東京都小平市 広説寺支部 清家 和正
活動すればするほど、苦悩が増す
私は、昭和四十八年、創価学会員の両親のもとに生まれました。
もちろん、当時の創価学会はまだ日蓮正宗の信徒団体で、両親とも熱心な会員でした。特に母は信仰心が強く、私の幼少期より、御本尊様の前で唱題している母の姿が強く印象に残っております。
そんな母の姿を見てきたせいか、私自身の心にも御本尊様と御題目の大切さが打ち込まれ、幼い頃から唱題だけは欠かすことがなく一生懸命にしておりました。
ところが、どういうわけか、「創価学会」という言葉を聞くと、本能的におびえ、嫌悪感が噴き出してくるのです。それは幼少の頃からで、大人になっても変わることはありませんでした。
平成三年、高校を卒業した私は、家族と離れ、会社の寮での生活を始めました。それに伴(ともな)って、正宗寺院で新たに御本尊様を下付していただき、もともと毛嫌いしていた創価学会からも離れておりました。
しかし、一方で、一途に学会活動をする両親の姿をずっと見てきた私は、本当の親孝行は、経済的な支えはなく、親の心に順(したが)って学会活動をすることなのかもしれない。という思いもあり、同時に様々な悩みを解決して幸福になりたい、との思いもあって、迷ったあげく、平成十年から、学会活動に参加するようになりました。
私が学会活動を始めた頃は、すでに学会は日蓮正宗から破門されており、学会版のニセ本尊が日本中に普及している真っ最中でした。
もちろん、”ニセ本尊”だとは、学会の上層部以外、全国の学会員は知る由(よし)もありません。
そのような中、平成十一年、二十六歳の時に、男子部幹部から執拗(しつよう)に迫られて、ついに私も学会のニセ本尊に取り替えてしまったのです。
以来、私は約十二年間、懸命に学会活動に励み、気がつけば役職を八つも抱え、信濃町の学会本部担当の警備までやるようになっておりました。
その十二年間、学会活動をしてくる中で、様々な病気を抱えてしまいました。
胃潰瘍(かいよう)、大腸炎、下血、慢性頭痛、円形脱毛症、高血圧、睡眠障害、そして、その集大成が末期の前立腺癌(がん)です。
親孝行とは併せ、幸福になるために、希望を抱いて始めたはずの学会活動でしたが、気が付けば「病気を治したい!」との一心で活動するようになっていました。
それでも事態は変わることなく、身体がむしばまれていく中、
「なぜ、こんなに一生懸命に活動しているのに、幸福とは程遠い病気に悩まなければならないのだろう? なぜ、思い描いていた夢や希望が破れ、これほどまでに様々な人間関係で悩むのだろう?」
と思い悩み、
「自分の信心が弱いからだ」
と言い聞かせながら、一生懸命に学会活動に取り組んでいました。
「ニセ本尊だ」と知って疑問氷解(ひょうかい)
年に一度の学会の”財務”も、両親に喜んでもらいたいとの一心で、十二年間、毎年、年末のボーナスは全て、時には三桁(百万円以上)の財務もしました。
”財務”といえば、両親などは、私が知るかぎり三年連続で、四桁(一千万円以上)に及ぶ財務をしていましたが、一家共々、財産を失い、経済的にどん底になっていきました。
しかし、この両親の信ずる創価学会の信仰であれば、貯蓄など残らずとも、必ず功徳をいただき、守られるのだと、愚かにも当時はそう思っておりました。思い返してみると、年末の”財務”の前になると、突然、本部職員が実家の両親を訪問してきて、四桁の財務をお願いする、ということがありました。おそらく、学会本部には「財務の高額納入者」とデータ化した悪質な金融システムが存在し、両親もそのターゲットになっていたのでしょう。
そういうことにも気が付かず、
「財務には功徳がある」
という幹部の指導に洗脳され、当時の私は、必死な思いで財務にも頑張っていたのです。
しかし、謗法団体になった創価学会で、どんなに活動や”財務”に頑張っても功徳などあるはずがありませんでした。病気や生活は一向に改善されず、逆に、ものすごいスピードで全ての事が悪化していく一方で、心の虚(むな)しさのようなものだけは常にある、という精神状態でした。
病気を抱えた状態が続き、平成十九年、三十四歳の時に、身も心も疲労困憊(こんぱい)した私は、十七年間勤めた会社を退職しました。
その後、平成二十年に医療関係の仕事に再就職しましたが、その職場は人間関係が最悪で、上司からは人権を無視する陰湿な罵倒(ばとう)を浴びせられ、まさにパワハラが常態化した毎日でした。
そんな私の状況を見兼ねた友人が
「創価学会の本尊はニセ本尊だよ」
と教えてくれたのです。
思いも寄らなかった指摘に、私は大変驚きましたが、たしかに、自分の拝んできたのがニセ本尊だったと考えれば、これまでの出来事のつじつまが合います。
不幸の原因は学会のニセ本尊だった!
