今も正信を求める学会員がいる
福井県越前市 法清寺支部 橋本 とし子
悩みつつも学会を選択
私は長く創価学会に籍を置いておりましたが、再び、日蓮正宗に戻ることができました。
昭和四十年、二十歲の頃、自動車学校に通い始めた私は、そこで教習指導員をしていた今の主人と知り合いました。
交際する中で、彼が創価学会員だと知りました。当時の私は、まったく宗教に興味がなく、その後もいろいろと悩み考え、一旦は結婚を断わったのですが、主人がお世話になっていた学会員宅に連れて行かれ、そこで長時間、話を聞かされました。
その際、私が「創価学会はどういう団体ですか」と尋ねましたら、その方は日蓮正宗を護って、弘める団体だ」と言われました。
父にそのことを話して相談したところ、父は
「信心している人に、悪い人はいないだろう」と言って、結婚を許してもらい、昭和四十九年二月に私も御受戒を受け、結婚に至りました。
その後、両親も念仏から改宗して創価学会員になり、一家で信心をしていくこととなりました。
私は子供にも恵まれ、長女が誕生し、その七年後には長男も授かりました。そして、年に一度ですが、総本山大石寺に家族全員で参詣し、本門戒壇の大御本尊様の御開扉を受けさせていただいておりました。
ところが、私が入信してから二十年ほど過ぎて、平成に入った頃、宗門と学会との問題が起こり、ついに創価学会は日蓮正宗から破門にされてしまいまいした。その当時、私達家族はすごく悩み、主人は最寄りの日蓮正宗寺院である法源寺に駆け込んで、当時の御住職様にお話を聞かせていただきましたが、結局、お世話になっていた学会員の口車に乗せられ、創価学会についていくことを選択してしまいました。
その後、御本尊様も学会版の”ニセ本尊”に交換させられ、以来、二十七年間、人生において一番大切な時を、日蓮正宗から破門された創価学会で過ごすことになりました。
地道な働きかけと正信心への回帰
私は地区婦人部長という役職を持っていたため、学会の会合には出席していましたが、会合では日蓮正宗のことを悪く言うばかりで、だんだん信心に対する気持ちも薄らぎ、一歩引いた感じで見ていました。
よくよく考えてみると、なぜ破門されたのか、その理由は聞かされておらず、不明な点が多くありました。
その頃、仕事で井上さんのお宅に行くことがあり、井上さんから信心のことを話されました。
井上さんは、法華講員だったのです。
私が創価学会員であることを話したところ、井上さんと西野さんが私の家に訪問してくださるようになりました。 私の中では法華講に入るなどとは思ってもいませんでしたので、
「何回来ていただいても、うちは無理だ」
とお伝えしました。しかし、お二人は何回となく訪問してくださり、大石寺の写真やいろいろな本を|持ってきては、玄関先で笑顔で話していかれるのです。こうした対話が二年ほど続きました。その間、訪問の回数が少なくなって間が空くようになると、逆に気になりだし、主人と一緒に
「もう諦めて来ないのかな」
と話してみたり、 私達の気持ちにも変化が生じてきて、話を聞こうと思うようになったのす。同時に、創価学会に対する気持ちは薄れていくばかりでしたので、なぜ破門されたのか、その経緯を知りたい、という思いが強くなってきました。
それまでは学会側の話しか耳にしていなかったので、 今度は中立の立場で考えてみよう、と思い、お二人からいただいた本などを熟読するようになりました。 すると、 次第に、創価学会は大謗法の団体となり、大きな罪障を積んでいる、ということがわかってきて、とても怖くなってきました。
また、学会では末端の会員には知らされていないことが多々あること、情報操作で洗脳されていることもわかってきました。この時になって、私は、
「創価学会をやめよう」
と心に誓い、まず、毎年ある ”財務"を断わることから始めました。それからというもの「とにかくお寺に行きたい」という気持ちが日に日に強くなって、井上さんに御講への参詣を希望しましたら、大歓迎されて法源寺にお参りできました。
昨年の五月、二十数年ぶりに御報恩御講に参詣し、御住職様のもと法華講の皆様と一緒に御書を拝読し、御法話を聞くにつれ、
