京都市・妙清寺支部 壷井源久
ニセ本尊の前で起こった異変
私は、およそ五十四年間の長きにわたって、創価学会に籍を置いていました。
そして、平成二十七年三月に創価学会を脱会するまでのおよそ二十年間、学会発行のニセ本尊を拝んでおりました。
そのニセ本尊を拝んでいる間に起こった事を述べさせていただきます。
京都市左京区に在住していた平成六年九月、学会の座談会に参加した時のことです。勤行が始まってしばらくすると、突然、自分の声が、まるで地獄の底からうごめき出してきたかのような、それはそれは、おぞましい声に変ってしまいました。
まずいと思って、元に戻そうとするのですが、自分ではコントロールができません。
一緒に勤行をしていた人達からも白い目で見られ、一刻も早くその場を立ち去りたかったのですが、それも叶わず、そうこうしているうちに勤行が終わり、終わったとたん、普段の声に戻ったのです。
今にして思えば、創価学会がニセ本尊を配布しだしたのが平成五年ですから、まさにニセ本尊を拝んだが故の現証としか考えられません。
しかし、当時は、そんなこととはつゆ知らず、なぜ、こんなことが起こったのか、不思議でなりませんでした。
そして、その日を境に、私の身に異変が起こってきました。まず、顔つきが、自分でも地獄の相かと思うような形相になり、さらに、自宅で題目を唱えていたところ、両方の頬からものすごい勢いでエネルギーが放出されるような感覚を覚え(時間にして十秒から二十秒くらいだったと思います)、その後、ぐったりとしてその場に倒れ込んでしまったのです。
翌日、やっとの思いで病院にいったところ、「重度のウツ病」と診断されました。
それからは、来る日も来る日もウツの症状に悩まされ、さらに二年後には、妻との間に亀裂が走り、平成九年、ついに離婚となってしまいました。
離婚後の私は、京都市北区に引っ越し、一人暮らしがスタートしました。
一人になって自分の信心を振り返りながら、
「これらの出来事は、勤行・唱題をして起きた現象だから、自分の宿業が切れていく証(あかし)に違いない」
と一人で納得し、それを信じてやまない私は、なおいっそう、創価学会での信心に励んでいきました。
そして月日が経ち、平成二十三年になってまもなく、元いた地域の婦人部幹部宅に訪問した時のことです。
その婦人が勤行中だったので、家の中で待たせてもらったのですが、その勤行の声が、なんと、以前私が発した、あのおぞましい声にそっくりだったのです。
聞くに耐えられなくなった私は、理由をつけて急いでその場から立ち去りました。
そこで初めて、直感的に創価学会の異常さを感じた私は、その日を境に学会と距離を置くようになり、同年四月には『聖教新聞』の購読を断り、学会活動も完全に休止し、選挙でも「公明党不支持」をきっぱりと表明しました。
そして、これからは一切の宗教との関わりを断って一人で生きていこうと決め、本尊(ニセ本尊)はゴミ袋に入れてマンションのパイプスペースに放り込みました。
大御本尊のもとに戻れた喜び
ところが、平成二十七年三月のある日、たまたまインターネットを見ていたところ、”創価学会が会則を変更した”との記事が目に飛び込んできて、その中で、創価学会が「弘安二年の御本尊は受持の対象にしない」と言っている、ということを知りました。
そのくだりを読んだ瞬間、不思議と、私の心には弘安二年の大御本尊様への渇仰恋慕の思いがふつふつと涌いてきました。
そして、同年三月九日、何の迷いもなく、妙清寺の門を叩いたのです。
そして、程なくして、本物の御本尊様をお貸し下げいただき、入仏式を行わせていただきました。
本物の御本尊様だからこそ湧き上がる喜び、この時の感激は今でも忘れられません。
さらに、入講間もない私に初登山の機会をいただき、同年三月二十六日、「日興上人御生誕七百七十年奉祝記念法要」に参加させていただきました。三十数年ぶりの登山です。
お山に午前六時に着山し、三門で御題目を三唱した時には、身の引き締まる思いでいっぱいでした。
じつは、私は、六年ほど前から間質性肺炎を患(わずら)っており、その影響で、常に咳(せき)の出る状態が続いておりました。
着山後に行った朝の勤行の時も咳が出ており、御開扉に向かう前、先輩講員の松本さんから「一〇分だけでも唱題してから行きましょう」と言われて唱題した時も、御題目を唱える時間よりも咳の出る時間の方が長いくらいでした。
御開扉に向かう途中も、肺炎の影響で呼吸が苦しく、ゆっくりと時間をかけて奉安堂に辿(たど)り着きました。
