妙観講支部:
私は、昭和四十七年に大阪で生まれました。
私の家では、祖父の喘息がキッカケで、勧められるまま天理教に入ってしまいましたが、治るどころか、その後に生まれた私も喘息となって、幼い頃から、救急車で運ばれたり、気絶するほどの発作に襲われてきました。天理教の儀式で体をさすってもらったりしましたが、全く治ることはありませんでした。
やがて私が小学校二年になった時、大好きだった祖母が亡くなり、その直後には両親が離婚。私達兄弟三人は父親に引き取られましたが、立て続けに辛いでき事が重なったことから、私の心は歪 んでいきました。
学校でまじめに勉強することのできなかった私は、小学四年の時に万引きで補導されたのを皮切りに、中学に入るとシンナーを覚えて、最初は鑑別所に、次には少年院に入れられてしまいました。
更生しようと思ったこともありましたが、誘惑から逃がれることができず、シンナーに加えてケンカ、窃盗と、悪事を重ねた挙げ句、とうとうヤクザの世界に足を踏み入れ、体には入れ墨まで入れました。
さらに、義理の兄から勧められて覚せい剤を覚え、たちまちのめり込んでしまいました。
私の場合、覚醒剤を打つと他の人よりも激しい幻覚・幻聴に襲われ、周りの人が皆、敵であるような錯覚に陥ってしまいます。そのため、覚醒剤による幻聴や幻覚に惑わされては、たびたび刃物で人を脅したり、自分の手首や首を切るようになりました。
こうして、覚醒剤使用・窃盗・暴行・公務執行妨害と、ありとあらゆる犯罪に手を染めた私は、二十代のほとんどを刑務所で過ごす結果となってしまったのです。刑務所を出たり、入ったりを繰り返す中で、交際していた彼女とも別れてしまいました。
そして平成十七年、三十三歳の時に、五回目の刑務所生活をしていた折、現在のN.H.班長と出会ったのです。
同じ部屋にいたN.H.班長は、刑務所の中で信心をするようになり、毎日、壁に向かって一人で勤行をしていました。
その姿を見て、
「偉い奴だなあ」
と思ったのですが、その後、N.H.班長から信心を勧められた時には、素直に話を聞く事ができず、
「自分は絶対に信心しない」
と言い張りました。
さらに、その頃、兄が病気で亡くなり、私は兄の供養になると思って、邪宗教とも知らずに般若心経を読み、写経までするようになったのです。
ですが、邪宗教を信仰して、良い結果になるはずがありません。仏法では親子の命はつながっており、一体であると説かれていますが、私が刑務所の中で般若心経に没頭している時、今度は父が焼身自殺をしてしまったのです。
父は、私の服役中に再婚をしたそうですが、相手が創価学会員だったことから、自分も学会に入ってしまい、その後、精神病になって、再婚相手と子供をおいて焼身自殺をしてしまった、とのことです。
私はこのことを、平成十九年に出所してから知ったのですが、かつて母と離婚した後、私達兄弟三人を引き取って育ててくれた父の、悲惨な死は、本当に心を掻(か)きむしられるような辛い出来事でした。
父に申し訳なくて涙が出ました。
私は、心配ばかりかけて、何の親孝行もできないまま亡くしてしまった父のために、せめて、いつかお墓を建ててあげたい、と思いました。
さて、出所後の私は、母の勧めもあって和歌山に住むことにしたのですが、和歌山に向かう途中、以前、N.H.班長からもらった手紙に「和歌山にいる」と書かれてあった事を思い出したのです。懐 かしくなって連絡を取り、さっそく会う事になりました。
久しぶりに会ったN.H.班長は、今も日蓮正宗の信仰を続けていて、真面目に働き、結婚もして、間もなく子供も生まれるということでした。見るからに立派になり、幸せな生活を送っていることが、はた目にもわかりました。
そしてN.H.班長は、信心によっていろいろな問題を解決してきた体験を話してくれ、邪宗教では絶対に幸せになれないし成仏も叶わない、お父さんの追善供養も、日蓮正宗の正しい仏法でなければ成仏させてあげることはできない、と熱心に説得してくれたのです。
その話に後押しされ、私は、とうとう日蓮正宗に入信することにしました。平成十九年十二月のことでした。