「やはり私は、日蓮正宗の御本尊様でないと生きていけない」
と、あらためて思いました。 が、一方では、
「お寺に来て御本尊様を拝んでさえいれば、学会員のままでもよいのではないか」
というような気持ちもあって、どうしても勧誠を受ける決断ができずにおりました。
六月も御講に参詣させていただいて、終了後に御住職様からも御指導をいただき、ついに七月の御講の時、井上さんから強く背中を押されて、晴れて勧誠を受けることができました。
そして、 七月二十一日、二十七年ぶりに大石寺に参詣し、本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることが叶ったのです。 もう二度と大石寺に来ることはできないと思っていただけに、御開扉を受けた時の感慨はひとしおでした。
親族が次々と脱会、帰伏(きふく)へ
私は、寺院参詣, 登山参詣が叶いましたので、その勢いをもって次は折伏、と思い、まず実母の折伏に取りかかりました。そして、八月二十五日、実母を法源寺に連れて行き、御住職様からお話していただいたところ、 実母はその日のうちに勧誠を受けることができました。
次は、主人の折伏です。井上さんと西野さんに自宅に来ていただいて話をしてもらい、 私からは、御住職様の指導の内容を伝え、寺院参詣や御登山して感じたこと、学会は動行も改変され、本来とは違う形になっていること等を話しました。主人は、自分より先に私が行動したことが気に入らなかったようで、なかなか素直には受け入れてくれませんでした。その後も、主人から「子供達には何と伝えるのか」と責められましたが、
「私が彼らを説得していくから大丈夫です」
と確信をもって言いました。
どうしても十月の御講には主人をお寺にれて行きたかった私は、あれこれ考えた末、原点に戻って話そうと思いました。それは主人が私を折伏した時に言った言葉を、今度は私からそのまま主人に返すことだったのです。
すると主人は、
「そんなこと、言われなくてもわかっている」
と言ったので、
「それなら早く日蓮正宗に戻ろう」
と言いました。 主人は、日蓮正宗の方が正しいことはよく解っていたようですが、自分を折伏してくれた学会員や周りの状況に気兼ねして踏ん切りがつかずにいたのです。
その後もいろいろとありましたが、 諦めずに話し続けていったところ、ついに
十月三十一日に晴れて主人も勧誠を受けることができました。
その後、御本尊様を御下附いただき、御住職様に入仏式を執り行なっていただいて、 念願の御本尊様を我が家にお迎えすることが叶いました。
それから間もなくして、ある日突然、創価学会の本部長が幹部五人ほどを引き連れて我が家にやってきました。私達を説得するつもりだったようですが、 私達の気持ちは決まっていましたので、
「日蓮正宗に戻りました」
と、はっきり堂々と言い切りました。
それから、十二月二十一日には、破門後に学会に入った主人の妹、その娘と二人の孫が、四人一緒に御授戒を受けることができ、また、今年のお正目月には、私の長男が帰省した際に勧誠を受けることができました。身内の中では、私の娘家族がまだニセ本尊を持っていますが、一日も早く謗法払いをしてお寺に連れて行きたいと祈っています。
『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべき」(御書一三一六頁)
と仰せられ、御法主日如上,人猊下樣は、
「仏緑を結ぶことが大事でありまして、誠心誠意、心を込めて、根気よく妙法の広大無辺なる功徳を説き、 慈悲の心をもって折伏を続けていけば、相手はや
がて入信に至ることができるのであります」(一月度広布唱題会の砌)
と御指南されています。私自身まだ勧誠を受けて日が浅いのですが、かつての私達と同じように、学会員の中には、正しい信心が見えなくなって迷い苦しんでいる人が大勢いるはずです。
そういう学会員を一人でも多く救うためにも、これからしっかり信心に励み、法源寺支部の皆様と異体同心して折伏に励んでいきたいと思います。
そして、明年の大聖人様御聖誕八百年には、家族,親戚と共に、御祝いの御登山に参加させていただきたいと思っております。