やがて厳(おごそ)かに御開扉が始まり、心の中で「大御本尊様、帰ってまいりました」と申し上げた瞬間、涙が止めどもなく流れ、様々な想いが走馬灯のごとく駆け巡りました。
そして、読経・唱題が始まると、なんと、今まで苦しめられていた咳がウソのように止まり、自身でもびっくりするくらいの大きな声で唱題していたのです。
その私の姿に、同行された松本さんも「あらためて大御本尊様の大功徳を確信できました」と言っておられましたが、私も「功徳だ」と実感せずにはいられませんでした。
罪障(ざいしょう)ゆえの病と克服の覚悟
しかし、謗法になった創価学会で活動し、二十数年もの間ニセ本尊を拝んできた害毒が、そう簡単に消えるものではありませんでした。登山から数日後のある日、血痰がティッシュペーパー三枚分も出て、慌てて病院に駆け込みました。
そして、あらゆる検査を受けたところ、肺ガン(ステージ2B)と肺気腫と診断されたのです。
健康な肺でしたら、外科手術で処置できるのですが、私の場合、先にも述べました間質性肺炎がネックとなり、手術することもできず、放射線治療も抗がん剤治療も全て、肺にダメージを与えるので、現時においては有効な治療方法がないと言われました。
もともとウツ病を持っていますので、通常であれば、悲嘆に暮れ、落ち込んでしまったことでしょう。
しかし、私には御本尊様があります。
『妙心尼御前御返事』には、
「このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経(じょうみょうきょう)・涅槃経(ねはんきょう)には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。」
(御書 九〇〇頁)
と示されていますが、私は、この御金言を胸に、何としても信心で病気を治すのだ、と強く決意し、唱題・折伏に励みました。
すると、当初は「治療法がない」と言われたにもかかわらず、今年の六月から抗がん剤治療が開始されることになりました。
その治療説明の時、担当医師は、「この治療は、いかに進行を遅らせるかに重点を置いているもので、通常であれば、余命は一年程でしょう」と言いながら、その一方で、「ただ、不思議なことに、転移していてもおかしくない状況なのに、他の部位に転移をしていない」と言うのです。
私は、「余命一年」という言葉にショックを受けるよりも、「転移がない」と不思議がる医師の言葉に、これは御本尊様の功徳で、ガンが灰の中で止まってくれているのだ、と確信しました。そして、医師に対し。
「僕はガンに対して、恐怖心や絶望感は一切ありません。余命一年とのことですが、その一年をどのように生きて行くかを、入院中にゆっくりと考えます」
と言いました。
すると、医師は、
「ガンに対して、そのように前向きに取り組まれている患者さんは稀です。大部分の患者さんは、肩を落とされ、今にも椅子から転げ落ちそうで、私共が身体を支えるほどです。ところで、壷井さんは、何か宗教をされているのですか」
と尋ねてきました。私が
「はい、日蓮正宗の信者です」と答え、「それは、創価学会ですか」との質問には、「いいえ創価学会は今では邪宗教集団であり、私達は七百有余も続く日蓮大聖人の仏法を純真に受け継ぐ正当な宗教です」と答えました。
病院ではここまではしか話ができませんでしたが、この先は、自らの身体の変化で、日蓮正宗の正しさを実証していく以外にないと思っております。
さて、こうして、前向きにガンと闘っている中、なんと二十二年間も苦しめられたウツ病が目に見えて快方へと向かってきたのです。
今年の春頃、精神科の医師から、
「最近、壷井さんは精神的に安定してきていますので、ウツ病はほぼ完治方向だとみています。」
ただ、まだ睡眠が安定していないので、それが改善されれば、完治です。」
との診断をいだだきました。
現在は、その睡眠もかなり良い状況になってきております。
六月十四日から始まった抗がん剤による治療では、副作用に苦しめられることもありましたが、それも唱題で乗り越えることができ、また、地域の学会員や未入信の身内に対する折伏にと頑張っております。
八月の末には添書登山をさせていただき、本門戒壇大御本尊様の御前で、「絶対にガンを克服する」との誓いを新たにいたしました。
平成三十三年の御命題達成に向けて、生きて、生きて、生き抜く決意です。
(慧妙 平成二十八年 十月十六日号)
