創価学会を経(へ)て顕正会へ入会
私が創価学会と出会ったのは、昭和四十一年、大学生の時でした。
そのきっかけとなったのは、東京大学法華経研究会(東大生らによって一九五〇年代に作られた創価学会の学生組織)に在籍していた知り合いから、「古文の現代語訳のアルバイト」を紹介されたのですが、それが日蓮大聖人御書の現代語訳のことであり、私はそのアルバイトを引き受けると同時に、創価学会に入ることになったのです。
私が所属した部署では、当時、七、八人の部員で仕事に携わっており、それぞれが割り振られた課題を担当するのですが、私はアルバイト代として、原稿用紙一枚で八百円をもらっていました。
また、御書以外にも、池田が書いたり口述した簡単な骨子に、ゴーストライター達が肉づけをして膨らませていました。それが『聖教新聞』に掲載され、本になると、学会員が「現代の御書」という謳(うた)い文句のもと、挙(こぞ)って購入するのです。
私は、「こんなことをしていてもいいのか」と躊躇(ちゅうちょ)する思いもありましたが、「池田センセーは忙しいのだから仕方がない」と自分に言い聞かせ、また、当時の学生としては破格のバイト料の魅力に負け、その仕事を五年間続けました。
しかし、当初はこうした違和感だけだったものが、やがて、創価学会における人間関係の裏側(うわさ話や、陰での中傷の蔓延など)を見るにつけて、学会組織への嫌悪感となり、ついには、婦人部が「池田センセーは仏様なのよ」と言うに及んで、学会に対する不信は決定的なものとなりました。
そして、私自身も生活上にいろいろな事が重なったこともあって、創価学会とは完全に離れ、各地を転々として年月が流れていきました。
そして、平成に入る頃、私は京都に住まいを構えました。そこで、宗教とは全く無縁のいい加減な生活を過ごしていた、平成二十五年のある時、顕正会に誘われました。
その時、顕正会は、京阪電鉄の八幡駅でビラを配布しながら勧誘活動をしていました。
最初は、「〝何とか会〟というからには、どうせ新興宗教の類だろう」と、軽く聞き流していましたが、言葉の中に「お題目」という言葉が出てきたので、「これは、法華経を依経とした宗教だ」と関心が湧き、そして、勧められるまま浅井昭衛のスピーチを聞いて「理想に燃えている。情熱がある」と思って顕正会に入会することを決めてしまったのです。
顕正会の紹介者である支区部長宅には本尊がなく、地域の拠点で「入信勤行」を行なったのですが、御授戒がないことには、少なからずの違和感を覚えました。
顕正会が飛びついた私の経歴(けいれき)
さて、顕正会に入会してしばらくした頃、私が学生時代に池田大作の御書講義などの作成に関わっていたことが発覚し、それを奇貨とした顕正会は、「池田のゴーストライターが顕正会に入った、と発表すればインパクトがある」と思ったのでしょう、間近に迫っていた「二百万達成記念総幹部会」(※平成三十年七月、顕正会員が二百万人に達したと公言して、埼玉県の大宮ソニックシティホールで開催したもの)に、私の都合を確認することなく、強引に私の登壇を決めてしまいました。
そこで私の発表した内容が『顕正新聞』で活字になるやいなや、約一ヵ月間というもの、創価学会員と思われる人達からの、深夜の無言電話や追い廻しに悩まされました。
そのことを顕正会の幹部に伝えましたが、幹部からは何のフォローも気使いの言葉もなく、「耐えなさい」「無視しなさい」「題目をあげて乗り切りなさい。浅井先生が守ってくださる」などと言うばかりでした。人を利用するだけ利用して、その後のフォローなど何もない顕正会には、かなり失望しました。
しかし、周りの人達から「これで、万分の一でも浅井センセーのお役に立つことができ、浅井センセーに良い御奉公ができた」と言われて、その気になってしまい、会員の発表原稿などを書く手伝いをすることになりました。
原稿ができると、浅井昌子総合婦人部長(浅井昭衛の娘)のチェックが入るのですが、その際、初めて埼玉県大宮の本部会館の本尊を見ました。