と納得できた私は、即座に仏壇からニセ本尊を剥(は)ぎ取り、一切の学会活動を辞(や)めました。
すると、その直後から、不思議なことが起こりました。職場での陰湿なパワハラが軽減していき、まるで何事もなかったかのように笑顔や笑い声が絶えない職場へと変わっていったのです。
ただ、このまま学会に在籍していてはいけないと思いつつも、両親を裏切りたくないという思いから、創価学会を脱会することには躊躇(ちゅうちょ)し続けておりました。
しかし、四十一歳の時、ついに、創価学会を脱会して日蓮正宗に帰伏しなければ絶対に幸福になれない、今世をこのままで終わらせてしまってはならない、との思いに至り、あらためて友人の紹介を通して妙相寺(長野県)の法華講の方から折伏を受け、正式に日蓮正宗の法華講員となりました。
法華講で実感した正信(しょうしん)の功徳
当初は、毎月の御講のたびに長野県のお寺まで通っておりましたが、その後、病気の身体であることから特別のお計らいにより、現在の広説寺に移籍させていただき、現在に至っております。
広説寺で初めて御講へ参詣させていただいた折、御住職・阿部正教御尊師から
「この信心で必ず病気は治るんです!」
との確信に溢れたお言葉に心が震えたことを、今でもはっきりと覚えております。
以来、私は自分の信仰姿勢をもう一度改め直し、広説寺御住職様のもとで、一生、精進させていただきたい、と心より願うと同時に、かつて本物の御本尊様を謗法の創価学会に渡してしまった御不敬の大罪と、何年にもわたってニセ本尊を拝んできた大罪を、一生かけて懺悔し、信心に励み、微力ながらも法華講員として真に広布にお役に立てる人材へ成長していくことを誓いました。
さんざん謗法を犯してきた私のような者が、人生をやり直せるチャンスをいただけたこと自体、本当に有り難く、感謝の思いでいっぱいです。
その感謝の気持ちをどのように恩返しするか、それは一人でも多くの縁のある方々を折伏・育成していく以外にありません。そのような思いで講中の皆さんと共に折伏活動をしてきたところ、今年の二月に、元職場の友人である山岸さんを入信に導くことができました。
その後も、友人夫婦を折伏したり、勘当された状態で八年間も疎遠になっていた両親の所へ行き、折伏してきました。
学会員である両親を帰伏に至らせることはできませんでしたが、私の方は、折伏に挑戦し続けていく中、思いも寄らない功徳をいただきました。
先にも述べたように、私は末期の前立腺癌を患(わずら)っていて、前立腺自体が通常の八倍まで拡大しており、入院すれば即、全摘手術という状態で、手術をしたとしても通常の生活は困難になる可能性が高い状態にありました。
ところが、少し前に受けた検査で、腫瘍(しゅよう)が減少して、八倍の大きさだった前立腺が約半分にまで縮小していることが判(わか)ったのです。確実に健康体へ向かって動き出していることに大変に驚き、折伏の功徳に感動いたしました。
まさに、御住職が言われた、「広宣流布を目指して折伏・育成に精進していけば、必ず病気は治る」
ということを実感する思いです。また、御住職様は普段から「きちんと信心を貫いていけば、必ず法界が動き、不思議が起こる」とも言われますが、私のような者でもそれを実感することができました。
今後も広説寺法華講の一員として、折伏に邁進(まいしん)してまいる所存です。
(平成三十年五月十六日 慧妙より)
活動すればするほど、苦悩が増す
私は、昭和四十八年、創価学会員の両親のもとに生まれました。
もちろん、当時の創価学会はまだ日蓮正宗の信徒団体で、両親とも熱心な会員でした。特に母は信仰心が強く、私の幼少期より、御本尊様の前で唱題している母の姿が強く印象に残っております。
そんな母の姿を見てきたせいか、私自身の心にも御本尊様と御題目の大切さが打ち込まれ、幼い頃から唱題だけは欠かすことがなく一生懸命にしておりました。
ところが、どういうわけか、「創価学会」という言葉を聞くと、本能的におびえ、嫌悪感が噴き出してくるのです。それは幼少の頃からで、大人になっても変わることはありませんでした。
