滋賀県八幡市 慧照寺支部 菊池 カツ子
大御本尊様はお見通しだった!
私は、創価学会が日蓮正宗から破門される以前の昭和五十七年頃、喫茶店で知り合った学会婦人から誘われて入信しました。
その頃の私は様々な家庭の問題を抱えており、それを解決できるなら、と思ったのです。
そして、初めて総本山へ登山させていただいた時、その問題の解決を本門戒壇の大御本尊様にお願いするつもりだっうたのですが、いざ御開扉が始まると感激で胸がいっぱいになり、なぜか自然と、「どうか大聖人様のお役に立てる人間となれますように。人のお役に立てる人間となれますように」とだけ御祈念し続けていました。結局、自分の悩みの解決を御祈念することができず、後になってそのことが少々悔やまれました。ところが、その後しばらくすると、自分の抱えていた問題が全て解決したのです!
「大御本尊様は全てお見通しだったのだ」-私は、御本尊様のお力のすごさを思い知りました。
今思うと、この体験があったからこそ、一時は何も知らずにニセ本尊に取り替えてしまったものの、再び正しい御本尊様のもとに戻ることができたのだと思います。
ニセ本尊とも知らずに受けてしまい・・・
主人とは、私が創価学会に入ってから出会い、一緒になりました。でも主人は、どんなに誘われても入会することはありませんでした。私は、御本尊様のお力を信じ、どんなことがあっても勤行と唱題だけは欠かさなかったのですが、一方では、創価学会の組織に対して疑問を持つようになっていきました。
その始まりは、訪問してきた学会員が学会の”財務”について、
「年間に百万円出したら、その何倍もの幸せが返ってくる」
と言ったことでした。要するに、”百万円の財務をしろ”ということです。私は、幸せとはお金で買えるものではない、と思うと同時に、学会が怪しい会社や悪質な新興宗教のようなものに思えてきたのです。
そういうこともあって、自ら進んで学会の会合に出向くことはほとんどなくなりましたが、訪問してくる学会員を迎え入れたり、池田大作の書籍を購入したりといった繋がりだけはもっていました。
そうしたなか、平成三年に創価学会が日蓮正宗から破門されたということも知らず、後には近所の学会員から言われるまま、ニセ本尊に交換してしまったのです。
現証歴然(れきぜん)!次々と襲った命の危機
知らなかったとはいえ、こうして大謗法の創価学会に身を置いていたのですから、ただで済むはずがありませんでした。以後は、私も主人も大病の連続だったのです。
まず平成四年、私が心筋梗塞で倒れ、命の危機にまで陥りました、その時はなんとか持ち直したものの、平成十五年、今度は狭心症で、医者から「十一本ものステント(金属製の筒)を入れたのは、この病院ではあなたが初めてだ」と言われたほどの大手術を受けました。
さらに、平成十九年、今度は主人が胆管結石で入院し、緊急手術を受けました。術後に医者から「胆嚢(たんのう)がグチャグチャになっていて、掴(つか)めないほどの状態だった」と言われたほど、主人の病状は悪化していたのです。
その手術の時は、ニセ本尊とは知らないまま、私も必死で唱題しました。
そして、「主人の命が助かったのは、その功徳だ」と思い込んでいました。
ところがその後、平成十五年には、主人が胃ガンになって、またまた手術を受けることになってしまったのです。
このように、夫婦揃って次から次への大病に見舞われ、明日の命に不安を抱えながらも、私は、それが謗法の罪障によるものだなどとは思いも及ばす、ニセ本尊を信じて疑いませんでした。
粘り強く折伏してくれた法華講員
そうした中、今から二年前の平成二十七年、カラオケ教室で一緒になった涌嶋さんから再折伏されたのです。
涌嶋さんは、二十年も信じていた創価学会を脱会し、現在はお寺に付いて法華講員として信心されているとのことで、私に「創価学会は破門されて謗法になったので、創価学会にいたらダメだ」と言い。仕事の合間を縫っては度々訪問してくださいました。
ある時、講員の橘さんと杉本さんもご一緒に来られ、総本山の写真を見せていただくと、昔の登山の記憶が蘇(よみがえ)ってきて話がはずみました。
さらに世間話から葬儀の話をしているうちに、「創価学会では御僧侶にお経もあげてもらえないし、戒名もない」と聞き、私は、やはり臨終を迎えた時には御僧侶にお経をあげてもらいたいと思いました。
