんから始まった縁が縁を呼んで五十世帯百人を超え、御授戒を受け御本尊様を御下付賜って各人が幸せになりつつあることは、感動以外の何物でもありません。 また、昨年行われた七万五千名大結集総会において救護班としてのご奉公をさせていただきましたが、この上ない罪障消滅の機会と心して臨み、顕正会との違いを改めて実感しました。
まず集ったスタッフは医師五人に看護師百人。これにも驚きましたが、そもそも顕正会員は、法華講員があのように生き生きと老若男女を問わず存在していること自体を知りません。
「老人ばかりで若い者はいない」、「登山料を払って無理矢理登山させられている」
「大石寺にはペンペン草が生えている」
等々、挙げたら切りがないくらい悪□雑言をもって塗り固められたイメージしかありません。加えて浅井が隠蔽したいのでしょう、
「大石寺に足を運ぼうとすること自体が大聖人様の御意に叶わず不敬となって極重の罪障を積む」
と、組織のすみずみに徹底されています。
ところがどうでしょう、その正反対でした。まさに本門戒壇の霊場に一同が集う荘厳さ、輝かしさ、老若男女を問わず生き生きと戒壇の大御本尊様の御開扉を願い全国から馳せ参じ、その後は喜びに満ちた表情で下山する。皆が大らかに喜んで自然体で信心をしている姿が何よりも印象深く、自身の信心の糧とさせていただきました。
正法を信じる喜び
私は現在、北海道の病院と埼玉の診療所を経営しておりますが。その究極の目的は、仏法を基とした医療のモデルケースを創り、新たな医療文化を発信することにより仏国土建設のお役に立つことと、固く志しております。まだまだ折伏は進んでおりませんが、既に事業経営における御加護は強く感じて余りあります。顕正会時代と大きく違い特に人脈に恵まれ、人と人との繋がりは止まることを知らないほどに発展し続けております。例えば、顕正会時代に抱えた三つの裁判も御本尊様御下付を機に急展開を見せて一つになり、それも御住職・佐藤慈暢御尊師に御析念をお願い申し上げてからは加速度的に解決に向かって既に最終段階となっており、その事件を担当している顧問弁護士は司法改革をしてきた曰本のトップレベルの実績を有する人でした。
また、現在計画している病院の建替え工事の設計担当の建築家は、循環型社会の実現を持論とする環境建築の第一人者ですが、先曰、大石寺を見学してたいへん感動しておりました。あるいは医療業界のある会社の社長と仕事を一緒にしたところ、息子さんが芸能プロダクションの社長で、その繋がりから新たな事業展開が生まれました。加えて医療の現場では、看護師が次々と紹介で入職する上に、ベテラン看護師で看護教育にも優れた手腕を有する医療系専門学校の校長先生が無償で協力してくれ、病院の組織も充実してきました。さらには、医師、看護師不足が深刻な東北海道にあって、今後の展望に思いを重ねてくれる院長が自ら連絡をしてきて着任し、私自身は理事長として自在を得、行動の幅が広がりました。これら出会いからの経緯を見ると、こちらが願う人材が集まってきて一つひとつが感動的な展開を見せながら相乗効果を生み、仕事をしていても夢と希望で一杯、楽しくて仕方がありません。
家庭に目を転じれば、顕正会では耳にしたことすらなかった「法統相続」という点において変化があり、子供たちが喜んで御題目を唱えるようになりました。小学校一年生の長男は「お父さんの仕事を手伝いたい」と思いを語り、私も妻も「医者になれ」とか「勉強をしろ」などとは言ったことがないにもかかわらず、自発的に勉強も運動も楽しんで行います。親ばかで恐縮ですが次男と長女も才知の輝きを幼稚園で高く評価され、さらに何よりも、顕正会時代は病気や怪我ばかりしていたのが嘘のように健やかになりました。
翻ってみれば、三年半前までは顕正会という邪教の縄に縛られて地獄の日々を過ごし、それすら気付かなかった宿縁拙き私ごとき者が、今こうして法華講員として信心できること自体が無上の喜びであり、「仏敵」浅井から「仏敵斎藤と会ったら無間地獄に堕ちる」などと警戒されては、ますます顕正会員を折伏することへの感動と決意が涌いてくるのを抑えられません。
