宮城県名取市・広安寺支部 渡邊正男
これ以上、不幸になりたくない
私は、東京で学生生活を送っていた昭和五十六年二月、二十歳の時に、日蓮正宗の寺院で御受戒を受け、創価学会に入会しました。
学生部を経(へ)て男子部となり、折伏にも頑張っていたのですが、仕事と学会活動の両立に疲れたというか、
「日曜日くらいは遊びたい」という気持ちが強くなって徐々学会活動から離れていきました。
その後、三十歳となった平成三年頃、東京から宮城県岩沼市の実家に転居することになりましたが、東京から戻る少し前頃から、耳鳴りやめまい、頭重感や平衡感覚の異常などの体調不良を感じるようになっていました。
しかし、東京でも岩沼でも病院の検査では原因が見つからず、どうすることもできませんでした。
私は、体調不良の原因は、八年間も学会活動をしていなかったための罰だ、と思い、再び岩沼で学会活動を始めました。その頃の学会は、会館での同時放送などでも宗門の悪口雑言が盛んに叫ばれ、私は何もわからないまま、ただ学会の言うことを信じていました。
その後、四十歳の頃に仕事の関係で富谷(とみや)市(同県)に転居してからも学会活動を続け、今から五年ほど前より”地区部長”という役職に就き、地区の約百名の部員さんの家庭訪問や『聖教新聞』の啓蒙、選挙のF取りやポスター貼り、広布部員として年一度の財務の推進、会館の護衛任務、勉強会など、様々な会合にも参加していました。
その頃の私は、生活上の問題や健康上の問題、仕事の問題等に悩まされながらも、
「これも自分の宿業だ」
と思い、
「まだまだ信心が足りないのだ」
と自分に言い聞かせながら学会活動をしていたのです。しかし、正直なところ、全てにおいて少しずつ悪い方向に向かっていることは感じていました。
そして、一昨年(平成二十八年)の二月には、会社が解散し、五十五歳にして失業者の身になってしまたのですが、これもまた自分の宿業だ、と諦めていました。
失業中にインターネットを観ていたところ、たまたま長野の妙相寺所属の法華講員が学会員や顕正会員と法論している動画に出会いました。最初は、
「どうせ学会の方が勝つだろう」
と思って観ていたのですが、なんと、学会員や顕正会員が論破されて、何も反論できない状態になったのです。
「もしかしたら、学会が間違っているのではないか」
と大きなショックを受けました。
それから五ヵ月ほどの間、ほぼ毎日、インターネットで法華講員が発する動画やツイッターを見ているうちに、自分の姿とも照らし合わせ、
「やはり、学会の本尊はニセ本尊で、何の功徳もないばかりか、ますます不幸になっていくのだ」
ということを確信し、
「もう、これ以上不幸になりたくない」
と思った私は、仏壇からニセ本尊を外し、丸めて封筒に入れて置きました。
そして、創価学会からの脱会を決意した私は、その年の十月五日に広安寺に電話をかけ、御住職のお話を伺って、勧戒を受けさせていただきました。広安寺の御本尊様を拝観させていただいた時は、
「これが本物の御本尊様なのだ、学会のニセ本尊とは全く違う」
と、御本尊様の荘厳さに身体が震えるような感動を覚え、何とも言えない喜びに包まれました。
この時、
「学会の間違いにもっと早く気づけばよかった」
と、心底から思いました。
折伏して判(わか)った学会の迷妄(めいもう)ぶり
話は前後しますが、勧戒を受けた数日後からは、講中の皆さんと一緒に、学会員宅を訪問折伏して歩きました。
その後は、同年十月に二百三十二件、十一月に六十九件にのぼりました。
すると、岩沼市の学会本部長から電話があり、
「一度会いたい」
とのこと。会ってみると、
「かつて一緒に活動してきた仲なのだから、学会員宅に折伏に行かないでくれ」
と泣きを入れてきたのです。
もちろん、私からは、学会は間違った謗法団体であることを話しましたが、その本部長は聞く耳を持とうとしませんでした。さらに、その数ヵ月後には、冨谷市の学会員宅を訪問折伏した数日後の夜、突然、総区長と園長と本部長の三人が私の所に来て、
「もともとは体調が悪かったAさんは、渡邊さんが学会を脱会して正宗に戻ったことがとてもショックで、もっと体調が悪くなり寝込んでしまった。冨谷支部の学会員には、渡邊さんが来たら警察に電話をするように、と徹底しているので、来てもムダだよ。来ないでください」