涌嶋さん達から、「今までも大変だっただろうけど、このまま謗法の創価学会に身を置いてニセモノの本尊に手を合わせていたら、もっと大変なことになる」と言われ、「お寺に行って御住職様のお話を聞こう」と誘っていただきましたが、今まで本尊にもニセモノがあるなどと考えたこともない私は、すぐに納得することができませんでした。また主人の手前もあって、まだお寺に行く気にはなれませんでした。
そのような中、昨年七月のある日、涌嶋さんから誘われて、主人も一緒に近江八幡のカラオケに連れていってもらった、その帰り道のことです。涌嶋さんから「ここまで来たんだから、お寺の本堂に上がらせてもらってはどうか」と言われ、少しだけお邪魔することにしました。すると、主人も嫌がることなくやってきて、「懐かしいな」と言い、スラスラとお経を唱え始めたのです、これには、「え!?どうして!?」と、私も皆さんも驚いてしまいました。
あれから二週間ほどした昨年七月二十七日、慧照寺の秦御住職様が、わざわざ私共の自宅へ訪問してくださり、創価学会の破門の理由と、学会がニセ本尊まで作ったこと、創価学会には相伝もないこと、そして、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」
(御書 一三一四頁)
との御書を通して、相伝の仏法と血脈の大事を、私にも分かるようにお話をしてくださいました。
じつは、その時初めて知ったのですが、主人は若い頃、東京に住んでいた時に創価学会に入ってバリバリ活動していたものの、やがて学会に不信をもって、四十年以上も前に御本尊様をお寺にお返ししていた、というのです。
主人の創価学会に対する不信というのは、当時の強引な手口での会員増やしや、強制的に財務等の集金をするといった日々を送っているうちに、だんだんその家の人が気の毒に思えてきて、「自分は、一生こんなことを続けてよいのだろうか」という思いに苦しみ、さらには、学会の裏側の部分を見たこともあって、御本尊様をお寺に返納して学会を辞めた、という
ことでした。
今まで何も知らなかった私は、本当に驚きましたが、御住職様は主人の疑問にも全て答えてくださいました。
私は、その二日後の七月二十九日の夜、無事に勧誡を受け、本物の御本尊様を御下付していただくことができました。
そして、夜遅くにもかかわらず、その日のうちに御住職様が我が家に来てくださり、入仏式をしてくださいました。
八月十九日、その日は講中の方に迎えに来ていただいてお寺に行くことになっていたのですが、私が正しい信心に戻った功徳でしょうか。、主人が突然、「俺も行こうかな」と言ってきたのです。それまでは頑(かたく)なに、「もう信心はしない」と言っていた主人でしたので、私は大感激でした。そしてその日、主人も無事に勧誡を受けることができたのです。
夫婦に訪れた安心と充足(じゅうそく)の日々
翌九月の四日には、講中の皆さんと一緒に夫婦揃って登山させていただくことができました。
三十三年ぶりの登山では、記憶にあった正本堂が無くなっていることに驚いたものの、参道を歩いていると、昔と少しも変わっていない総本山の佇(たたず)まい、凛(りん)とした空気に、懐かしさが込み上げ、感慨もひとしおでした。
正宗への帰伏から半年余りを経た現在、主人は、大病を経験したこともあってか、毎日、御本尊様に「今日も一日元気で過ごせますように」「無事に明日が迎えられますように」と強く願っているそうで、朝、目が覚めたらまず、「良かった、生きていた」と思うそうです。
今までは、二人とも元気で明るく毎日を過ごさせていただいておりますが、創価学会を脱会しなければ、このように主人と一緒に信心することもできなかったと思います。
私も主人も、正しい御本尊様をお迎えできたことに感謝し、また、御本尊様をお迎えするために、これまで命を助けていただいてきたのだ、と思っています。
今でも学会員が訪問してきては、「今までの人間関係を急に断ち切るようなことはしないで」などと言っては学会に引き戻そうとしてきますが、私は創価学会を信仰してきたのではありません。
大聖人様の教えを正しく伝えられる御法主上人猊下様と御僧侶に付いていくことを忘れてはいけない、ということを肝に銘じて、折伏してまいります。
(慧妙 平成二十九年三月十六日号)
大御本尊様はお見通しだった!