本日も元顕正会員一名の御授戒が叶いましたが、今後は、未だ救われていない顕正会員をさらに救うと共に、御住職の御指導くださる「仏法即世法、世法即仏法」との腰を据えた信心で、御住職のめざされる隣二、三軒同士が助け合っていく和の広がりを持った法華講の構築をもって世直しの折伏を展開し、近くは平成二十七年、平成三十三年の節目を自分自身の人生と重ね合わせて実証を示し、御命題成就・広宣流布のお役に立たせていただく決意であります。
(大白法 平成二十二年年九月一日号)
私は医師を志し、高校までは健全かつ充実した曰々を送っておりましたが、後輩の勧めで、あろうことか顕正会こそ唯一の如説修行の団体と思って入信してしまいました。その後は瞬く間に顕正会の活動にのめり込み、学業をそっちのけで親兄弟、親類、同級生、先輩、後輩と周囲の人すべてを勧誘し、両親、妹、親類も入信させ、挙句の果てには
「顕正会に入って曰蓮大聖人に帰依すべし」
と長文の手紙や顕正会の書籍を、全学生のみならず教授から学長、さらに他大学、病院にまで送付・電話する始末で、気付けば班長、副長、支隊長と、幹部になっていました。
当時の私は、顕正会幹部によくありがちな世間を見下す感覚をもって全医学界を勝手に怨嫉業界と決めつけていたため、「最悪、広宣流布してからでも医師になれる」と指導されれば、医学界すベてを敵にする覚悟で活動しました。
「仏法が究極なら仏法を基とした医療が究極になるはず」
という思いだけは持ち続けていたため、辛うじて退学はせずにおりましたが、医学部に在籍する意味が全くないような学生となり果てていました。当時顕正会に勧誘した後輩から、
「仏法はすこいと思うけど、斎藤さんのようになりたくない」
と言われたことは印象的です。教授、学長にも勧誘のために電話をしていましたので、教授会では
「六十年安保闘争を彷彿とする」
などと揶揄されていたようで、有名な問題児でした。
結果的に三回も留年した上に国家試験も不合格となり、通常より四年遅れて医師になるという落ちこぼれぶりを露呈しました。さらに私生活においては両親の経営する会社は倒産し、両親は離婚、私自身もタクシー運転手や新聞店の仕事をして借金を返済するという八方塞りの生活を送るようになっていたのです。
今思えば顕正会人信直後から起こった出来事ばかりで、罰としか言いようがないにもかかわらず、
「福運が切れた」「罪障消滅」
と思って、顕正会員としてさらなる前進を誓う始末でした。
そして同じく顕正会女子部区長であった妻と結婚して、医師となり病院経営をするようになってからは、騙されることや争い事ばかりで裁判を三つ抱える等、これでもかとトラブルに見舞われましたが、浅井昭衛の指導を真に受けて歓喜に変えてしまっておりました。そのため、考えられないほどの困難を抱えながら
「祈りはすベて叶った」
と大きな勘違いをし、総支隊長、隊長という中枢幹部の立場で活勣をしていました。
見えてきた実態
そのようなときでした。当時私の精神科の診療所は顕正会本部に近い埼玉県の大宮駅前にあったため、顕正会員の患者さんが全国から来院し、その数が半年ほどで四百人くらいまで増え、精神疾患に罹患するきっかけが顕正会の組織そのものにあると気付いたのです。従業員は全員顕正会員で、患者さんやその家族の中には総班長、支隊長以上も多く、さらには隊長、区長、支区部長、地区部長もおりましたので、各組織の情報が横に流れにくい顕正会の組織続制は私のもとでは意味をなさず、一つの問題についての情報源が私にとっては複数存在し、実態・事実が浮き彫りになっていったのでした。
幹部が多く来院することもさることながら、体験発表で
「精神疾患が治った」
などと登壇した人がその後に悪化している姿もあり、従業員が
「先生、なぜ顕正会が正しいのに、がんばればがんばるほど具合が悪くなっているの」
と聞いてくることもありました。まさに顕正会の邪教としての現証ですが、殊に見過こせなかったのは、顕正会本部や会長一族周辺が関わっている場合は隠蔽するという実態でした。皮肉にも「妙法の医療」を志して曰蓮大聖人様の御徳を仰ぎ、顕正会員のため国のためと開業した結果、かえって顕正会の実態をまさに″検証″することになってしまったのです。 私は実際に見ました。「人と国を救い仏国建設の大事業を成す精鋭部隊」などとうたいながらチンピラまがいの勧誘や活動を展開し、学業・仕事を蔑ろにする者が多く存在する男子部の虚構。「街頭での折伏は禁止」としていながら浅井の書籍を不特定の人に配布して入信することは認めている矛盾。顕正新聞の購読が幹部によって立て替えられ、借金で苦しんでいる者が存在する事実。あるいは