本部会館の本尊には願主の名として「浅井甚兵衛」の名が入っていました。
私は、「この本尊は甚兵衛氏(浅井昭衛の父)が浅井家として受けたものであり、甚兵衛氏の亡き後は、長男である浅井昭衛の自宅に安置されるものではないか」と思い、それが本部会館に安置されていることを不思議に感じて、同行した支区部長に質問しました。しかし支区部長は、それに答えることができませんでした。
このこと以外にも、浅井会長や顕正会のことについて、もっと知りたくなっていろいろと質問するのですが、納得のいかないことばかりでした。
募った顕正会に対する不信
そうした中の今年の五月のことです。私は、支区部長と娘さんが折伏に行くというので、同行し、約束のファミレスに入り、少し離れた席に座って様子を見ていました。しかし、支区部長と娘さんは、約束した相手が妙観講員だとわかったとたん、話をすることなく、いきなり立ち上がってファミレスを出ていってしまったのです。
その時、ファミレスで約束していた妙観講員というのが、安田富子さん(婦人)と高坂華さん(女子)の二人でした。遅れて席を立った私は、二人に声をかけられ、連絡先を交換したのですが、それが機縁となって、後日、安田裕さんと富子さん夫妻に会い、折伏を受けることになったのです。
お二人から話を聞く中で、顕正会に対する不審は募っていきました。
そこで、私なりに疑問の数々を、顕正会の幹部に質問していきました。たとえば、「なぜ、顕正会は本尊下附をしないのか?」「なぜ、最近の『顕正新聞』では、宗教に関係ない、安倍政権の批判ばかりするのか」等といったことでしたが、それに対しての納得できる回答は得られませんでした。
また、昭和五十七年の時点で、浅井は「あと二十五年で広宣流布しなければ、核戦争によって日本も世界も必ず滅亡する」等と予言したはずなのに、二十五年以上が過ぎた現在でもそうなっていないことについても、支区部長に質問したところ、なんと、その支区部長は、「浅井センセーが熱心に御祈念されていたから、核戦争が起こらなかった。先生は凄(すご)い人だ!」と答えたのです。
百歩譲って、それならそういう発表があってしかるべきですが、これまで一度もそういう発表はされていません。言おうと思えば何とでも言える、という次元の、根拠無き盲信であります。
また、かねてより、御本尊がなく「遥拝勤行」であることについても疑問に思っていた私は、なぜ入信した時に御授戒や御本尊下附がないのか、と質問しました。すると、それに対する回答は、「今、本山は謗法の山と化している。だから、御本尊の下附もなければ、御授戒もない。とにかく、今、本山は謗法の山と化しているから登山はしない」というものでした。
それを聞いてさらに疑問に思った私は、
「顕正会は、妙信講時代に破門されたから登山もできないし御本尊下附も無い、というのが事実でしょう。それに、顕正会で、謗法の山と化している、というお山に向かって遥拝勤行している、というのは、おかしいのではありませんか?」
と追及しました。
また、「今の大石寺は謗法に満ちている。だから登山はしない」ということに対しては、「大御本尊も謗法ですか?」と聞き返しましたが、これにも納得のいく回答はありません。
さらに、「顕正会員は、広宣流布して国立戒壇ができた時に大御本尊に御目通りできると言うが、答えになっていません。そもそも、謗法、謗法と言っているが、具体的にどこの何が謗法だったんですか?」と重ねて聞くと、畏れ多いことですが、「六十六世日達上人より六十七世日顕上人への血脈がなく、それを継いだ現貫首上人にも血脈がなく、ゆえに謗法である」との返答でした。
そこで私は、「血脈については、大衆がとやかく言うことではないと思うのですが!」と言うと、「あなたはまだ信心が浅いから……。余計なことは何も考えず、何も思わず、浅井センセーについていけばよい」と言われました。これでは〝盲信のススメ〟です。