と、この人達もまた、泣きを入れてきました。
私が、「学会は”御書根本”と言いながら、実際は御書から外れているではないか」と追及し、いくつか質問をしたところ、驚いたことに園長は、私が挙げた御書の一節、
「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す」(御書二六八頁)とある「僧」の解釈を、なんと、
「現代で言えば、池田先生ということだね」
と言ったのです。
もちろん、この御金言における”僧”とは、”三宝(さんぽう)”のうち、仏法を正統に継承し伝えて来られたところの”僧宝”を示されたものであります。
にもかかわらず、一在家信徒である池田大作を”僧宝”だというのですから、私は唖然とさせられ、幹部がこのようなことでは、創価学会は、大聖人様の御教えとは無縁の、どうしようもない謗法の道を歩んでいることを強く感じました。その他にも、私は法華講員となってから何人もの学会員と話をしてきましたが、その中で強く感じたことは、いまや創価学会は糸の切れた凧(たこ)のように、目的もなくフワフワとさまよっている謗法団体である、ということです。とくに、前述の園長同様、”池田大作を崇拝し、日蓮大聖人の教義はあまり関係ない”という学会員があまりにも多いことに気付きました。
私は、これが現在の創価学会の実態だったのかと、愕然(がくぜん)とすると同時に、何とかして一人でも多くの学会員を救わなければ、と思わずにはいられませんでした。
そうした中で、学会婦人部だったBさんが、ニセ本尊を学会に返して、共に法華講員で信心できるようになったことは、本当に嬉しいことでした。私が法華講員になってから、まだ一年数ヵ月ですが、本物の御本尊様を拝み、所属寺院と総本山大石寺に参詣し、また学会員を折伏してくる中で、体調はすっかり回復し、念願だった再就職も叶って、今は本当に充実した毎日を送っております。
今後も、日蓮正宗に帰依できたことを感謝し、不幸に突き進む学会員はもとより、一人でも多くの方を救えるよう、自行化他にがんばっていきたいと思います。
(慧妙 2018年1月16日号)
これ以上、不幸になりたくない
私は、東京で学生生活を送っていた昭和五十六年二月、二十歳の時に、日蓮正宗の寺院で御受戒を受け、創価学会に入会しました。
学生部を経(へ)て男子部となり、折伏にも頑張っていたのですが、仕事と学会活動の両立に疲れたというか、
「日曜日くらいは遊びたい」という気持ちが強くなって徐々学会活動から離れていきました。
その後、三十歳となった平成三年頃、東京から宮城県岩沼市の実家に転居することになりましたが、東京から戻る少し前頃から、耳鳴りやめまい、頭重感や平衡感覚の異常などの体調不良を感じるようになっていました。
しかし、東京でも岩沼でも病院の検査では原因が見つからず、どうすることもできませんでした。
私は、体調不良の原因は、八年間も学会活動をしていなかったための罰だ、と思い、再び岩沼で学会活動を始めました。その頃の学会は、会館での同時放送などでも宗門の悪口雑言が盛んに叫ばれ、私は何もわからないまま、ただ学会の言うことを信じていました。
その後、四十歳の頃に仕事の関係で富谷(とみや)市(同県)に転居してからも学会活動を続け、今から五年ほど前より”地区部長”という役職に就き、地区の約百名の部員さんの家庭訪問や『聖教新聞』の啓蒙、選挙のF取りやポスター貼り、広布部員として年一度の財務の推進、会館の護衛任務、勉強会など、様々な会合にも参加していました。
その頃の私は、生活上の問題や健康上の問題、仕事の問題等に悩まされながらも、
「これも自分の宿業だ」
と思い、
「まだまだ信心が足りないのだ」
と自分に言い聞かせながら学会活動をしていたのです。しかし、正直なところ、全てにおいて少しずつ悪い方向に向かっていることは感じていました。
そして、一昨年(平成二十八年)の二月には、会社が解散し、五十五歳にして失業者の身になってしまたのですが、これもまた自分の宿業だ、と諦めていました。
失業中にインターネットを観ていたところ、たまたま長野の妙相寺所属の法華講員が学会員や顕正会員と法論している動画に出会いました。最初は、
