千葉地方部総会
啓正寺支部 木村昭二
身内が諦(あきら)めてどうする、と行動
このたび、甥の木村信一と八十八歳になる母が、ようやく創価学会を脱会し、日蓮正宗へ戻るまでの体験を、リレーの形で発表させていただきます。
私が創価学会を脱会した、今から四年前の平成二十七年一月頃、私たち五人家族は母と同居しておりました。しかし、私が創価学会に疑問を持ち始めた頃から、何かと母と不仲になりました。
聖教新聞をやめ脱会を決めた頃、学会の支部幹部だった母に、一緒に脱会して欲しいと話しましたが、バリバリの学会員の母にはそんなことができるわけがありません。
今思うと、十分に心の準備のできていない母に早く脱会をと迫ったのは、少々無理があったのかも知れません。
平成二十七年二月にとうとう母は家出をして、親族一同、大騒ぎになってしまいました。やがて居所が判り母は戻ってきましたが、学会婦人部員である妹から、「一ヵ月でお母さんのアパートを探すから、それまでお母さんを置いて欲しい。その後は二度と会わないで欲しい。葬式の時はこちらから連絡するから」とメールで言ってくる始末です。その時は大切な家族なのに「それなら、学会から離れられない者同士で生きていけばいい。私は二度と会わない」と胎(はら)を決めたのです。
そんな私たち家族は脱会以来、法華講員として改めて、啓正寺の御住職・藤本値道御尊師から、御書を通じて様々な御指導をいただいて大聖人様の仏法を学び直し、それまでの自分本位の信心姿勢を猛省する毎日でした。
特に平成二十八年六月の御報恩御講の御法話で、『上野殿御消息』の御文を通して仏法の四恩について聴聞し、心に響くものがありました。
「されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我らが母の仏にならざるべき。されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」(御書 九二三㌻)
の御文に触れ、母が学会の『ニセ本尊』から離れて本門戒壇の大御本尊様のもとへ戻れるよう祈ることができるのは、私だけなのだと気づき、その日から毎日、御祈念いたしました。
祈ってばかりいられない、行動しなければと早速、妹の家の近くのアパートに家を借りました。
そして妹家族がふだん出入りしてるのであろう母の所へ何度も顔を出して、母の様子を見ながら信心の話をいたしました。
しかし、出入りしていることに気づかれてしまったようです。妹から、「学会をやめたらもう面倒は見ない」とでも言われたのでしょうか。母の口から「もう来ないで欲しい」と言われた時は、ショックでした。
けれども妹が哀れに思え、母を惑(まど)わす邪教創価学会を、絶対に許さないとの思いも涌いてきたのです。
そして、これまで以上に、母をはじめ一族揃って学会の木村家が、晴れて大御本尊様のもとへ、正法へ帰依できるよう、祈りました。
そこへ変化の時が訪れました。それは昨年八月のお盆の前のことです。
洗脳が解けていた甥と母
父にお線香を上げに行くからと母と電話を入れた際、母が「今、信一と一緒に毎日安心して生活しているよ」と言うのです。
信一とは仙台に住む兄の長男で、これまでも何度か一人暮らしの母の面倒を見てくれていました。信一は学会男子部で、聖教新聞にも体験談が載るくらい頑張っているのです。ますます、母の勧戒は遠のいてしまったなあと気落ちしてしまいました。
お盆の時期に入り、母の所へ行きました。だめでもともと、同居している信一に学会が邪教となったことを話そうと、その日の唱題は特に力が入り、声を枯らしての訪問となりました。
『ニセ本尊』を拝むことによる害毒の怖さ、これまで学会がいかにデマ宣伝で一般会員を惑わしてきたかを話し、DVDを見ながら荘厳な総本山大石寺の姿を見てもらいました。
信一はパソコンが得意なので、「ネットからも創価学会がいかに邪教化したかが理解できるはずだ」と真剣に話しました。
