目(ま)の当(あ)たりにした身の毛もよだつ仏罰(ぶつばち)
総本山塔中・理境坊所属妙観講 石手洗(いしてあらい) 隆生(たかき)
私は現在七十歳で、青森県八戸市に住んでおります。
平成二十九年十一月に勧誠を受けるまでの四十六年間、顕正会では男子部班長、壮年部支区部長として、熱心に活動してきました。 私が入信した昭和四十六年当時の顕正会は、まだ妙信講と名乗っており、宗門から解散処分を受ける前でした。
当時の私は、建築設計の職場で働いていましたが、毎日の仕事が苦しくて辞めることばかり考えておりましたので、少しでも救われたい、との思いで必死に勤行に励み、顕正会の活動にも熱心に参加するようになっていきました。
その後、顕正会八戸会館ができるまでの約十五年間は、自宅を顕正会に活動拠点として提供してきました。 それほどまでに私は、顕正会で教えられる信仰を信じ、 国立戒壇は絶対の正義と信じていたのです。
浅井昭衛の指導に募(つの)った疑問
しかし、いつの頃からか私は、顕正会に疑問を感じるようになりました。
特に近年になって、浅井会長の政治がらみの指導が多くなり、それも、個々の政策に対する賛否をトップダウンで会員に押し付けてくるようになりました。
曰く(いわ) く、「安保反対」「共謀罪反対」「原発反対」等々。顕正会員はこれを「すでに先生の国家諌暁(かんぎよう)が始まっている」と言うのですが、私には全然納得ができませんでした。
そもそも国家課暁とは、大聖人様が『立正安国論』をもって実質的国主であった北条時頼を諌(いさ)められたことが始まりであり、その『安国論』の内容は、経典を証拠とした仏様の捨邪帰正の金言ではありませんか。
根本の文証である御金言を提示することもなく、浅井会長の世間法上の考えを国家諌暁と信じろ、と言われましても、それは無理なことです。
また私は、他の顕正会員達が何かにつけ「浅井先生にお応(こた)えしよう」
と叫ぶことに違和感を覚えていました。先に挙げた「原発反対」「安保反対」といった浅井会長の指導があるたびに、『顕正新聞』特集号が発行され、布教活動(あえて折犬とはいいません)においては、「浅井先生にお応えするために」この特集号の内容を必ず話さねばならず、御本尊様のこと、日蓮大聖人様のことを、ストレートに話せない顕正会の在(あ)り方に大きな疑問が湧きました。
そして、こんな政治活動まがいのことではなく、純粋に信心修行がしたいとの思いが募(つの)り、迷った挙げ句、仕事上のお客さんである法華講員を訪(たず) ねて話を聞くことにしたのです。その際にも「お寺では政治がらみの指導はありませんか?」と確認した程でした。
ニセ本尊を拝(おが)みドン底の人生へ
その数日後、勧誠を受け、法華講員としての新しい信心が始まりました。 そこで初めて耳にしたのが、顕正会で拝んでいるのは「ニセ本尊」だ、ということです。
題正会にいる時は耳にすることさえありませんでしたが、顕正会所持の本尊に関する浅井会長発言が変遷(へんせん)してきた記録を読むと、確かに記憶の中で重なるものが多く、顕正会がニセ本尊を立てていることにつき、疑う余地はありませんでした。
開眼供養(魂入れ)をしない本尊について、日蓮大聖人は
「形は仏に似れども意は本(もと)の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり」(御書六三八頁)
と仰せになっております。振り返ってみますれば、知らずとはいえ魔·鬼の入ったニセ本尊を拝み続けて来た私の人生は、本当に惨(みじ)めなものとなっていました。しかも、魔の所為(しょい) とは怖いもので、どん底に落ちていく途中で、闇夜に上がる花火のような魔の働きで、一時的にやりくりができるものですから、それを功徳だと思い込んで顕正会を疑うことができず、気がついてみれば、私の生活は本当にどん底に落ちてしまっていたのです。そうなった最も大きな原因は、やはり顕正会のニセ本尊を拝んだことにある、と私は思います。
かつて私は一級建築士事務所を自営するところにまで至っていたのですが、平成十四年、長年の大口取引先が破産し、その余波で新築した事務所兼自宅もわずか数年で手放すことになってしまいました。
その事務所兼自宅は、顕正会の自宅拠点として提供していましたが、入仏式で掛けられた「日寛上人の御形木御本尊」なるものはまるで昨日作られたような真新しさで、昭和四十年以前に宗門から出されたものとは、とうてい思えませんでした。
しかし、顕正会では、御本尊のことは本部の専権事項だと言われ、会員が口を挟(はさ)むこととを禁じていましたので、疑うことなど許されなかったのです。
こうしてニセ本尊を肥(まつ)っていた私は、とうとう事務所兼自宅を失い一級建築士としての仕事も失うに至りました。
顕正会で被った仏罰はまだまだそれだけではありません。「子孫を失う」身になってしまったこと、重い病に冒されてしまったこと等、鬼神の入ったニセ本尊を拝んだ果報は厳然と現われました。
大会の帰途で凄(すさ)まじい参事(さんじ)が!