「どうせ学会の方が勝つだろう」
と思って観ていたのですが、なんと、学会員や顕正会員が論破されて、何も反論できない状態になったのです。
「もしかしたら、学会が間違っているのではないか」
と大きなショックを受けました。
それから五ヵ月ほどの間、ほぼ毎日、インターネットで法華講員が発する動画やツイッターを見ているうちに、自分の姿とも照らし合わせ、
「やはり、学会の本尊はニセ本尊で、何の功徳もないばかりか、ますます不幸になっていくのだ」
ということを確信し、
「もう、これ以上不幸になりたくない」
と思った私は、仏壇からニセ本尊を外し、丸めて封筒に入れて置きました。
そして、創価学会からの脱会を決意した私は、その年の十月五日に広安寺に電話をかけ、御住職のお話を伺って、勧戒を受けさせていただきました。広安寺の御本尊様を拝観させていただいた時は、
「これが本物の御本尊様なのだ、学会のニセ本尊とは全く違う」
と、御本尊様の荘厳さに身体が震えるような感動を覚え、何とも言えない喜びに包まれました。
この時、
「学会の間違いにもっと早く気づけばよかった」
と、心底から思いました。
折伏して判(わか)った学会の迷妄(めいもう)ぶり
話は前後しますが、勧戒を受けた数日後からは、講中の皆さんと一緒に、学会員宅を訪問折伏して歩きました。
その後は、同年十月に二百三十二件、十一月に六十九件にのぼりました。
すると、岩沼市の学会本部長から電話があり、
「一度会いたい」
とのこと。会ってみると、
「かつて一緒に活動してきた仲なのだから、学会員宅に折伏に行かないでくれ」
と泣きを入れてきたのです。
もちろん、私からは、学会は間違った謗法団体であることを話しましたが、その本部長は聞く耳を持とうとしませんでした。さらに、その数ヵ月後には、冨谷市の学会員宅を訪問折伏した数日後の夜、突然、総区長と園長と本部長の三人が私の所に来て、
「もともとは体調が悪かったAさんは、渡邊さんが学会を脱会して正宗に戻ったことがとてもショックで、もっと体調が悪くなり寝込んでしまった。冨谷支部の学会員には、渡邊さんが来たら警察に電話をするように、と徹底しているので、来てもムダだよ。来ないでください」
と、この人達もまた、泣きを入れてきました。
私が、「学会は”御書根本”と言いながら、実際は御書から外れているではないか」と追及し、いくつか質問をしたところ、驚いたことに園長は、私が挙げた御書の一節、
「仏宝・法宝は必ず僧によりて住す」(御書二六八頁)とある「僧」の解釈を、なんと、
「現代で言えば、池田先生ということだね」
と言ったのです。
もちろん、この御金言における”僧”とは、”三宝(さんぽう)”のうち、仏法を正統に継承し伝えて来られたところの”僧宝”を示されたものであります。
にもかかわらず、一在家信徒である池田大作を”僧宝”だというのですから、私は唖然とさせられ、幹部がこのようなことでは、創価学会は、大聖人様の御教えとは無縁の、どうしようもない謗法の道を歩んでいることを強く感じました。その他にも、私は法華講員となってから何人もの学会員と話をしてきましたが、その中で強く感じたことは、いまや創価学会は糸の切れた凧(たこ)のように、目的もなくフワフワとさまよっている謗法団体である、ということです。とくに、前述の園長同様、”池田大作を崇拝し、日蓮大聖人の教義はあまり関係ない”という学会員があまりにも多いことに気付きました。
私は、これが現在の創価学会の実態だったのかと、愕然(がくぜん)とすると同時に、何とかして一人でも多くの学会員を救わなければ、と思わずにはいられませんでした。
そうした中で、学会婦人部だったBさんが、ニセ本尊を学会に返して、共に法華講員で信心できるようになったことは、本当に嬉しいことでした。私が法華講員になってから、まだ一年数ヵ月ですが、本物の御本尊様を拝み、所属寺院と総本山大石寺に参詣し、また学会員を折伏してくる中で、体調はすっかり回復し、念願だった再就職も叶って、今は本当に充実した毎日を送っております。
今後も、日蓮正宗に帰依できたことを感謝し、不幸に突き進む学会員はもとより、一人でも多くの方を救えるよう、自行化他にがんばっていきたいと思います。
(慧妙 2018年1月16日号)