「広布御供養は上限があるから崇高。お金に対する姿勢が顕正会の正しさを端的に表している」
などと嘯きながら実際は上限がないという偽善。人事や除名処分等が不公平かつ虚偽により成された上にその情報が歪められていたり、インターネットや過去の書籍などを目に触れさせないように徹底する等の隠蔽体質。学会を攻撃しておきながら実は何から何まで情報源が学会の情報という二番煎じの恥知らず。「浅井先生への忠誠が大聖人様への忠誠に当たる」などと徹底させて、真の「師弟相対」を隠しながら法論から逃げる卑怯・己義。さらには国家安泰をめざしながらその最小単位である家庭が不安定な幹部が多いという邪教たる現証。
「濁世の中の白蓮華」「出処進退正々堂々」など、賛美の言葉が多ければ多いほど、実態である四悪道の姿が脳裏から離れなくなり、浅井昭衛の息子で男子部長であった現埋事長・浅井城衛に不審を感じてから、会長・浅井昭衛に疑いの目を向けるまでにさほど時間は要しませんでした。それでも長くマインドコントロールされてきていた私は、「これらの問題について会長は知らないのではないか」などと根拠のない思いを交錯させ、また、一人ひとりの会員は真面目な者が多いため、何とかせねばと組織改革を念頭に「直接会長に伺いを立てるしかない」と「お伺い書」作成まで始めておりました。そして悩んだ末に、顕正会で禁じられているインターネットの検索や過去の顕正会の書籍・機関紙の調査、御宗門の書籍の検索等を始めたのです。
御授戒戴く決意
そこにうっすらと見えたことは、池田大作に憧れながらも「冨士大石寺顕正会」と僭称・詐称して負け犬の遠吠えをする浅井の小さな姿、顕正会の安っぽさ、また、幹部ほどそれに気付かずにいつの間にか「浅井教」の信者になっている哀れな実態でした。 やがて、同じくネットを見ていた妻があるブログを見つけたのでした。それは「先生は曰興上人と曰目上人の御徳の両方を兼ねた方」と、今思えばとんでもないことを熱く語って浅井に忠誠を尽くしていた石井さんと奥さんのブログでした。石井さんは壮年部長、奥さんは女子部幹事、奥さんのお母さんは婦人部支区部長、と三人共が言わば顕正会中枢幹部でしたが、一度に顕正会からいなくなっていたのでぜひとも話を聞きたいとご自宅を訪ねました。
当曰は私の家族の他、私を顕正会に紹介した井上君や数人の隊員も誘い一緒に話を聞きました。すると、重苦しい雰囲気だった石井さんと寄ると斬られそうな迫力を持った奥さんが、柔和な表情で手料理を用意して待っていてくださったのです。顕正会時代では考えられない姿であったため、とても驚きました。その後石井さんたちが目の当たりにした浅井昭衛の実像を聞き、一気に今までの疑問等が氷解したのでした。
「大聖人様の仏法は顕正会には存在しない」
と確信し、御授戒を戴く決意をしました。
ご登山の感動
御授戒までの一週間、皆で声をかけ合い、当曰は十一人の御授戒が叶いましたが、三門が見えてきたときに
「ああ顕正会が間違っているんだ」
と埋屈抜きに実感しました。そして、一生受けられるかどうか判らないと思いつめていた御開扉の瞬間は涙が止まりませんでした。「大聖人様が御導きくださったのだ」と鴫咽で出ない声をしぼって御題目を唱え、妻共々
「一曰も旱く、一人でも多くの顕正会員が救われますように」
と祈ったのが昨曰のごとくです。
その後も毎週のように元顕正会員の御授戒のために登山してはその感動を噛み締めました。今では私の一族や患者さん等、石井さんから始まった縁が縁を呼んで五十世帯百人を超え、御授戒を受け御本尊様を御下付賜って各人が幸せになりつつあることは、感動以外の何物でもありません。 また、昨年行われた七万五千名大結集総会において救護班としてのご奉公をさせていただきましたが、この上ない罪障消滅の機会と心して臨み、顕正会との違いを改めて実感しました。