平成三年、高校を卒業した私は、家族と離れ、会社の寮での生活を始めました。それに伴(ともな)って、正宗寺院で新たに御本尊様を下付していただき、もともと毛嫌いしていた創価学会からも離れておりました。
しかし、一方で、一途に学会活動をする両親の姿をずっと見てきた私は、本当の親孝行は、経済的な支えはなく、親の心に順(したが)って学会活動をすることなのかもしれない。という思いもあり、同時に様々な悩みを解決して幸福になりたい、との思いもあって、迷ったあげく、平成十年から、学会活動に参加するようになりました。
私が学会活動を始めた頃は、すでに学会は日蓮正宗から破門されており、学会版のニセ本尊が日本中に普及している真っ最中でした。
もちろん、”ニセ本尊”だとは、学会の上層部以外、全国の学会員は知る由(よし)もありません。
そのような中、平成十一年、二十六歳の時に、男子部幹部から執拗(しつよう)に迫られて、ついに私も学会のニセ本尊に取り替えてしまったのです。
以来、私は約十二年間、懸命に学会活動に励み、気がつけば役職を八つも抱え、信濃町の学会本部担当の警備までやるようになっておりました。
その十二年間、学会活動をしてくる中で、様々な病気を抱えてしまいました。
胃潰瘍(かいよう)、大腸炎、下血、慢性頭痛、円形脱毛症、高血圧、睡眠障害、そして、その集大成が末期の前立腺癌(がん)です。
親孝行とは併せ、幸福になるために、希望を抱いて始めたはずの学会活動でしたが、気が付けば「病気を治したい!」との一心で活動するようになっていました。
それでも事態は変わることなく、身体がむしばまれていく中、
「なぜ、こんなに一生懸命に活動しているのに、幸福とは程遠い病気に悩まなければならないのだろう? なぜ、思い描いていた夢や希望が破れ、これほどまでに様々な人間関係で悩むのだろう?」
と思い悩み、
「自分の信心が弱いからだ」
と言い聞かせながら、一生懸命に学会活動に取り組んでいました。
「ニセ本尊だ」と知って疑問氷解(ひょうかい)
年に一度の学会の”財務”も、両親に喜んでもらいたいとの一心で、十二年間、毎年、年末のボーナスは全て、時には三桁(百万円以上)の財務もしました。
”財務”といえば、両親などは、私が知るかぎり三年連続で、四桁(一千万円以上)に及ぶ財務をしていましたが、一家共々、財産を失い、経済的にどん底になっていきました。
しかし、この両親の信ずる創価学会の信仰であれば、貯蓄など残らずとも、必ず功徳をいただき、守られるのだと、愚かにも当時はそう思っておりました。思い返してみると、年末の”財務”の前になると、突然、本部職員が実家の両親を訪問してきて、四桁の財務をお願いする、ということがありました。おそらく、学会本部には「財務の高額納入者」とデータ化した悪質な金融システムが存在し、両親もそのターゲットになっていたのでしょう。
そういうことにも気が付かず、
「財務には功徳がある」
という幹部の指導に洗脳され、当時の私は、必死な思いで財務にも頑張っていたのです。
しかし、謗法団体になった創価学会で、どんなに活動や”財務”に頑張っても功徳などあるはずがありませんでした。病気や生活は一向に改善されず、逆に、ものすごいスピードで全ての事が悪化していく一方で、心の虚(むな)しさのようなものだけは常にある、という精神状態でした。
病気を抱えた状態が続き、平成十九年、三十四歳の時に、身も心も疲労困憊(こんぱい)した私は、十七年間勤めた会社を退職しました。
その後、平成二十年に医療関係の仕事に再就職しましたが、その職場は人間関係が最悪で、上司からは人権を無視する陰湿な罵倒(ばとう)を浴びせられ、まさにパワハラが常態化した毎日でした。
そんな私の状況を見兼ねた友人が
「創価学会の本尊はニセ本尊だよ」
と教えてくれたのです。
思いも寄らなかった指摘に、私は大変驚きましたが、たしかに、自分の拝んできたのがニセ本尊だったと考えれば、これまでの出来事のつじつまが合います。
不幸の原因は学会のニセ本尊だった!