疑問を追求した果ての決断
また、各拠点にある「日布上人の大幅御形木御本尊」のことについて、質問しました。
私の所属する山城支区は総員五十名くらいの小さい支区です。私の知っているかぎりでは、京都の小さな一支区に一体、京都全体なら四体の「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊が存在します。それが全国となると、その数は膨大なものになります。
ですが、はたして、それほど大量の御本尊を、日蓮正宗から破門された時から顕正会(当時は妙信講)で所有し、保管していた、というのでしょうか。これは、まずありえないことです。
しかも、「日布上人の大幅御形木御本尊」と言うけれども、私が入仏式に参加した時に目にしたそれは、真新しくて真っ白で、とても五十年も前から保管されてきたとは思えない新しさでした。
さらに、かつて実際に総本山から下附されていた「日布上人の御形木御本尊」とは、大きさが違うのです。
じつは、安田さんから「顕正会のニセ本尊疑惑」について聞いていた私は、「日布上人の大幅御形木御本尊」の大きさについても、この目で確認しておりました。その事実をもって質問したところ、支区部長は、「あなたには先生に対する忠誠心と信心が足りません」と言うばかりでした。
そのように顕正会は、本当におかしいことばかりで、質問すればするほど、出てくる答えは、「浅井センセーに対する信心と忠誠心が足りない。浅井センセーに対して失礼だ。これは謗法だ」「時間が過ぎれば総ての答えが出る」等々、訳のわからないことばかりです。
婦人部の面々に至っては、「浅井センセー以外、この法門を正しく伝えてくださる方はいない。だから浅井センセーは仏様です」と、とうとう、〝浅井本仏論〟まで飛び出す始末です。
私は、もはや迷うことはなくなり、安田さん夫妻と五度目に会った時だったでしょうか、顕正会を辞める決意を告げ、安田さん夫妻に伏見区の宣照寺様に連れていっていただき、今年の八月十二日、無事に御授戒を受けることができました。
法華講員として充実の日々
顕正会の幹部と京都会館にも顕正会を辞めて日蓮正宗に入信したことを伝えたところ、顕正会からは連日、電話と複数名の訪問による説得が続きました。
それでも私の気持ちは変わることはなく、安田さん夫妻と顕正会員宅への折伏に回り始めたところ、説得が嫌がらせに変わっていきました。
そして、ついに「浅井」から直接、電話が掛かってきました。
浅井「大矢文昭か!」
大矢「はい、大矢だけど」
浅井「浅井だ! 君は除名だ!」
そう言い終えると、電話は一方的に切られました。
あまりにも唐突で、短い電話でしたので、声の主が顕正会ナンバー1の〝浅井昭衛〟なのか、ナンバー2の〝浅井城衛〟なのか、
いまだに判別が付きませんが、いずれにしても直々に〝除名〟を言い渡されたのです。
「こちらから辞めたのに、バカじゃないか」と思いましたが、これで謗法団体と縁が切れ、すがすがしい思いになりました。
そして、晴れ晴れとした気持ちで折伏に回ると、行く先々に顕正会員が出没し、折伏を妨げてきました。
今も毎朝七時にイヤガラセの電話が入ってきますが、そんな顕正会のイヤガラセなど気にせず、安田さん達と一緒に折伏に回らせていただいています。
また、先月の御講の時には御本尊様をお貸し下げいただき、自宅にお迎えすることができました。
今、私はとっても幸せです。朝、目が覚めて御本尊様に朝のご挨拶、そして勤行。夕にご挨拶、そして勤行。理境坊京都出張所に行けば、皆さんと柔らかな会話をして、勤行・唱題。そして折伏―。
創価学会時代や顕正会時代にはけっして味わうことのなかった幸せを、日々に感じ、御本尊様の御力に感謝申し上げています。
今後、一人でも多くの顕正会員を泥沼から救い出し、浅井教ではなく日蓮正宗の信徒となれるよう、講中の皆さんと共に折伏に邁進していきます。
(慧妙 令和二年十一月十六日)