しかし、入信はしたものの、元来怠け者だった私は、土日は仕事が休みなのだから信心も休み、と勝手に決めて、勤行も講中の会合も怠け放題に怠けていました。もちろん、折伏など絶対にしたくない、と思っていました。
そんな私に手を焼きながらも、班長は一緒に勤行をしてくれ、
「僕も折伏が得意なわけではないけど、折伏をしないと幸せになれないんや。だから折伏をしているんや」
と一生懸命に話してくれました。
そうした班長のねばり強い育成のおかげで、私も何とか信心を続けることができ、入信三ヶ月が過ぎて自宅に御本尊様をお迎えすることができたのですが、その頃から、私の信心に対する思いが少しずつ変わってきたのです。
じつは、幼少の頃よりずっと苦しんできた喘息の発作が、勤行をするようになってから、いつの間にか、全く起きなくなっていることに気がついたのです。
こうした出来事によって御本尊様の御力を確信した私は、それ以来、欠かさず朝夕の勤行に励むようになりました。
また、その頃の私は、覚醒剤の誘惑と常に闘い続けていました。せっかく真面目に生きようと決めたのに、再び覚醒剤を打ったりしたら、元の木阿弥(もくあみ)です。
しかし、覚醒剤は一度覚えてしまうと、生半可なことでは断ち切ることができません。もう、どうでもよくなって、負けてしまいそうになることも度々でした。
ところが、御本尊様に向かって勤行をしていると、
「絶対に誘惑には負けられない、もう二度と薬に手を出してはならない」
という強い気持ちが起きてくるのです。この実感がハッキリと掴(つか)めたことから、私は、覚醒剤の誘惑をはねのけるためには、毎日、絶対に勤行を怠けてはいけないのだ、と思いました。
朝寝坊をして勤行ができないまま出勤した時には、朝礼を終えて現場に向かう車の中で、同僚が見ていても、
「俺、勤行するから」
と言って勤行をしていきました。
その結果、多くの人が止めることができずにいる覚醒剤を、完全に断ち切ることができたのです。本当に御本尊様の功徳であると、日々、感謝しております。
また、折伏は勤行以上に苦手でしたが、月二回行なわれる本部講習会に参加していく中で、折伏の大切さがわかり、自然に実践できるようになっていきました。
平成二十年九月に、折伏した知人が初めて入信できた時の感激は忘れられません。
それからは
「もっと折伏していこう!」
「とにかく、できることは何でもやろう!」
と、公明党のポスターを見つけては、バイクで『慧妙』を配布し、電話帳で学会員を探しては折伏していきました。
こうして折伏を進める中で、さらに御本尊様からたくさんの功徳をいただいたのです。
まず、一昨年四月には、刑務所を出て以来の念願であった今井家の墓を、二年目にして建てることができました。日々の勤行はもちろん、お盆やお彼岸でお塔婆を立てて父の追善供養をし、さらに日蓮正宗のお題目を刻んだお墓を建立することができ、少しは親孝行ができたのではないかと思っています。
また、仕事の方も、和歌山に来た当時は不安定なゴミ収集のアルバイトをしていたのですが、そこから待遇の良い汲み取りの仕事につくことができ、さらに、そこの社長の紹介で、市役所のゴミ収集車の運転手をさせていただけるようになって、収入も格段に増えて安定してきました。
この不景気で失業者があふれる中、私のような者に、次々と良い条件の仕事が見つかって収入が増えてきたことは、本当に不思議なことで、御本尊様の功徳としか言いようがありません。
さらに、一昨年七月、私が刑務所に入ったことによって別れてしまった彼女から突然の電話があり、数年ぶりに会いました。折伏すると、素直に聞いてくれて入信することができ、結婚を前提に再び付き合うようになりました。
ところが、彼女の両親は、以前のひどい私を知っているため、絶対に結婚は許さない、と猛烈に反対してこられました。親御さんとしては当然のことです。
これはもう御本尊様に助けていただくしかないと思い、二人で勤行唱題に励み、折伏に回っていきました。
仕事場の後輩や以前の刑務所仲間にも連絡をとって折伏していきました。