その日は不思議なことに、二人共、頷(うなず)きながら話を聞いてくれたのです。やがて、お寺へ行き御住職の話を聞いてみたいと二人揃って言い出しました。なぜお寺へ行きたいという話になったかは、後は信一からお聞きください。
その「お寺へ行きたい」という言葉を信じ、八月二十五日に三人で啓正寺へ参詣しました。
学会が破門されて以来二十数年ぶりに藤本御住職とお会いし、御指導いただいた母と信一は、創価学会の間違いにはっきりと気づきました。
そして、藤本御住職に勧誡式を執(と)り行っていただくことができました。
身内がほとんど学会員のため、折伏と法統相続はたいへん根気と時間のかかることだろうと思っていましたが、母や信一が現実に脱会できたことから、これまで以上に身内への折伏を進めていきたいと決意しております。
木村家を支えてきた亡き父の葬儀は残念ながら学会葬でしたが、これからは母と共に大切な父の追善回向ができます。また、木村信一は兄の長男、文字通り木村家のこれからの頭領です。これで親族の追善回向も啓正寺で行えるようになると、
家族共々喜んでいる次第です。私の家も、茨城にいる自分の実家の母を折伏すると決意し、日々これまで以上の唱題をしております。
さて、信一と母からも、ようやく叶った本門戒壇の大御本尊のもとで信仰体験をお聞きいただければ幸いです。
正しいのは日蓮正宗だった
木村信一
私は、昨年八月二十五日において勧誡を受けさせていただきました。
この世に生を受けて以来三十四年間、創価学会員として生きてきた私。祖母の代から数えると約六十年もの間、学会家族でいたことになります。もちろん親兄弟、親族一同同じです。
振り返れば、物心つく頃から、恐れ多くも「日顕(上人猊下)は法主の皮を着た畜生」と言い聞かされてきました。
学会活動も少年部、男子部と、俗に言う活動家として折伏、選挙活動、会館警備等をしてきました。現、原田創価学会会長の前でも体験発表し、聖教新聞で紹介されたこともあります。
さらには一昨年の衆議院議員選挙までバリバリの活動家として選挙運動もしていましたので、それもでかでかとカラー写真で聖教新聞に載っております。
そんなバリバリの学会活動であった私が何故、日蓮正宗に戻ることができたのか。その話をさせていただきます。
まず第一のきっかけは、叔父が四年前に脱会し、御宗門に戻ったことです。
当然、当時は親族一同、叔父を裏切り者として蔑視しておりましたし、連絡も一切取るなという身内同士の了解がありました。
そんな中、昨年の四月より資格試験の勉強のため、仕事のため、北海道から戻り祖母と暮らすこととなりました。
このときは、叔父との接触もまだです。
根本を踏み外した学会の驚きの実態
それから、お盆の時期に毎年、叔父が訪ねてくることを知りました。
叔父が来たら、絶対に「御宗門が正しい」という話になるだろうと思い、事前にインターネット等で詳しく調べることにしました。
学会員が絶対にしないことの一つに手を出してしまったのです。
その結果、まだ日蓮正宗創価学会だった頃の池田大作の発言、破門までの経緯、平成九年までは日蓮正宗の信徒としての資格があったこと、学会会則の改定で弘安二年の大御本尊を信仰の対象から外すと、否定したことを知りました。
もう一つ衝撃的だったのは、会長をはじめ幹部の報酬が驚くほど高額なことです。このネット社会においてもなお、調べようとするまでは知らなかったことばかりでした。
今思えば、学会の悪口を見るのが怖くて自然とシャットアウトしていたのでしょう。学会の言い分ばかりを鵜呑みにしていた証拠です。
完全に洗脳され、支配されていたのです。
自分自身を振り返ると、二十代前半には離婚、二十代半ばにせっかく出店した飲食店が潰(つぶ)れ、三十代で再起をかけた飲食店も一年で閉店。これらの共通点は、すべて学会活動に精を出していた時期なのです。
活動期が収まると人生は順調に進み出して、起業したり、お付き合いする女性が出来たり、しかし、その調子で学会活動すると、途端(とたん)に崩れていくのです。振り返ってみて初めて、「『ニセ本尊』」は恐ろしい」と直感的に感じました。
「なぜ今まで気がつかなかったのか」とも。