私は、創価学会が日蓮正宗から破門される以前の昭和五十七年頃、喫茶店で知り合った学会婦人から誘われて入信しました。
その頃の私は様々な家庭の問題を抱えており、それを解決できるなら、と思ったのです。
そして、初めて総本山へ登山させていただいた時、その問題の解決を本門戒壇の大御本尊様にお願いするつもりだっうたのですが、いざ御開扉が始まると感激で胸がいっぱいになり、なぜか自然と、「どうか大聖人様のお役に立てる人間となれますように。人のお役に立てる人間となれますように」とだけ御祈念し続けていました。結局、自分の悩みの解決を御祈念することができず、後になってそのことが少々悔やまれました。ところが、その後しばらくすると、自分の抱えていた問題が全て解決したのです!
「大御本尊様は全てお見通しだったのだ」-私は、御本尊様のお力のすごさを思い知りました。
今思うと、この体験があったからこそ、一時は何も知らずにニセ本尊に取り替えてしまったものの、再び正しい御本尊様のもとに戻ることができたのだと思います。
ニセ本尊とも知らずに受けてしまい・・・
主人とは、私が創価学会に入ってから出会い、一緒になりました。でも主人は、どんなに誘われても入会することはありませんでした。私は、御本尊様のお力を信じ、どんなことがあっても勤行と唱題だけは欠かさなかったのですが、一方では、創価学会の組織に対して疑問を持つようになっていきました。
その始まりは、訪問してきた学会員が学会の”財務”について、
「年間に百万円出したら、その何倍もの幸せが返ってくる」
と言ったことでした。要するに、”百万円の財務をしろ”ということです。私は、幸せとはお金で買えるものではない、と思うと同時に、学会が怪しい会社や悪質な新興宗教のようなものに思えてきたのです。
そういうこともあって、自ら進んで学会の会合に出向くことはほとんどなくなりましたが、訪問してくる学会員を迎え入れたり、池田大作の書籍を購入したりといった繋がりだけはもっていました。
そうしたなか、平成三年に創価学会が日蓮正宗から破門されたということも知らず、後には近所の学会員から言われるまま、ニセ本尊に交換してしまったのです。
現証歴然(れきぜん)!次々と襲った命の危機
知らなかったとはいえ、こうして大謗法の創価学会に身を置いていたのですから、ただで済むはずがありませんでした。以後は、私も主人も大病の連続だったのです。
まず平成四年、私が心筋梗塞で倒れ、命の危機にまで陥りました、その時はなんとか持ち直したものの、平成十五年、今度は狭心症で、医者から「十一本ものステント(金属製の筒)を入れたのは、この病院ではあなたが初めてだ」と言われたほどの大手術を受けました。
さらに、平成十九年、今度は主人が胆管結石で入院し、緊急手術を受けました。術後に医者から「胆嚢(たんのう)がグチャグチャになっていて、掴(つか)めないほどの状態だった」と言われたほど、主人の病状は悪化していたのです。
その手術の時は、ニセ本尊とは知らないまま、私も必死で唱題しました。
そして、「主人の命が助かったのは、その功徳だ」と思い込んでいました。
ところがその後、平成十五年には、主人が胃ガンになって、またまた手術を受けることになってしまったのです。
このように、夫婦揃って次から次への大病に見舞われ、明日の命に不安を抱えながらも、私は、それが謗法の罪障によるものだなどとは思いも及ばす、ニセ本尊を信じて疑いませんでした。
粘り強く折伏してくれた法華講員
そうした中、今から二年前の平成二十七年、カラオケ教室で一緒になった涌嶋さんから再折伏されたのです。
涌嶋さんは、二十年も信じていた創価学会を脱会し、現在はお寺に付いて法華講員として信心されているとのことで、私に「創価学会は破門されて謗法になったので、創価学会にいたらダメだ」と言い。仕事の合間を縫っては度々訪問してくださいました。
ある時、講員の橘さんと杉本さんもご一緒に来られ、総本山の写真を見せていただくと、昔の登山の記憶が蘇(よみがえ)ってきて話がはずみました。
さらに世間話から葬儀の話をしているうちに、「創価学会では御僧侶にお経もあげてもらえないし、戒名もない」と聞き、私は、やはり臨終を迎えた時には御僧侶にお経をあげてもらいたいと思いました。