かつて、木刀を振り回して脅 迫してきた私から、
「真面目に信心していったら幸せになれるから…」
という話をされた昔の友人達は、皆、度肝を抜かれて驚き、その中から
「自分も幸せになりたい」
といって入信する人達も出ました。
こうして折伏を続けていったところ、突如として彼女の両親が、私が更正したことを認めてくれ、結婚を承諾してくれたのです。嬉しくて舞い上がりそうになり、心から御本尊様に御礼申し上げました。そして、昨年の七月七日、無事、彼女と結婚することができました。
その後、念願だったマイホームも手に入れることができ、現在の幸せを御本尊様に感謝して、日々、信心を根本に仕事に励んでいます。刑務所から体一つで出てきてから三年半、まるで夢のような人生に大転換しました。
また、この御報恩のために、今日までに、私の姉夫婦と姪 ・甥 をはじめ十二名の人達を入信に導くことができました。
姉の一家が入信できた事は本当に嬉しく、中でも甥は一生懸命に折伏に励んでいったところ、悩んでいた斜視が治る、という大功徳をいただきました。家族五人で一生懸命に信心に励んでいる姿を見ると、嬉しくてなりません。 なお、本日の総会には、私が班長補佐を務めておりますN.H.班として、班長や私の家族・親戚、仕事仲間、かつての友人、そして刑務所仲間、刑務官の方々、総勢三十五人で、和歌山から参集することができました。
班長ひとりから始まって、わずか数年でこれだけの人達が喜んで信心をするようになっている、という現実は、本当に御本尊様の絶対の御力によるものと確信しております。
入信前、人が泣こうが苦しもうが自分さえ良ければどうでもいい、と思っていた私が、人の幸せを願って折伏に励むようになろうとは、考えてもみませんでした。御本尊様に巡り合えた有り難さを心から噛みしめ、「生きていて良かった!」と思う毎日です。
この大功徳に報いていけるよう、これからも、さらにさらに頑張ってまいります。
ありがとうございました。
(大白法 平成23年10月1日号/蒼碧集12)
私は、昭和四十七年に大阪で生まれました。
私の家では、祖父の喘息がキッカケで、勧められるまま天理教に入ってしまいましたが、治るどころか、その後に生まれた私も喘息となって、幼い頃から、救急車で運ばれたり、気絶するほどの発作に襲われてきました。天理教の儀式で体をさすってもらったりしましたが、全く治ることはありませんでした。
やがて私が小学校二年になった時、大好きだった祖母が亡くなり、その直後には両親が離婚。私達兄弟三人は父親に引き取られましたが、立て続けに辛いでき事が重なったことから、私の心は歪 んでいきました。
学校でまじめに勉強することのできなかった私は、小学四年の時に万引きで補導されたのを皮切りに、中学に入るとシンナーを覚えて、最初は鑑別所に、次には少年院に入れられてしまいました。
更生しようと思ったこともありましたが、誘惑から逃がれることができず、シンナーに加えてケンカ、窃盗と、悪事を重ねた挙げ句、とうとうヤクザの世界に足を踏み入れ、体には入れ墨まで入れました。
さらに、義理の兄から勧められて覚せい剤を覚え、たちまちのめり込んでしまいました。
私の場合、覚醒剤を打つと他の人よりも激しい幻覚・幻聴に襲われ、周りの人が皆、敵であるような錯覚に陥ってしまいます。そのため、覚醒剤による幻聴や幻覚に惑わされては、たびたび刃物で人を脅したり、自分の手首や首を切るようになりました。
こうして、覚醒剤使用・窃盗・暴行・公務執行妨害と、ありとあらゆる犯罪に手を染めた私は、二十代のほとんどを刑務所で過ごす結果となってしまったのです。刑務所を出たり、入ったりを繰り返す中で、交際していた彼女とも別れてしまいました。
そして平成十七年、三十三歳の時に、五回目の刑務所生活をしていた折、現在のN.H.班長と出会ったのです。
同じ部屋にいたN.H.班長は、刑務所の中で信心をするようになり、毎日、壁に向かって一人で勤行をしていました。
その姿を見て、
「偉い奴だなあ」
と思ったのですが、その後、N.H.班長から信心を勧められた時には、素直に話を聞く事ができず、