『ニセ本尊』による害毒は話せばまだまだありますが、あり過ぎるのでこの辺で・・。
第二のきっかけは祖母が高齢だったことです。祖母に学会員のまま臨終を迎えさせるわけにはいかないと思い、自分が調べたことを包み隠さず話しました。祖母も納得したようで、「お前がお寺へ行くなら、私も日蓮正宗に戻る」と言ってくれました。
そして叔父と連絡を取り、一度御住職のお話を伺いたいとお願いすると、早速連絡をしてくれ、啓正寺に伺うこととなりました。
啓正寺では御住職が温かく迎え入れてくださり、その日のうちに脱会を決心しました。謗法を払い、勧誡式を受け、今度は正真の御本尊様を御下付戴きました。
その翌月には支部総登山に参加させていただき、大御本尊様にも御目通りが叶いました。
勧誡を受けたその日から、私の人生は劇的に変わりました。
仕事は現在、叔父の仕事を手伝うと同時に自分のやりたいこともさせていただき、毎日が充実しております。プライベートでも、好きな旅行やイベントを楽しむ機会に恵まれ、心もすがすがしく初信(勧誡)の功徳を感じています。
折伏活動では、昨年十一月に叔父、祖母と三人で、私の実家のある仙台に行き、父に脱会して正しい御本尊を御下付戴くようにと話ができました。私は数年ぶりに父と顔を合せましたが、父は話を聞いてくれ、「お前が少しでもいいほうにいけるなら」と言ってくれ、日蓮正宗への帰依を納得してくれました。
しかしながら、私の罪障は深いです。日蓮正宗に復帰できて以降に戴いた大きな功徳に甘えることなく、今後も勤行はもちろん、親族の折伏、友人の折伏と、真の広宣流布のために邁進していきたいと思います。
信ずべきは戒壇の大御本尊様
木村 ヒデ子
私は平成三十年八月二十五日に次男夫婦と孫のお陰で啓正寺にお世話になることができました。
昭和三十年に友人から誘われ創価学会に入会し、長く活動してまいりました。
思い起こせば入信五年目の二月、日立製作所の変電所に勤務していた主人が仕事中に、二万二千ボルトの感電事故に遭ったことがありました。両手から入った電流が体の七ヵ所に抜けたのです。両手の指が動かなくなるという障害を負いましたが、事故の大きさから考えれば生きているのが不思議なことで、私たちは御本尊様にお守りいただいている、という実感は確かなものでした。
平成に入って、創価学会が破門となってからは大きく変わってしまいました。まず破門後、学会の「特別御形木御本尊」つまり『ニセ本尊』に取り替えることとなってしまい、それを数十年拝んできました。
『ニセ本尊』の害毒ともつゆ知らず
その結果、まず長男が、遠く宮城県に家を買って離れていきました。
そこで、創価学会の活動家の長女家族の家に夫婦共々世話になっておりましたが、それも家の増築ローン支払いが済むと途端(とたん)に、私たち夫婦が出ていく羽目に。
そのため借家で暮らしておりましたが、主人が悪性リンパ腫で亡くなり、私はその後、我孫子市湖北台の公団に一人で住んでいました。一家がばらばらになってしまったのです。
その後、「一緒に住もう」と言ってくれた次男宅で世話になったものの、次男が日蓮正宗に帰依したのをきっかけに親子喧嘩で出ていくことに。その頃の私は、学会の一方的な主張をそのまま信じていたのです。
結局、長女家族の近所にアパートを借りて独り住まいをすることになりました。でも長女は、近くに住んでいても月に一度見に来てくれる程度で、寂しさは拭(ぬぐ)えませんでした。
次男からは事ある毎に、「いくら御題目を唱えても間違った本尊に唱えたら意味がない。何も変わらないよ」と言われていましたが、創価学会がすべてだと思い、頑(かたく)なに拒否していました。
一人で暮らし始めて三年が経った平成三十年三月から、それまで北海道に住んでいた孫の信一(長男の息子)と一緒に暮らすこととなりました。
孫は先ほどの発表の通り学会男子部としてがんばっていたので、次男が毎年お盆の時期に訪ねてくれることを知り、訪ねてきたら論破してやろうとパソコンに向かい、いろいろ調べていたようです。恐らくそれで、知らなかった事柄を嫌でも知ることになったのでしょう。