それは私だけでなく、ニセ本尊による仏罰の現証は周囲の会員の身にも起きていました。なかでも、私が目(ま)の当たりにした極め付けの現証は、平成二十六年九月、さいたまスーパーアリーナで開催された、顕正会男子部五万人結集大会の帰途に起こりました。
私が運転するワゴン車で深夜の東北自動車道を高速走行中、後ろに乗っていた会員が、突如、自らハッチバック式のドアを開けて車外に飛び出し、後続自動車に轢(ひかれ)かれて即死するという、悲惨極まる事故が起きたのです。
その、口にするのも憚(はばか)られるような凄(すさ)まじい現場に立ちつくし、
「『顕正会発足以来の最大の仏事、広布の出陣式』といわれる大会に参加したのに、何故?どうして!?」
との思いを拭(ぬぐ)うことができませんでした。
しかも、それに対する顕正会の対応は、本当にひどいものでした。
「誰にも言うな!」
「同乗者は家族にも言わないように!」
と固く口止めして、この恐ろしい
現証を隠蔽(いんぺい) したのです。
浅井会長は、常々、口では
「信心は正直な世界」
「大聖人様の御眼(まなこ)を恐れる」
と言っていますが現実の対応は、なんと不正直で非情なことか! その二面性に、今あらためて
「大聖人の弟子などと名乗る資格なし!」
と叫びたい気持ちです。
総本山塔中・理境坊所属妙観講 石手洗(いしてあらい) 隆生(たかき)
私は現在七十歳で、青森県八戸市に住んでおります。
平成二十九年十一月に勧誠を受けるまでの四十六年間、顕正会では男子部班長、壮年部支区部長として、熱心に活動してきました。 私が入信した昭和四十六年当時の顕正会は、まだ妙信講と名乗っており、宗門から解散処分を受ける前でした。
当時の私は、建築設計の職場で働いていましたが、毎日の仕事が苦しくて辞めることばかり考えておりましたので、少しでも救われたい、との思いで必死に勤行に励み、顕正会の活動にも熱心に参加するようになっていきました。
その後、顕正会八戸会館ができるまでの約十五年間は、自宅を顕正会に活動拠点として提供してきました。 それほどまでに私は、顕正会で教えられる信仰を信じ、 国立戒壇は絶対の正義と信じていたのです。
浅井昭衛の指導に募(つの)った疑問
しかし、いつの頃からか私は、顕正会に疑問を感じるようになりました。
特に近年になって、浅井会長の政治がらみの指導が多くなり、それも、個々の政策に対する賛否をトップダウンで会員に押し付けてくるようになりました。
曰く(いわ) く、「安保反対」「共謀罪反対」「原発反対」等々。顕正会員はこれを「すでに先生の国家諌暁(かんぎよう)が始まっている」と言うのですが、私には全然納得ができませんでした。
そもそも国家課暁とは、大聖人様が『立正安国論』をもって実質的国主であった北条時頼を諌(いさ)められたことが始まりであり、その『安国論』の内容は、経典を証拠とした仏様の捨邪帰正の金言ではありませんか。
根本の文証である御金言を提示することもなく、浅井会長の世間法上の考えを国家諌暁と信じろ、と言われましても、それは無理なことです。
また私は、他の顕正会員達が何かにつけ「浅井先生にお応(こた)えしよう」