ニセ本尊の前で起こった異変
私は、およそ五十四年間の長きにわたって、創価学会に籍を置いていました。
そして、平成二十七年三月に創価学会を脱会するまでのおよそ二十年間、学会発行のニセ本尊を拝んでおりました。
そのニセ本尊を拝んでいる間に起こった事を述べさせていただきます。
京都市左京区に在住していた平成六年九月、学会の座談会に参加した時のことです。勤行が始まってしばらくすると、突然、自分の声が、まるで地獄の底からうごめき出してきたかのような、それはそれは、おぞましい声に変ってしまいました。
まずいと思って、元に戻そうとするのですが、自分ではコントロールができません。
一緒に勤行をしていた人達からも白い目で見られ、一刻も早くその場を立ち去りたかったのですが、それも叶わず、そうこうしているうちに勤行が終わり、終わったとたん、普段の声に戻ったのです。
今にして思えば、創価学会がニセ本尊を配布しだしたのが平成五年ですから、まさにニセ本尊を拝んだが故の現証としか考えられません。
しかし、当時は、そんなこととはつゆ知らず、なぜ、こんなことが起こったのか、不思議でなりませんでした。
そして、その日を境に、私の身に異変が起こってきました。まず、顔つきが、自分でも地獄の相かと思うような形相になり、さらに、自宅で題目を唱えていたところ、両方の頬からものすごい勢いでエネルギーが放出されるような感覚を覚え(時間にして十秒から二十秒くらいだったと思います)、その後、ぐったりとしてその場に倒れ込んでしまったのです。
翌日、やっとの思いで病院にいったところ、「重度のウツ病」と診断されました。
それからは、来る日も来る日もウツの症状に悩まされ、さらに二年後には、妻との間に亀裂が走り、平成九年、ついに離婚となってしまいました。
離婚後の私は、京都市北区に引っ越し、一人暮らしがスタートしました。
一人になって自分の信心を振り返りながら、
「これらの出来事は、勤行・唱題をして起きた現象だから、自分の宿業が切れていく証(あかし)に違いない」
と一人で納得し、それを信じてやまない私は、なおいっそう、創価学会での信心に励んでいきました。
そして月日が経ち、平成二十三年になってまもなく、元いた地域の婦人部幹部宅に訪問した時のことです。
その婦人が勤行中だったので、家の中で待たせてもらったのですが、その勤行の声が、なんと、以前私が発した、あのおぞましい声にそっくりだったのです。
聞くに耐えられなくなった私は、理由をつけて急いでその場から立ち去りました。
そこで初めて、直感的に創価学会の異常さを感じた私は、その日を境に学会と距離を置くようになり、同年四月には『聖教新聞』の購読を断り、学会活動も完全に休止し、選挙でも「公明党不支持」をきっぱりと表明しました。
そして、これからは一切の宗教との関わりを断って一人で生きていこうと決め、本尊(ニセ本尊)はゴミ袋に入れてマンションのパイプスペースに放り込みました。
大御本尊のもとに戻れた喜び
ところが、平成二十七年三月のある日、たまたまインターネットを見ていたところ、”創価学会が会則を変更した”との記事が目に飛び込んできて、その中で、創価学会が「弘安二年の御本尊は受持の対象にしない」と言っている、ということを知りました。
そのくだりを読んだ瞬間、不思議と、私の心には弘安二年の大御本尊様への渇仰恋慕の思いがふつふつと涌いてきました。
そして、同年三月九日、何の迷いもなく、妙清寺の門を叩いたのです。
そして、程なくして、本物の御本尊様をお貸し下げいただき、入仏式を行わせていただきました。
本物の御本尊様だからこそ湧き上がる喜び、この時の感激は今でも忘れられません。
さらに、入講間もない私に初登山の機会をいただき、同年三月二十六日、「日興上人御生誕七百七十年奉祝記念法要」に参加させていただきました。三十数年ぶりの登山です。
お山に午前六時に着山し、三門で御題目を三唱した時には、身の引き締まる思いでいっぱいでした。
じつは、私は、六年ほど前から間質性肺炎を患(わずら)っており、その影響で、常に咳(せき)の出る状態が続いておりました。
着山後に行った朝の勤行の時も咳が出ており、御開扉に向かう前、先輩講員の松本さんから「一〇分だけでも唱題してから行きましょう」と言われて唱題した時も、御題目を唱える時間よりも咳の出る時間の方が長いくらいでした。
御開扉に向かう途中も、肺炎の影響で呼吸が苦しく、ゆっくりと時間をかけて奉安堂に辿(たど)り着きました。