ある時、孫は「もしかしたら間違っているのは創価学会かも知れない」と言い始め、それでようやく、私も疑問を抱くようになりました。
「叔父さんに連絡を取って、御住職さんのお話を聞きたい」との孫の要望から、次男に頼んで啓正寺に連絡を取って連れいってもらい、お話を伺うことにしました。
その時には、既に孫は完全に創価学会の洗脳から脱却しており、次男と一緒になって「戻ろう」と言いました。
私の中にも、「何で、創価学会は僧俗和合の信心ができないのだろう」という疑問がずっとありましたので、その場で勧誡を受けることを決心しました。
晴れて再び日蓮正宗に帰依できました。御住職もたいへん喜んでくださいました。また、かつて学会時代に婦人部長をされていて一緒に活動していた桜井登美子さんにも、啓正寺で数十年ぶりにお会いできました。桜井さんも、たいへん喜んでくださいました。
十一月には長男のいる仙台に連れていってもらいました。数十年ぶりに顔を合わせて長男としっかり話ができ、脱会して『ニセ本尊』を返却し、正しい信仰を持つようにと話ができました。久しぶりに温泉に浸かる余裕もできました。
お寺に通える幸せ
私は今、啓正寺の近くに家を借り、一人で歩いて参詣することができるようになりました。
かねてから仲良くしている学会員の方に話をしたところ、「私、聖教新聞取るのをやめる」との言葉。折伏の第一歩を踏み出せています。
私にとって一番の功徳は、八十八歳になった今も自分のことは自分ででき、御本尊様の前に毎日座らさせていただけることです。総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊にお目通りができたことです。そして、この年寄りの面倒をいつも見てくれている次男と孫、そして長男に心から感謝しています。
今後も、折伏をしたい四人の方と私の大切な娘家族を、一日も早く啓正寺へお連れできるよう、しっかりお題目を唱え、がんばってまいります。
(大白法 第九九九号 平成三十一年二月十六日号)
啓正寺支部 木村昭二
身内が諦(あきら)めてどうする、と行動
このたび、甥の木村信一と八十八歳になる母が、ようやく創価学会を脱会し、日蓮正宗へ戻るまでの体験を、リレーの形で発表させていただきます。
私が創価学会を脱会した、今から四年前の平成二十七年一月頃、私たち五人家族は母と同居しておりました。しかし、私が創価学会に疑問を持ち始めた頃から、何かと母と不仲になりました。
聖教新聞をやめ脱会を決めた頃、学会の支部幹部だった母に、一緒に脱会して欲しいと話しましたが、バリバリの学会員の母にはそんなことができるわけがありません。
今思うと、十分に心の準備のできていない母に早く脱会をと迫ったのは、少々無理があったのかも知れません。
平成二十七年二月にとうとう母は家出をして、親族一同、大騒ぎになってしまいました。やがて居所が判り母は戻ってきましたが、学会婦人部員である妹から、「一ヵ月でお母さんのアパートを探すから、それまでお母さんを置いて欲しい。その後は二度と会わないで欲しい。葬式の時はこちらから連絡するから」とメールで言ってくる始末です。その時は大切な家族なのに「それなら、学会から離れられない者同士で生きていけばいい。私は二度と会わない」と胎(はら)を決めたのです。
そんな私たち家族は脱会以来、法華講員として改めて、啓正寺の御住職・藤本値道御尊師から、御書を通じて様々な御指導をいただいて大聖人様の仏法を学び直し、それまでの自分本位の信心姿勢を猛省する毎日でした。
特に平成二十八年六月の御報恩御講の御法話で、『上野殿御消息』の御文を通して仏法の四恩について聴聞し、心に響くものがありました。
「されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の竜女だにも仏になる。如何ぞ此の経の力にて我らが母の仏にならざるべき。されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」(御書 九二三㌻)