「自分は絶対に信心しない」
と言い張りました。
さらに、その頃、兄が病気で亡くなり、私は兄の供養になると思って、邪宗教とも知らずに般若心経を読み、写経までするようになったのです。
ですが、邪宗教を信仰して、良い結果になるはずがありません。仏法では親子の命はつながっており、一体であると説かれていますが、私が刑務所の中で般若心経に没頭している時、今度は父が焼身自殺をしてしまったのです。
父は、私の服役中に再婚をしたそうですが、相手が創価学会員だったことから、自分も学会に入ってしまい、その後、精神病になって、再婚相手と子供をおいて焼身自殺をしてしまった、とのことです。
私はこのことを、平成十九年に出所してから知ったのですが、かつて母と離婚した後、私達兄弟三人を引き取って育ててくれた父の、悲惨な死は、本当に心を掻(か)きむしられるような辛い出来事でした。
父に申し訳なくて涙が出ました。
私は、心配ばかりかけて、何の親孝行もできないまま亡くしてしまった父のために、せめて、いつかお墓を建ててあげたい、と思いました。
さて、出所後の私は、母の勧めもあって和歌山に住むことにしたのですが、和歌山に向かう途中、以前、N.H.班長からもらった手紙に「和歌山にいる」と書かれてあった事を思い出したのです。懐 かしくなって連絡を取り、さっそく会う事になりました。
久しぶりに会ったN.H.班長は、今も日蓮正宗の信仰を続けていて、真面目に働き、結婚もして、間もなく子供も生まれるということでした。見るからに立派になり、幸せな生活を送っていることが、はた目にもわかりました。
そしてN.H.班長は、信心によっていろいろな問題を解決してきた体験を話してくれ、邪宗教では絶対に幸せになれないし成仏も叶わない、お父さんの追善供養も、日蓮正宗の正しい仏法でなければ成仏させてあげることはできない、と熱心に説得してくれたのです。
その話に後押しされ、私は、とうとう日蓮正宗に入信することにしました。平成十九年十二月のことでした。
しかし、入信はしたものの、元来怠け者だった私は、土日は仕事が休みなのだから信心も休み、と勝手に決めて、勤行も講中の会合も怠け放題に怠けていました。もちろん、折伏など絶対にしたくない、と思っていました。
そんな私に手を焼きながらも、班長は一緒に勤行をしてくれ、
「僕も折伏が得意なわけではないけど、折伏をしないと幸せになれないんや。だから折伏をしているんや」
と一生懸命に話してくれました。
そうした班長のねばり強い育成のおかげで、私も何とか信心を続けることができ、入信三ヶ月が過ぎて自宅に御本尊様をお迎えすることができたのですが、その頃から、私の信心に対する思いが少しずつ変わってきたのです。
じつは、幼少の頃よりずっと苦しんできた喘息の発作が、勤行をするようになってから、いつの間にか、全く起きなくなっていることに気がついたのです。
こうした出来事によって御本尊様の御力を確信した私は、それ以来、欠かさず朝夕の勤行に励むようになりました。
また、その頃の私は、覚醒剤の誘惑と常に闘い続けていました。せっかく真面目に生きようと決めたのに、再び覚醒剤を打ったりしたら、元の木阿弥(もくあみ)です。
しかし、覚醒剤は一度覚えてしまうと、生半可なことでは断ち切ることができません。もう、どうでもよくなって、負けてしまいそうになることも度々でした。
ところが、御本尊様に向かって勤行をしていると、
「絶対に誘惑には負けられない、もう二度と薬に手を出してはならない」
という強い気持ちが起きてくるのです。この実感がハッキリと掴(つか)めたことから、私は、覚醒剤の誘惑をはねのけるためには、毎日、絶対に勤行を怠けてはいけないのだ、と思いました。
朝寝坊をして勤行ができないまま出勤した時には、朝礼を終えて現場に向かう車の中で、同僚が見ていても、
「俺、勤行するから」
と言って勤行をしていきました。
その結果、多くの人が止めることができずにいる覚醒剤を、完全に断ち切ることができたのです。本当に御本尊様の功徳であると、日々、感謝しております。