私が創価学会と出会ったのは、昭和四十一年、大学生の時でした。
そのきっかけとなったのは、東京大学法華経研究会(東大生らによって一九五〇年代に作られた創価学会の学生組織)に在籍していた知り合いから、「古文の現代語訳のアルバイト」を紹介されたのですが、それが日蓮大聖人御書の現代語訳のことであり、私はそのアルバイトを引き受けると同時に、創価学会に入ることになったのです。
私が所属した部署では、当時、七、八人の部員で仕事に携わっており、それぞれが割り振られた課題を担当するのですが、私はアルバイト代として、原稿用紙一枚で八百円をもらっていました。
また、御書以外にも、池田が書いたり口述した簡単な骨子に、ゴーストライター達が肉づけをして膨らませていました。それが『聖教新聞』に掲載され、本になると、学会員が「現代の御書」という謳(うた)い文句のもと、挙(こぞ)って購入するのです。
私は、「こんなことをしていてもいいのか」と躊躇(ちゅうちょ)する思いもありましたが、「池田センセーは忙しいのだから仕方がない」と自分に言い聞かせ、また、当時の学生としては破格のバイト料の魅力に負け、その仕事を五年間続けました。
しかし、当初はこうした違和感だけだったものが、やがて、創価学会における人間関係の裏側(うわさ話や、陰での中傷の蔓延など)を見るにつけて、学会組織への嫌悪感となり、ついには、婦人部が「池田センセーは仏様なのよ」と言うに及んで、学会に対する不信は決定的なものとなりました。
そして、私自身も生活上にいろいろな事が重なったこともあって、創価学会とは完全に離れ、各地を転々として年月が流れていきました。
そして、平成に入る頃、私は京都に住まいを構えました。そこで、宗教とは全く無縁のいい加減な生活を過ごしていた、平成二十五年のある時、顕正会に誘われました。
その時、顕正会は、京阪電鉄の八幡駅でビラを配布しながら勧誘活動をしていました。
最初は、「〝何とか会〟というからには、どうせ新興宗教の類だろう」と、軽く聞き流していましたが、言葉の中に「お題目」という言葉が出てきたので、「これは、法華経を依経とした宗教だ」と関心が湧き、そして、勧められるまま浅井昭衛のスピーチを聞いて「理想に燃えている。情熱がある」と思って顕正会に入会することを決めてしまったのです。
顕正会の紹介者である支区部長宅には本尊がなく、地域の拠点で「入信勤行」を行なったのですが、御授戒がないことには、少なからずの違和感を覚えました。
顕正会が飛びついた私の経歴(けいれき)
さて、顕正会に入会してしばらくした頃、私が学生時代に池田大作の御書講義などの作成に関わっていたことが発覚し、それを奇貨とした顕正会は、「池田のゴーストライターが顕正会に入った、と発表すればインパクトがある」と思ったのでしょう、間近に迫っていた「二百万達成記念総幹部会」(※平成三十年七月、顕正会員が二百万人に達したと公言して、埼玉県の大宮ソニックシティホールで開催したもの)に、私の都合を確認することなく、強引に私の登壇を決めてしまいました。
そこで私の発表した内容が『顕正新聞』で活字になるやいなや、約一ヵ月間というもの、創価学会員と思われる人達からの、深夜の無言電話や追い廻しに悩まされました。
そのことを顕正会の幹部に伝えましたが、幹部からは何のフォローも気使いの言葉もなく、「耐えなさい」「無視しなさい」「題目をあげて乗り切りなさい。浅井先生が守ってくださる」などと言うばかりでした。人を利用するだけ利用して、その後のフォローなど何もない顕正会には、かなり失望しました。
しかし、周りの人達から「これで、万分の一でも浅井センセーのお役に立つことができ、浅井センセーに良い御奉公ができた」と言われて、その気になってしまい、会員の発表原稿などを書く手伝いをすることになりました。
原稿ができると、浅井昌子総合婦人部長(浅井昭衛の娘)のチェックが入るのですが、その際、初めて埼玉県大宮の本部会館の本尊を見ました。