の御文に触れ、母が学会の『ニセ本尊』から離れて本門戒壇の大御本尊様のもとへ戻れるよう祈ることができるのは、私だけなのだと気づき、その日から毎日、御祈念いたしました。
祈ってばかりいられない、行動しなければと早速、妹の家の近くのアパートに家を借りました。
そして妹家族がふだん出入りしてるのであろう母の所へ何度も顔を出して、母の様子を見ながら信心の話をいたしました。
しかし、出入りしていることに気づかれてしまったようです。妹から、「学会をやめたらもう面倒は見ない」とでも言われたのでしょうか。母の口から「もう来ないで欲しい」と言われた時は、ショックでした。
けれども妹が哀れに思え、母を惑(まど)わす邪教創価学会を、絶対に許さないとの思いも涌いてきたのです。
そして、これまで以上に、母をはじめ一族揃って学会の木村家が、晴れて大御本尊様のもとへ、正法へ帰依できるよう、祈りました。
そこへ変化の時が訪れました。それは昨年八月のお盆の前のことです。
洗脳が解けていた甥と母
父にお線香を上げに行くからと母と電話を入れた際、母が「今、信一と一緒に毎日安心して生活しているよ」と言うのです。
信一とは仙台に住む兄の長男で、これまでも何度か一人暮らしの母の面倒を見てくれていました。信一は学会男子部で、聖教新聞にも体験談が載るくらい頑張っているのです。ますます、母の勧戒は遠のいてしまったなあと気落ちしてしまいました。
お盆の時期に入り、母の所へ行きました。だめでもともと、同居している信一に学会が邪教となったことを話そうと、その日の唱題は特に力が入り、声を枯らしての訪問となりました。
『ニセ本尊』を拝むことによる害毒の怖さ、これまで学会がいかにデマ宣伝で一般会員を惑わしてきたかを話し、DVDを見ながら荘厳な総本山大石寺の姿を見てもらいました。
信一はパソコンが得意なので、「ネットからも創価学会がいかに邪教化したかが理解できるはずだ」と真剣に話しました。
その日は不思議なことに、二人共、頷(うなず)きながら話を聞いてくれたのです。やがて、お寺へ行き御住職の話を聞いてみたいと二人揃って言い出しました。なぜお寺へ行きたいという話になったかは、後は信一からお聞きください。
その「お寺へ行きたい」という言葉を信じ、八月二十五日に三人で啓正寺へ参詣しました。
学会が破門されて以来二十数年ぶりに藤本御住職とお会いし、御指導いただいた母と信一は、創価学会の間違いにはっきりと気づきました。
そして、藤本御住職に勧誡式を執(と)り行っていただくことができました。
身内がほとんど学会員のため、折伏と法統相続はたいへん根気と時間のかかることだろうと思っていましたが、母や信一が現実に脱会できたことから、これまで以上に身内への折伏を進めていきたいと決意しております。
木村家を支えてきた亡き父の葬儀は残念ながら学会葬でしたが、これからは母と共に大切な父の追善回向ができます。また、木村信一は兄の長男、文字通り木村家のこれからの頭領です。これで親族の追善回向も啓正寺で行えるようになると、
家族共々喜んでいる次第です。私の家も、茨城にいる自分の実家の母を折伏すると決意し、日々これまで以上の唱題をしております。
さて、信一と母からも、ようやく叶った本門戒壇の大御本尊のもとで信仰体験をお聞きいただければ幸いです。
正しいのは日蓮正宗だった
木村信一
私は、昨年八月二十五日において勧誡を受けさせていただきました。
この世に生を受けて以来三十四年間、創価学会員として生きてきた私。祖母の代から数えると約六十年もの間、学会家族でいたことになります。もちろん親兄弟、親族一同同じです。
振り返れば、物心つく頃から、恐れ多くも「日顕(上人猊下)は法主の皮を着た畜生」と言い聞かされてきました。
学会活動も少年部、男子部と、俗に言う活動家として折伏、選挙活動、会館警備等をしてきました。現、原田創価学会会長の前でも体験発表し、聖教新聞で紹介されたこともあります。
さらには一昨年の衆議院議員選挙までバリバリの活動家として選挙運動もしていましたので、それもでかでかとカラー写真で聖教新聞に載っております。