まず集ったスタッフは医師五人に看護師百人。これにも驚きましたが、そもそも顕正会員は、法華講員があのように生き生きと老若男女を問わず存在していること自体を知りません。
「老人ばかりで若い者はいない」、「登山料を払って無理矢理登山させられている」
「大石寺にはペンペン草が生えている」
等々、挙げたら切りがないくらい悪□雑言をもって塗り固められたイメージしかありません。加えて浅井が隠蔽したいのでしょう、
「大石寺に足を運ぼうとすること自体が大聖人様の御意に叶わず不敬となって極重の罪障を積む」
と、組織のすみずみに徹底されています。
ところがどうでしょう、その正反対でした。まさに本門戒壇の霊場に一同が集う荘厳さ、輝かしさ、老若男女を問わず生き生きと戒壇の大御本尊様の御開扉を願い全国から馳せ参じ、その後は喜びに満ちた表情で下山する。皆が大らかに喜んで自然体で信心をしている姿が何よりも印象深く、自身の信心の糧とさせていただきました。
正法を信じる喜び
私は現在、北海道の病院と埼玉の診療所を経営しておりますが。その究極の目的は、仏法を基とした医療のモデルケースを創り、新たな医療文化を発信することにより仏国土建設のお役に立つことと、固く志しております。まだまだ折伏は進んでおりませんが、既に事業経営における御加護は強く感じて余りあります。顕正会時代と大きく違い特に人脈に恵まれ、人と人との繋がりは止まることを知らないほどに発展し続けております。例えば、顕正会時代に抱えた三つの裁判も御本尊様御下付を機に急展開を見せて一つになり、それも御住職・佐藤慈暢御尊師に御析念をお願い申し上げてからは加速度的に解決に向かって既に最終段階となっており、その事件を担当している顧問弁護士は司法改革をしてきた曰本のトップレベルの実績を有する人でした。
また、現在計画している病院の建替え工事の設計担当の建築家は、循環型社会の実現を持論とする環境建築の第一人者ですが、先曰、大石寺を見学してたいへん感動しておりました。あるいは医療業界のある会社の社長と仕事を一緒にしたところ、息子さんが芸能プロダクションの社長で、その繋がりから新たな事業展開が生まれました。加えて医療の現場では、看護師が次々と紹介で入職する上に、ベテラン看護師で看護教育にも優れた手腕を有する医療系専門学校の校長先生が無償で協力してくれ、病院の組織も充実してきました。さらには、医師、看護師不足が深刻な東北海道にあって、今後の展望に思いを重ねてくれる院長が自ら連絡をしてきて着任し、私自身は理事長として自在を得、行動の幅が広がりました。これら出会いからの経緯を見ると、こちらが願う人材が集まってきて一つひとつが感動的な展開を見せながら相乗効果を生み、仕事をしていても夢と希望で一杯、楽しくて仕方がありません。
家庭に目を転じれば、顕正会では耳にしたことすらなかった「法統相続」という点において変化があり、子供たちが喜んで御題目を唱えるようになりました。小学校一年生の長男は「お父さんの仕事を手伝いたい」と思いを語り、私も妻も「医者になれ」とか「勉強をしろ」などとは言ったことがないにもかかわらず、自発的に勉強も運動も楽しんで行います。親ばかで恐縮ですが次男と長女も才知の輝きを幼稚園で高く評価され、さらに何よりも、顕正会時代は病気や怪我ばかりしていたのが嘘のように健やかになりました。
翻ってみれば、三年半前までは顕正会という邪教の縄に縛られて地獄の日々を過ごし、それすら気付かなかった宿縁拙き私ごとき者が、今こうして法華講員として信心できること自体が無上の喜びであり、「仏敵」浅井から「仏敵斎藤と会ったら無間地獄に堕ちる」などと警戒されては、ますます顕正会員を折伏することへの感動と決意が涌いてくるのを抑えられません。
本日も元顕正会員一名の御授戒が叶いましたが、今後は、未だ救われていない顕正会員をさらに救うと共に、御住職の御指導くださる「仏法即世法、世法即仏法」との腰を据えた信心で、御住職のめざされる隣二、三軒同士が助け合っていく和の広がりを持った法華講の構築をもって世直しの折伏を展開し、近くは平成二十七年、平成三十三年の節目を自分自身の人生と重ね合わせて実証を示し、御命題成就・広宣流布のお役に立たせていただく決意であります。
(大白法 平成二十二年年九月一日号)