また、折伏は勤行以上に苦手でしたが、月二回行なわれる本部講習会に参加していく中で、折伏の大切さがわかり、自然に実践できるようになっていきました。
平成二十年九月に、折伏した知人が初めて入信できた時の感激は忘れられません。
それからは
「もっと折伏していこう!」
「とにかく、できることは何でもやろう!」
と、公明党のポスターを見つけては、バイクで『慧妙』を配布し、電話帳で学会員を探しては折伏していきました。
こうして折伏を進める中で、さらに御本尊様からたくさんの功徳をいただいたのです。
まず、一昨年四月には、刑務所を出て以来の念願であった今井家の墓を、二年目にして建てることができました。日々の勤行はもちろん、お盆やお彼岸でお塔婆を立てて父の追善供養をし、さらに日蓮正宗のお題目を刻んだお墓を建立することができ、少しは親孝行ができたのではないかと思っています。
また、仕事の方も、和歌山に来た当時は不安定なゴミ収集のアルバイトをしていたのですが、そこから待遇の良い汲み取りの仕事につくことができ、さらに、そこの社長の紹介で、市役所のゴミ収集車の運転手をさせていただけるようになって、収入も格段に増えて安定してきました。
この不景気で失業者があふれる中、私のような者に、次々と良い条件の仕事が見つかって収入が増えてきたことは、本当に不思議なことで、御本尊様の功徳としか言いようがありません。
さらに、一昨年七月、私が刑務所に入ったことによって別れてしまった彼女から突然の電話があり、数年ぶりに会いました。折伏すると、素直に聞いてくれて入信することができ、結婚を前提に再び付き合うようになりました。
ところが、彼女の両親は、以前のひどい私を知っているため、絶対に結婚は許さない、と猛烈に反対してこられました。親御さんとしては当然のことです。
これはもう御本尊様に助けていただくしかないと思い、二人で勤行唱題に励み、折伏に回っていきました。
仕事場の後輩や以前の刑務所仲間にも連絡をとって折伏していきました。
かつて、木刀を振り回して脅 迫してきた私から、
「真面目に信心していったら幸せになれるから…」
という話をされた昔の友人達は、皆、度肝を抜かれて驚き、その中から
「自分も幸せになりたい」
といって入信する人達も出ました。
こうして折伏を続けていったところ、突如として彼女の両親が、私が更正したことを認めてくれ、結婚を承諾してくれたのです。嬉しくて舞い上がりそうになり、心から御本尊様に御礼申し上げました。そして、昨年の七月七日、無事、彼女と結婚することができました。
その後、念願だったマイホームも手に入れることができ、現在の幸せを御本尊様に感謝して、日々、信心を根本に仕事に励んでいます。刑務所から体一つで出てきてから三年半、まるで夢のような人生に大転換しました。
また、この御報恩のために、今日までに、私の姉夫婦と姪 ・甥 をはじめ十二名の人達を入信に導くことができました。
姉の一家が入信できた事は本当に嬉しく、中でも甥は一生懸命に折伏に励んでいったところ、悩んでいた斜視が治る、という大功徳をいただきました。家族五人で一生懸命に信心に励んでいる姿を見ると、嬉しくてなりません。 なお、本日の総会には、私が班長補佐を務めておりますN.H.班として、班長や私の家族・親戚、仕事仲間、かつての友人、そして刑務所仲間、刑務官の方々、総勢三十五人で、和歌山から参集することができました。
班長ひとりから始まって、わずか数年でこれだけの人達が喜んで信心をするようになっている、という現実は、本当に御本尊様の絶対の御力によるものと確信しております。
入信前、人が泣こうが苦しもうが自分さえ良ければどうでもいい、と思っていた私が、人の幸せを願って折伏に励むようになろうとは、考えてもみませんでした。御本尊様に巡り合えた有り難さを心から噛みしめ、「生きていて良かった!」と思う毎日です。
この大功徳に報いていけるよう、これからも、さらにさらに頑張ってまいります。
ありがとうございました。
(大白法 平成23年10月1日号/蒼碧集12)