涌嶋さん達から、「今までも大変だっただろうけど、このまま謗法の創価学会に身を置いてニセモノの本尊に手を合わせていたら、もっと大変なことになる」と言われ、「お寺に行って御住職様のお話を聞こう」と誘っていただきましたが、今まで本尊にもニセモノがあるなどと考えたこともない私は、すぐに納得することができませんでした。また主人の手前もあって、まだお寺に行く気にはなれませんでした。
そのような中、昨年七月のある日、涌嶋さんから誘われて、主人も一緒に近江八幡のカラオケに連れていってもらった、その帰り道のことです。涌嶋さんから「ここまで来たんだから、お寺の本堂に上がらせてもらってはどうか」と言われ、少しだけお邪魔することにしました。すると、主人も嫌がることなくやってきて、「懐かしいな」と言い、スラスラとお経を唱え始めたのです、これには、「え!?どうして!?」と、私も皆さんも驚いてしまいました。
あれから二週間ほどした昨年七月二十七日、慧照寺の秦御住職様が、わざわざ私共の自宅へ訪問してくださり、創価学会の破門の理由と、学会がニセ本尊まで作ったこと、創価学会には相伝もないこと、そして、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」
(御書 一三一四頁)
との御書を通して、相伝の仏法と血脈の大事を、私にも分かるようにお話をしてくださいました。
じつは、その時初めて知ったのですが、主人は若い頃、東京に住んでいた時に創価学会に入ってバリバリ活動していたものの、やがて学会に不信をもって、四十年以上も前に御本尊様をお寺にお返ししていた、というのです。
主人の創価学会に対する不信というのは、当時の強引な手口での会員増やしや、強制的に財務等の集金をするといった日々を送っているうちに、だんだんその家の人が気の毒に思えてきて、「自分は、一生こんなことを続けてよいのだろうか」という思いに苦しみ、さらには、学会の裏側の部分を見たこともあって、御本尊様をお寺に返納して学会を辞めた、という
ことでした。
今まで何も知らなかった私は、本当に驚きましたが、御住職様は主人の疑問にも全て答えてくださいました。
私は、その二日後の七月二十九日の夜、無事に勧誡を受け、本物の御本尊様を御下付していただくことができました。
そして、夜遅くにもかかわらず、その日のうちに御住職様が我が家に来てくださり、入仏式をしてくださいました。
八月十九日、その日は講中の方に迎えに来ていただいてお寺に行くことになっていたのですが、私が正しい信心に戻った功徳でしょうか。、主人が突然、「俺も行こうかな」と言ってきたのです。それまでは頑(かたく)なに、「もう信心はしない」と言っていた主人でしたので、私は大感激でした。そしてその日、主人も無事に勧誡を受けることができたのです。
夫婦に訪れた安心と充足(じゅうそく)の日々
翌九月の四日には、講中の皆さんと一緒に夫婦揃って登山させていただくことができました。
三十三年ぶりの登山では、記憶にあった正本堂が無くなっていることに驚いたものの、参道を歩いていると、昔と少しも変わっていない総本山の佇(たたず)まい、凛(りん)とした空気に、懐かしさが込み上げ、感慨もひとしおでした。
正宗への帰伏から半年余りを経た現在、主人は、大病を経験したこともあってか、毎日、御本尊様に「今日も一日元気で過ごせますように」「無事に明日が迎えられますように」と強く願っているそうで、朝、目が覚めたらまず、「良かった、生きていた」と思うそうです。
今までは、二人とも元気で明るく毎日を過ごさせていただいておりますが、創価学会を脱会しなければ、このように主人と一緒に信心することもできなかったと思います。
私も主人も、正しい御本尊様をお迎えできたことに感謝し、また、御本尊様をお迎えするために、これまで命を助けていただいてきたのだ、と思っています。
今でも学会員が訪問してきては、「今までの人間関係を急に断ち切るようなことはしないで」などと言っては学会に引き戻そうとしてきますが、私は創価学会を信仰してきたのではありません。
大聖人様の教えを正しく伝えられる御法主上人猊下様と御僧侶に付いていくことを忘れてはいけない、ということを肝に銘じて、折伏してまいります。
(慧妙 平成二十九年三月十六日号)