そんなバリバリの学会活動であった私が何故、日蓮正宗に戻ることができたのか。その話をさせていただきます。
まず第一のきっかけは、叔父が四年前に脱会し、御宗門に戻ったことです。
当然、当時は親族一同、叔父を裏切り者として蔑視しておりましたし、連絡も一切取るなという身内同士の了解がありました。
そんな中、昨年の四月より資格試験の勉強のため、仕事のため、北海道から戻り祖母と暮らすこととなりました。
このときは、叔父との接触もまだです。
根本を踏み外した学会の驚きの実態
それから、お盆の時期に毎年、叔父が訪ねてくることを知りました。
叔父が来たら、絶対に「御宗門が正しい」という話になるだろうと思い、事前にインターネット等で詳しく調べることにしました。
学会員が絶対にしないことの一つに手を出してしまったのです。
その結果、まだ日蓮正宗創価学会だった頃の池田大作の発言、破門までの経緯、平成九年までは日蓮正宗の信徒としての資格があったこと、学会会則の改定で弘安二年の大御本尊を信仰の対象から外すと、否定したことを知りました。
もう一つ衝撃的だったのは、会長をはじめ幹部の報酬が驚くほど高額なことです。このネット社会においてもなお、調べようとするまでは知らなかったことばかりでした。
今思えば、学会の悪口を見るのが怖くて自然とシャットアウトしていたのでしょう。学会の言い分ばかりを鵜呑みにしていた証拠です。
完全に洗脳され、支配されていたのです。
自分自身を振り返ると、二十代前半には離婚、二十代半ばにせっかく出店した飲食店が潰(つぶ)れ、三十代で再起をかけた飲食店も一年で閉店。これらの共通点は、すべて学会活動に精を出していた時期なのです。
活動期が収まると人生は順調に進み出して、起業したり、お付き合いする女性が出来たり、しかし、その調子で学会活動すると、途端(とたん)に崩れていくのです。振り返ってみて初めて、「『ニセ本尊』」は恐ろしい」と直感的に感じました。
「なぜ今まで気がつかなかったのか」とも。
『ニセ本尊』による害毒は話せばまだまだありますが、あり過ぎるのでこの辺で・・。
第二のきっかけは祖母が高齢だったことです。祖母に学会員のまま臨終を迎えさせるわけにはいかないと思い、自分が調べたことを包み隠さず話しました。祖母も納得したようで、「お前がお寺へ行くなら、私も日蓮正宗に戻る」と言ってくれました。
そして叔父と連絡を取り、一度御住職のお話を伺いたいとお願いすると、早速連絡をしてくれ、啓正寺に伺うこととなりました。
啓正寺では御住職が温かく迎え入れてくださり、その日のうちに脱会を決心しました。謗法を払い、勧誡式を受け、今度は正真の御本尊様を御下付戴きました。
その翌月には支部総登山に参加させていただき、大御本尊様にも御目通りが叶いました。
勧誡を受けたその日から、私の人生は劇的に変わりました。
仕事は現在、叔父の仕事を手伝うと同時に自分のやりたいこともさせていただき、毎日が充実しております。プライベートでも、好きな旅行やイベントを楽しむ機会に恵まれ、心もすがすがしく初信(勧誡)の功徳を感じています。
折伏活動では、昨年十一月に叔父、祖母と三人で、私の実家のある仙台に行き、父に脱会して正しい御本尊を御下付戴くようにと話ができました。私は数年ぶりに父と顔を合せましたが、父は話を聞いてくれ、「お前が少しでもいいほうにいけるなら」と言ってくれ、日蓮正宗への帰依を納得してくれました。
しかしながら、私の罪障は深いです。日蓮正宗に復帰できて以降に戴いた大きな功徳に甘えることなく、今後も勤行はもちろん、親族の折伏、友人の折伏と、真の広宣流布のために邁進していきたいと思います。
信ずべきは戒壇の大御本尊様
木村 ヒデ子
私は平成三十年八月二十五日に次男夫婦と孫のお陰で啓正寺にお世話になることができました。
昭和三十年に友人から誘われ創価学会に入会し、長く活動してまいりました。