(慧妙 令和二年 三月十六日)
福井県越前市 法清寺支部 橋本 とし子
悩みつつも学会を選択
私は長く創価学会に籍を置いておりましたが、再び、日蓮正宗に戻ることができました。
昭和四十年、二十歲の頃、自動車学校に通い始めた私は、そこで教習指導員をしていた今の主人と知り合いました。
交際する中で、彼が創価学会員だと知りました。当時の私は、まったく宗教に興味がなく、その後もいろいろと悩み考え、一旦は結婚を断わったのですが、主人がお世話になっていた学会員宅に連れて行かれ、そこで長時間、話を聞かされました。
その際、私が「創価学会はどういう団体ですか」と尋ねましたら、その方は日蓮正宗を護って、弘める団体だ」と言われました。
父にそのことを話して相談したところ、父は
「信心している人に、悪い人はいないだろう」と言って、結婚を許してもらい、昭和四十九年二月に私も御受戒を受け、結婚に至りました。
その後、両親も念仏から改宗して創価学会員になり、一家で信心をしていくこととなりました。
私は子供にも恵まれ、長女が誕生し、その七年後には長男も授かりました。そして、年に一度ですが、総本山大石寺に家族全員で参詣し、本門戒壇の大御本尊様の御開扉を受けさせていただいておりました。
ところが、私が入信してから二十年ほど過ぎて、平成に入った頃、宗門と学会との問題が起こり、ついに創価学会は日蓮正宗から破門にされてしまいまいした。その当時、私達家族はすごく悩み、主人は最寄りの日蓮正宗寺院である法源寺に駆け込んで、当時の御住職様にお話を聞かせていただきましたが、結局、お世話になっていた学会員の口車に乗せられ、創価学会についていくことを選択してしまいました。
その後、御本尊様も学会版の”ニセ本尊”に交換させられ、以来、二十七年間、人生において一番大切な時を、日蓮正宗から破門された創価学会で過ごすことになりました。
地道な働きかけと正信心への回帰
私は地区婦人部長という役職を持っていたため、学会の会合には出席していましたが、会合では日蓮正宗のことを悪く言うばかりで、だんだん信心に対する気持ちも薄らぎ、一歩引いた感じで見ていました。
よくよく考えてみると、なぜ破門されたのか、その理由は聞かされておらず、不明な点が多くありました。
その頃、仕事で井上さんのお宅に行くことがあり、井上さんから信心のことを話されました。
井上さんは、法華講員だったのです。
私が創価学会員であることを話したところ、井上さんと西野さんが私の家に訪問してくださるようになりました。 私の中では法華講に入るなどとは思ってもいませんでしたので、
「何回来ていただいても、うちは無理だ」
とお伝えしました。しかし、お二人は何回となく訪問してくださり、大石寺の写真やいろいろな本を|持ってきては、玄関先で笑顔で話していかれるのです。こうした対話が二年ほど続きました。その間、訪問の回数が少なくなって間が空くようになると、逆に気になりだし、主人と一緒に
「もう諦めて来ないのかな」
と話してみたり、 私達の気持ちにも変化が生じてきて、話を聞こうと思うようになったのす。同時に、創価学会に対する気持ちは薄れていくばかりでしたので、なぜ破門されたのか、その経緯を知りたい、という思いが強くなってきました。
それまでは学会側の話しか耳にしていなかったので、 今度は中立の立場で考えてみよう、と思い、お二人からいただいた本などを熟読するようになりました。 すると、 次第に、創価学会は大謗法の団体となり、大きな罪障を積んでいる、ということがわかってきて、とても怖くなってきました。
また、学会では末端の会員には知らされていないことが多々あること、情報操作で洗脳されていることもわかってきました。この時になって、私は、
「創価学会をやめよう」
と心に誓い、まず、毎年ある ”財務"を断わることから始めました。それからというもの「とにかくお寺に行きたい」という気持ちが日に日に強くなって、井上さんに御講への参詣を希望しましたら、大歓迎されて法源寺にお参りできました。
昨年の五月、二十数年ぶりに御報恩御講に参詣し、御住職様のもと法華講の皆様と一緒に御書を拝読し、御法話を聞くにつれ、
「やはり私は、日蓮正宗の御本尊様でないと生きていけない」