やがて厳(おごそ)かに御開扉が始まり、心の中で「大御本尊様、帰ってまいりました」と申し上げた瞬間、涙が止めどもなく流れ、様々な想いが走馬灯のごとく駆け巡りました。
そして、読経・唱題が始まると、なんと、今まで苦しめられていた咳がウソのように止まり、自身でもびっくりするくらいの大きな声で唱題していたのです。
その私の姿に、同行された松本さんも「あらためて大御本尊様の大功徳を確信できました」と言っておられましたが、私も「功徳だ」と実感せずにはいられませんでした。
罪障(ざいしょう)ゆえの病と克服の覚悟
しかし、謗法になった創価学会で活動し、二十数年もの間ニセ本尊を拝んできた害毒が、そう簡単に消えるものではありませんでした。登山から数日後のある日、血痰がティッシュペーパー三枚分も出て、慌てて病院に駆け込みました。
そして、あらゆる検査を受けたところ、肺ガン(ステージ2B)と肺気腫と診断されたのです。
健康な肺でしたら、外科手術で処置できるのですが、私の場合、先にも述べました間質性肺炎がネックとなり、手術することもできず、放射線治療も抗がん剤治療も全て、肺にダメージを与えるので、現時においては有効な治療方法がないと言われました。
もともとウツ病を持っていますので、通常であれば、悲嘆に暮れ、落ち込んでしまったことでしょう。
しかし、私には御本尊様があります。
『妙心尼御前御返事』には、
「このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経(じょうみょうきょう)・涅槃経(ねはんきょう)には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。」
(御書 九〇〇頁)
と示されていますが、私は、この御金言を胸に、何としても信心で病気を治すのだ、と強く決意し、唱題・折伏に励みました。
すると、当初は「治療法がない」と言われたにもかかわらず、今年の六月から抗がん剤治療が開始されることになりました。
その治療説明の時、担当医師は、「この治療は、いかに進行を遅らせるかに重点を置いているもので、通常であれば、余命は一年程でしょう」と言いながら、その一方で、「ただ、不思議なことに、転移していてもおかしくない状況なのに、他の部位に転移をしていない」と言うのです。
私は、「余命一年」という言葉にショックを受けるよりも、「転移がない」と不思議がる医師の言葉に、これは御本尊様の功徳で、ガンが灰の中で止まってくれているのだ、と確信しました。そして、医師に対し。
「僕はガンに対して、恐怖心や絶望感は一切ありません。余命一年とのことですが、その一年をどのように生きて行くかを、入院中にゆっくりと考えます」
と言いました。
すると、医師は、
「ガンに対して、そのように前向きに取り組まれている患者さんは稀です。大部分の患者さんは、肩を落とされ、今にも椅子から転げ落ちそうで、私共が身体を支えるほどです。ところで、壷井さんは、何か宗教をされているのですか」
と尋ねてきました。私が
「はい、日蓮正宗の信者です」と答え、「それは、創価学会ですか」との質問には、「いいえ創価学会は今では邪宗教集団であり、私達は七百有余も続く日蓮大聖人の仏法を純真に受け継ぐ正当な宗教です」と答えました。
病院ではここまではしか話ができませんでしたが、この先は、自らの身体の変化で、日蓮正宗の正しさを実証していく以外にないと思っております。
さて、こうして、前向きにガンと闘っている中、なんと二十二年間も苦しめられたウツ病が目に見えて快方へと向かってきたのです。
今年の春頃、精神科の医師から、
「最近、壷井さんは精神的に安定してきていますので、ウツ病はほぼ完治方向だとみています。」
ただ、まだ睡眠が安定していないので、それが改善されれば、完治です。」
との診断をいだだきました。
現在は、その睡眠もかなり良い状況になってきております。
六月十四日から始まった抗がん剤による治療では、副作用に苦しめられることもありましたが、それも唱題で乗り越えることができ、また、地域の学会員や未入信の身内に対する折伏にと頑張っております。
八月の末には添書登山をさせていただき、本門戒壇大御本尊様の御前で、「絶対にガンを克服する」との誓いを新たにいたしました。
平成三十三年の御命題達成に向けて、生きて、生きて、生き抜く決意です。
(慧妙 平成二十八年 十月十六日号)