思い起こせば入信五年目の二月、日立製作所の変電所に勤務していた主人が仕事中に、二万二千ボルトの感電事故に遭ったことがありました。両手から入った電流が体の七ヵ所に抜けたのです。両手の指が動かなくなるという障害を負いましたが、事故の大きさから考えれば生きているのが不思議なことで、私たちは御本尊様にお守りいただいている、という実感は確かなものでした。
平成に入って、創価学会が破門となってからは大きく変わってしまいました。まず破門後、学会の「特別御形木御本尊」つまり『ニセ本尊』に取り替えることとなってしまい、それを数十年拝んできました。
『ニセ本尊』の害毒ともつゆ知らず
その結果、まず長男が、遠く宮城県に家を買って離れていきました。
そこで、創価学会の活動家の長女家族の家に夫婦共々世話になっておりましたが、それも家の増築ローン支払いが済むと途端(とたん)に、私たち夫婦が出ていく羽目に。
そのため借家で暮らしておりましたが、主人が悪性リンパ腫で亡くなり、私はその後、我孫子市湖北台の公団に一人で住んでいました。一家がばらばらになってしまったのです。
その後、「一緒に住もう」と言ってくれた次男宅で世話になったものの、次男が日蓮正宗に帰依したのをきっかけに親子喧嘩で出ていくことに。その頃の私は、学会の一方的な主張をそのまま信じていたのです。
結局、長女家族の近所にアパートを借りて独り住まいをすることになりました。でも長女は、近くに住んでいても月に一度見に来てくれる程度で、寂しさは拭(ぬぐ)えませんでした。
次男からは事ある毎に、「いくら御題目を唱えても間違った本尊に唱えたら意味がない。何も変わらないよ」と言われていましたが、創価学会がすべてだと思い、頑(かたく)なに拒否していました。
一人で暮らし始めて三年が経った平成三十年三月から、それまで北海道に住んでいた孫の信一(長男の息子)と一緒に暮らすこととなりました。
孫は先ほどの発表の通り学会男子部としてがんばっていたので、次男が毎年お盆の時期に訪ねてくれることを知り、訪ねてきたら論破してやろうとパソコンに向かい、いろいろ調べていたようです。恐らくそれで、知らなかった事柄を嫌でも知ることになったのでしょう。
ある時、孫は「もしかしたら間違っているのは創価学会かも知れない」と言い始め、それでようやく、私も疑問を抱くようになりました。
「叔父さんに連絡を取って、御住職さんのお話を聞きたい」との孫の要望から、次男に頼んで啓正寺に連絡を取って連れいってもらい、お話を伺うことにしました。
その時には、既に孫は完全に創価学会の洗脳から脱却しており、次男と一緒になって「戻ろう」と言いました。
私の中にも、「何で、創価学会は僧俗和合の信心ができないのだろう」という疑問がずっとありましたので、その場で勧誡を受けることを決心しました。
晴れて再び日蓮正宗に帰依できました。御住職もたいへん喜んでくださいました。また、かつて学会時代に婦人部長をされていて一緒に活動していた桜井登美子さんにも、啓正寺で数十年ぶりにお会いできました。桜井さんも、たいへん喜んでくださいました。
十一月には長男のいる仙台に連れていってもらいました。数十年ぶりに顔を合わせて長男としっかり話ができ、脱会して『ニセ本尊』を返却し、正しい信仰を持つようにと話ができました。久しぶりに温泉に浸かる余裕もできました。
お寺に通える幸せ
私は今、啓正寺の近くに家を借り、一人で歩いて参詣することができるようになりました。
かねてから仲良くしている学会員の方に話をしたところ、「私、聖教新聞取るのをやめる」との言葉。折伏の第一歩を踏み出せています。
私にとって一番の功徳は、八十八歳になった今も自分のことは自分ででき、御本尊様の前に毎日座らさせていただけることです。総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊にお目通りができたことです。そして、この年寄りの面倒をいつも見てくれている次男と孫、そして長男に心から感謝しています。
今後も、折伏をしたい四人の方と私の大切な娘家族を、一日も早く啓正寺へお連れできるよう、しっかりお題目を唱え、がんばってまいります。
(大白法 第九九九号 平成三十一年二月十六日号)