本部会館の本尊には願主の名として「浅井甚兵衛」の名が入っていました。
私は、「この本尊は甚兵衛氏(浅井昭衛の父)が浅井家として受けたものであり、甚兵衛氏の亡き後は、長男である浅井昭衛の自宅に安置されるものではないか」と思い、それが本部会館に安置されていることを不思議に感じて、同行した支区部長に質問しました。しかし支区部長は、それに答えることができませんでした。
このこと以外にも、浅井会長や顕正会のことについて、もっと知りたくなっていろいろと質問するのですが、納得のいかないことばかりでした。
募った顕正会に対する不信
そうした中の今年の五月のことです。私は、支区部長と娘さんが折伏に行くというので、同行し、約束のファミレスに入り、少し離れた席に座って様子を見ていました。しかし、支区部長と娘さんは、約束した相手が妙観講員だとわかったとたん、話をすることなく、いきなり立ち上がってファミレスを出ていってしまったのです。
その時、ファミレスで約束していた妙観講員というのが、安田富子さん(婦人)と高坂華さん(女子)の二人でした。遅れて席を立った私は、二人に声をかけられ、連絡先を交換したのですが、それが機縁となって、後日、安田裕さんと富子さん夫妻に会い、折伏を受けることになったのです。
お二人から話を聞く中で、顕正会に対する不審は募っていきました。
そこで、私なりに疑問の数々を、顕正会の幹部に質問していきました。たとえば、「なぜ、顕正会は本尊下附をしないのか?」「なぜ、最近の『顕正新聞』では、宗教に関係ない、安倍政権の批判ばかりするのか」等といったことでしたが、それに対しての納得できる回答は得られませんでした。
また、昭和五十七年の時点で、浅井は「あと二十五年で広宣流布しなければ、核戦争によって日本も世界も必ず滅亡する」等と予言したはずなのに、二十五年以上が過ぎた現在でもそうなっていないことについても、支区部長に質問したところ、なんと、その支区部長は、「浅井センセーが熱心に御祈念されていたから、核戦争が起こらなかった。先生は凄(すご)い人だ!」と答えたのです。
百歩譲って、それならそういう発表があってしかるべきですが、これまで一度もそういう発表はされていません。言おうと思えば何とでも言える、という次元の、根拠無き盲信であります。
また、かねてより、御本尊がなく「遥拝勤行」であることについても疑問に思っていた私は、なぜ入信した時に御授戒や御本尊下附がないのか、と質問しました。すると、それに対する回答は、「今、本山は謗法の山と化している。だから、御本尊の下附もなければ、御授戒もない。とにかく、今、本山は謗法の山と化しているから登山はしない」というものでした。
それを聞いてさらに疑問に思った私は、
「顕正会は、妙信講時代に破門されたから登山もできないし御本尊下附も無い、というのが事実でしょう。それに、顕正会で、謗法の山と化している、というお山に向かって遥拝勤行している、というのは、おかしいのではありませんか?」
と追及しました。
また、「今の大石寺は謗法に満ちている。だから登山はしない」ということに対しては、「大御本尊も謗法ですか?」と聞き返しましたが、これにも納得のいく回答はありません。
さらに、「顕正会員は、広宣流布して国立戒壇ができた時に大御本尊に御目通りできると言うが、答えになっていません。そもそも、謗法、謗法と言っているが、具体的にどこの何が謗法だったんですか?」と重ねて聞くと、畏れ多いことですが、「六十六世日達上人より六十七世日顕上人への血脈がなく、それを継いだ現貫首上人にも血脈がなく、ゆえに謗法である」との返答でした。
そこで私は、「血脈については、大衆がとやかく言うことではないと思うのですが!」と言うと、「あなたはまだ信心が浅いから……。余計なことは何も考えず、何も思わず、浅井センセーについていけばよい」と言われました。これでは〝盲信のススメ〟です。
疑問を追求した果ての決断