と納得できた私は、即座に仏壇からニセ本尊を剥(は)ぎ取り、一切の学会活動を辞(や)めました。
すると、その直後から、不思議なことが起こりました。職場での陰湿なパワハラが軽減していき、まるで何事もなかったかのように笑顔や笑い声が絶えない職場へと変わっていったのです。
ただ、このまま学会に在籍していてはいけないと思いつつも、両親を裏切りたくないという思いから、創価学会を脱会することには躊躇(ちゅうちょ)し続けておりました。
しかし、四十一歳の時、ついに、創価学会を脱会して日蓮正宗に帰伏しなければ絶対に幸福になれない、今世をこのままで終わらせてしまってはならない、との思いに至り、あらためて友人の紹介を通して妙相寺(長野県)の法華講の方から折伏を受け、正式に日蓮正宗の法華講員となりました。
法華講で実感した正信(しょうしん)の功徳
当初は、毎月の御講のたびに長野県のお寺まで通っておりましたが、その後、病気の身体であることから特別のお計らいにより、現在の広説寺に移籍させていただき、現在に至っております。
広説寺で初めて御講へ参詣させていただいた折、御住職・阿部正教御尊師から
「この信心で必ず病気は治るんです!」
との確信に溢れたお言葉に心が震えたことを、今でもはっきりと覚えております。
以来、私は自分の信仰姿勢をもう一度改め直し、広説寺御住職様のもとで、一生、精進させていただきたい、と心より願うと同時に、かつて本物の御本尊様を謗法の創価学会に渡してしまった御不敬の大罪と、何年にもわたってニセ本尊を拝んできた大罪を、一生かけて懺悔し、信心に励み、微力ながらも法華講員として真に広布にお役に立てる人材へ成長していくことを誓いました。
さんざん謗法を犯してきた私のような者が、人生をやり直せるチャンスをいただけたこと自体、本当に有り難く、感謝の思いでいっぱいです。
その感謝の気持ちをどのように恩返しするか、それは一人でも多くの縁のある方々を折伏・育成していく以外にありません。そのような思いで講中の皆さんと共に折伏活動をしてきたところ、今年の二月に、元職場の友人である山岸さんを入信に導くことができました。
その後も、友人夫婦を折伏したり、勘当された状態で八年間も疎遠になっていた両親の所へ行き、折伏してきました。
学会員である両親を帰伏に至らせることはできませんでしたが、私の方は、折伏に挑戦し続けていく中、思いも寄らない功徳をいただきました。
先にも述べたように、私は末期の前立腺癌を患(わずら)っていて、前立腺自体が通常の八倍まで拡大しており、入院すれば即、全摘手術という状態で、手術をしたとしても通常の生活は困難になる可能性が高い状態にありました。
ところが、少し前に受けた検査で、腫瘍(しゅよう)が減少して、八倍の大きさだった前立腺が約半分にまで縮小していることが判(わか)ったのです。確実に健康体へ向かって動き出していることに大変に驚き、折伏の功徳に感動いたしました。
まさに、御住職が言われた、「広宣流布を目指して折伏・育成に精進していけば、必ず病気は治る」
ということを実感する思いです。また、御住職様は普段から「きちんと信心を貫いていけば、必ず法界が動き、不思議が起こる」とも言われますが、私のような者でもそれを実感することができました。
今後も広説寺法華講の一員として、折伏に邁進(まいしん)してまいる所存です。
(平成三十年五月十六日 慧妙より)