と、あらためて思いました。 が、一方では、
「お寺に来て御本尊様を拝んでさえいれば、学会員のままでもよいのではないか」
というような気持ちもあって、どうしても勧誠を受ける決断ができずにおりました。
六月も御講に参詣させていただいて、終了後に御住職様からも御指導をいただき、ついに七月の御講の時、井上さんから強く背中を押されて、晴れて勧誠を受けることができました。
そして、 七月二十一日、二十七年ぶりに大石寺に参詣し、本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることが叶ったのです。 もう二度と大石寺に来ることはできないと思っていただけに、御開扉を受けた時の感慨はひとしおでした。
親族が次々と脱会、帰伏(きふく)へ
私は、寺院参詣, 登山参詣が叶いましたので、その勢いをもって次は折伏、と思い、まず実母の折伏に取りかかりました。そして、八月二十五日、実母を法源寺に連れて行き、御住職様からお話していただいたところ、 実母はその日のうちに勧誠を受けることができました。
次は、主人の折伏です。井上さんと西野さんに自宅に来ていただいて話をしてもらい、 私からは、御住職様の指導の内容を伝え、寺院参詣や御登山して感じたこと、学会は動行も改変され、本来とは違う形になっていること等を話しました。主人は、自分より先に私が行動したことが気に入らなかったようで、なかなか素直には受け入れてくれませんでした。その後も、主人から「子供達には何と伝えるのか」と責められましたが、
「私が彼らを説得していくから大丈夫です」
と確信をもって言いました。
どうしても十月の御講には主人をお寺にれて行きたかった私は、あれこれ考えた末、原点に戻って話そうと思いました。それは主人が私を折伏した時に言った言葉を、今度は私からそのまま主人に返すことだったのです。
すると主人は、
「そんなこと、言われなくてもわかっている」
と言ったので、
「それなら早く日蓮正宗に戻ろう」
と言いました。 主人は、日蓮正宗の方が正しいことはよく解っていたようですが、自分を折伏してくれた学会員や周りの状況に気兼ねして踏ん切りがつかずにいたのです。
その後もいろいろとありましたが、 諦めずに話し続けていったところ、ついに
十月三十一日に晴れて主人も勧誠を受けることができました。
その後、御本尊様を御下附いただき、御住職様に入仏式を執り行なっていただいて、 念願の御本尊様を我が家にお迎えすることが叶いました。
それから間もなくして、ある日突然、創価学会の本部長が幹部五人ほどを引き連れて我が家にやってきました。私達を説得するつもりだったようですが、 私達の気持ちは決まっていましたので、
「日蓮正宗に戻りました」
と、はっきり堂々と言い切りました。
それから、十二月二十一日には、破門後に学会に入った主人の妹、その娘と二人の孫が、四人一緒に御授戒を受けることができ、また、今年のお正目月には、私の長男が帰省した際に勧誠を受けることができました。身内の中では、私の娘家族がまだニセ本尊を持っていますが、一日も早く謗法払いをしてお寺に連れて行きたいと祈っています。
『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべき」(御書一三一六頁)
と仰せられ、御法主日如上,人猊下樣は、
「仏緑を結ぶことが大事でありまして、誠心誠意、心を込めて、根気よく妙法の広大無辺なる功徳を説き、 慈悲の心をもって折伏を続けていけば、相手はや
がて入信に至ることができるのであります」(一月度広布唱題会の砌)
と御指南されています。私自身まだ勧誠を受けて日が浅いのですが、かつての私達と同じように、学会員の中には、正しい信心が見えなくなって迷い苦しんでいる人が大勢いるはずです。
そういう学会員を一人でも多く救うためにも、これからしっかり信心に励み、法源寺支部の皆様と異体同心して折伏に励んでいきたいと思います。
そして、明年の大聖人様御聖誕八百年には、家族,親戚と共に、御祝いの御登山に参加させていただきたいと思っております。
(慧妙 令和二年 三月十六日)