また、各拠点にある「日布上人の大幅御形木御本尊」のことについて、質問しました。
私の所属する山城支区は総員五十名くらいの小さい支区です。私の知っているかぎりでは、京都の小さな一支区に一体、京都全体なら四体の「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊が存在します。それが全国となると、その数は膨大なものになります。
ですが、はたして、それほど大量の御本尊を、日蓮正宗から破門された時から顕正会(当時は妙信講)で所有し、保管していた、というのでしょうか。これは、まずありえないことです。
しかも、「日布上人の大幅御形木御本尊」と言うけれども、私が入仏式に参加した時に目にしたそれは、真新しくて真っ白で、とても五十年も前から保管されてきたとは思えない新しさでした。
さらに、かつて実際に総本山から下附されていた「日布上人の御形木御本尊」とは、大きさが違うのです。
じつは、安田さんから「顕正会のニセ本尊疑惑」について聞いていた私は、「日布上人の大幅御形木御本尊」の大きさについても、この目で確認しておりました。その事実をもって質問したところ、支区部長は、「あなたには先生に対する忠誠心と信心が足りません」と言うばかりでした。
そのように顕正会は、本当におかしいことばかりで、質問すればするほど、出てくる答えは、「浅井センセーに対する信心と忠誠心が足りない。浅井センセーに対して失礼だ。これは謗法だ」「時間が過ぎれば総ての答えが出る」等々、訳のわからないことばかりです。
婦人部の面々に至っては、「浅井センセー以外、この法門を正しく伝えてくださる方はいない。だから浅井センセーは仏様です」と、とうとう、〝浅井本仏論〟まで飛び出す始末です。
私は、もはや迷うことはなくなり、安田さん夫妻と五度目に会った時だったでしょうか、顕正会を辞める決意を告げ、安田さん夫妻に伏見区の宣照寺様に連れていっていただき、今年の八月十二日、無事に御授戒を受けることができました。
法華講員として充実の日々
顕正会の幹部と京都会館にも顕正会を辞めて日蓮正宗に入信したことを伝えたところ、顕正会からは連日、電話と複数名の訪問による説得が続きました。
それでも私の気持ちは変わることはなく、安田さん夫妻と顕正会員宅への折伏に回り始めたところ、説得が嫌がらせに変わっていきました。
そして、ついに「浅井」から直接、電話が掛かってきました。
浅井「大矢文昭か!」
大矢「はい、大矢だけど」
浅井「浅井だ! 君は除名だ!」
そう言い終えると、電話は一方的に切られました。
あまりにも唐突で、短い電話でしたので、声の主が顕正会ナンバー1の〝浅井昭衛〟なのか、ナンバー2の〝浅井城衛〟なのか、
いまだに判別が付きませんが、いずれにしても直々に〝除名〟を言い渡されたのです。
「こちらから辞めたのに、バカじゃないか」と思いましたが、これで謗法団体と縁が切れ、すがすがしい思いになりました。
そして、晴れ晴れとした気持ちで折伏に回ると、行く先々に顕正会員が出没し、折伏を妨げてきました。
今も毎朝七時にイヤガラセの電話が入ってきますが、そんな顕正会のイヤガラセなど気にせず、安田さん達と一緒に折伏に回らせていただいています。
また、先月の御講の時には御本尊様をお貸し下げいただき、自宅にお迎えすることができました。
今、私はとっても幸せです。朝、目が覚めて御本尊様に朝のご挨拶、そして勤行。夕にご挨拶、そして勤行。理境坊京都出張所に行けば、皆さんと柔らかな会話をして、勤行・唱題。そして折伏―。
創価学会時代や顕正会時代にはけっして味わうことのなかった幸せを、日々に感じ、御本尊様の御力に感謝申し上げています。
今後、一人でも多くの顕正会員を泥沼から救い出し、浅井教ではなく日蓮正宗の信徒となれるよう、講中の皆さんと共に折伏に邁進していきます。
(慧妙 令和二年十一月十六日)
顕正会は大矢さんに奇有な体験を語らせ、これを最大限に活用