と叫ぶことに違和感を覚えていました。先に挙げた「原発反対」「安保反対」といった浅井会長の指導があるたびに、『顕正新聞』特集号が発行され、布教活動(あえて折犬とはいいません)においては、「浅井先生にお応えするために」この特集号の内容を必ず話さねばならず、御本尊様のこと、日蓮大聖人様のことを、ストレートに話せない顕正会の在(あ)り方に大きな疑問が湧きました。
そして、こんな政治活動まがいのことではなく、純粋に信心修行がしたいとの思いが募(つの)り、迷った挙げ句、仕事上のお客さんである法華講員を訪(たず) ねて話を聞くことにしたのです。その際にも「お寺では政治がらみの指導はありませんか?」と確認した程でした。
ニセ本尊を拝(おが)みドン底の人生へ
その数日後、勧誠を受け、法華講員としての新しい信心が始まりました。 そこで初めて耳にしたのが、顕正会で拝んでいるのは「ニセ本尊」だ、ということです。
題正会にいる時は耳にすることさえありませんでしたが、顕正会所持の本尊に関する浅井会長発言が変遷(へんせん)してきた記録を読むと、確かに記憶の中で重なるものが多く、顕正会がニセ本尊を立てていることにつき、疑う余地はありませんでした。
開眼供養(魂入れ)をしない本尊について、日蓮大聖人は
「形は仏に似れども意は本(もと)の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり」(御書六三八頁)
と仰せになっております。振り返ってみますれば、知らずとはいえ魔·鬼の入ったニセ本尊を拝み続けて来た私の人生は、本当に惨(みじ)めなものとなっていました。しかも、魔の所為(しょい) とは怖いもので、どん底に落ちていく途中で、闇夜に上がる花火のような魔の働きで、一時的にやりくりができるものですから、それを功徳だと思い込んで顕正会を疑うことができず、気がついてみれば、私の生活は本当にどん底に落ちてしまっていたのです。そうなった最も大きな原因は、やはり顕正会のニセ本尊を拝んだことにある、と私は思います。
かつて私は一級建築士事務所を自営するところにまで至っていたのですが、平成十四年、長年の大口取引先が破産し、その余波で新築した事務所兼自宅もわずか数年で手放すことになってしまいました。
その事務所兼自宅は、顕正会の自宅拠点として提供していましたが、入仏式で掛けられた「日寛上人の御形木御本尊」なるものはまるで昨日作られたような真新しさで、昭和四十年以前に宗門から出されたものとは、とうてい思えませんでした。
しかし、顕正会では、御本尊のことは本部の専権事項だと言われ、会員が口を挟(はさ)むこととを禁じていましたので、疑うことなど許されなかったのです。
こうしてニセ本尊を肥(まつ)っていた私は、とうとう事務所兼自宅を失い一級建築士としての仕事も失うに至りました。
顕正会で被った仏罰はまだまだそれだけではありません。「子孫を失う」身になってしまったこと、重い病に冒されてしまったこと等、鬼神の入ったニセ本尊を拝んだ果報は厳然と現われました。
大会の帰途で凄(すさ)まじい参事(さんじ)が!
それは私だけでなく、ニセ本尊による仏罰の現証は周囲の会員の身にも起きていました。なかでも、私が目(ま)の当たりにした極め付けの現証は、平成二十六年九月、さいたまスーパーアリーナで開催された、顕正会男子部五万人結集大会の帰途に起こりました。
私が運転するワゴン車で深夜の東北自動車道を高速走行中、後ろに乗っていた会員が、突如、自らハッチバック式のドアを開けて車外に飛び出し、後続自動車に轢(ひかれ)かれて即死するという、悲惨極まる事故が起きたのです。
その、口にするのも憚(はばか)られるような凄(すさ)まじい現場に立ちつくし、
「『顕正会発足以来の最大の仏事、広布の出陣式』といわれる大会に参加したのに、何故?どうして!?」
との思いを拭(ぬぐ)うことができませんでした。
しかも、それに対する顕正会の対応は、本当にひどいものでした。
「誰にも言うな!」
「同乗者は家族にも言わないように!」
と固く口止めして、この恐ろしい
現証を隠蔽(いんぺい) したのです。
浅井会長は、常々、口では
「信心は正直な世界」
「大聖人様の御眼(まなこ)を恐れる」
と言っていますが現実の対応は、なんと不正直で非情なことか! その二面性に、今あらためて
「大聖人の弟子などと名乗る資格なし!」
と叫びたい気持ちです。
挙げればキリがない悲惨(ひさんな)現証
さらに挙げておきたい出来事があります。顕正会の八戸会館にニセ本尊が祀られたのは、平成十年のことです。
その頃、私の班員である壮年が、仕事で重機を操縦中に横転し、その下敷きになって死亡する、という悲惨な事故が起こったのです。奥さんが
「うちの父ちゃん、死んでしまった!」
と電話の向こうで叫んだ声が、今でも耳に残っております。
その方は、顕正会で教えられるままに勤行もし、布教活動にも立っている真面目な会員でしたので、「罪障が深かったのだ」と思い込むしかありませんでした。その他、ここ二・三年のうちでも、正宗寺院から破折を受け顕正会のニセ本尊疑惑を指摘されながら、それを無視して帰った男子部元班長は、その後、轢(ひ)き逃げ死亡事故の被害者となってしまいました。
同様に、寺院から折伏を受けていながら、「自分は頭正会で救われたから」といって、脱会を拒 (こば)んでいた六十代の婦人が数か月後に急死したケース等ー、挙げればキリがない程、頭正会員の若死に、急死、事故死が、あまりにも多いのです。
これはどういうことでしょうか!
幸せになることを説き、御本尊絶対を教えていながら、 最も大切な命を悲惨な形で失ってしまう、という現実を目の当たりにし、その不幸の根本原因は顕正会で拝んでいるニセ本尊にあることを、全顕正会員に大声で訴えたいのです。
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」(御書六三八頁)
開眼供養という大事を抜きにした「コピー本尊」を拝む恐ろしさを経験した私は、まさに我が身をもって人体実験をしたようなものです。
もう少しで人生を突に棒に振り、多くの人達を巻き込んで堕獄する直前でした。
私は、極悪の異流を弘めてしまった年月を御本尊様に深く深く犠悔(さんけ)申し上げ、残された人生で八戸に正信の輪を拡げるペく、命がけで本物の御本尊様を弘通してまいる決意です。
(慧妙 令和二年三月一日)
さらに挙げておきたい出来事があります。顕正会の八戸会館にニセ本尊が祀られたのは、平成十年のことです。
その頃、私の班員である壮年が、仕事で重機を操縦中に横転し、その下敷きになって死亡する、という悲惨な事故が起こったのです。奥さんが
「うちの父ちゃん、死んでしまった!」
と電話の向こうで叫んだ声が、今でも耳に残っております。
その方は、顕正会で教えられるままに勤行もし、布教活動にも立っている真面目な会員でしたので、「罪障が深かったのだ」と思い込むしかありませんでした。その他、ここ二・三年のうちでも、正宗寺院から破折を受け顕正会のニセ本尊疑惑を指摘されながら、それを無視して帰った男子部元班長は、その後、轢(ひ)き逃げ死亡事故の被害者となってしまいました。
同様に、寺院から折伏を受けていながら、「自分は頭正会で救われたから」といって、脱会を拒 (こば)んでいた六十代の婦人が数か月後に急死したケース等ー、挙げればキリがない程、頭正会員の若死に、急死、事故死が、あまりにも多いのです。
これはどういうことでしょうか!
幸せになることを説き、御本尊絶対を教えていながら、 最も大切な命を悲惨な形で失ってしまう、という現実を目の当たりにし、その不幸の根本原因は顕正会で拝んでいるニセ本尊にあることを、全顕正会員に大声で訴えたいのです。
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。」(御書六三八頁)
開眼供養という大事を抜きにした「コピー本尊」を拝む恐ろしさを経験した私は、まさに我が身をもって人体実験をしたようなものです。
もう少しで人生を突に棒に振り、多くの人達を巻き込んで堕獄する直前でした。
私は、極悪の異流を弘めてしまった年月を御本尊様に深く深く犠悔(さんけ)申し上げ、残された人生で八戸に正信の輪を拡げるペく、命がけで本物の御本尊様を弘通してまいる決意です。
(慧妙 令和二年三月一日)