A.創価学会の幹部のなかには、「学会は御書根本だから、大聖人の言葉だけを信じている。それ以外の歴代法主や歴代会長は、途中の人師・論師にすぎないから用いる必要はない」と言う人がいます。
創価学会の言う「御書根本」については、他の項目で破折しています。
(Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」
Q13.「御書だけで議論しようではないか」参照)
「歴代法主の言葉はどうでもよい」という主張は、御歴代上人に伝えられる血脈にもとづく御指南を蔑(ないがしろ)ろにすることであり、それは『百六箇抄』に仰せられる、
「直授結要付嘱(じきじゅけっちょうふぞく)は唯一人(ただいちにん)なり。白蓮阿闍梨(びゃくれんざじゃり)日興を以て総貫首(そうかんず)と為(な)し、日蓮が正義(しょうぎ)悉(ことごと)く以(もっ)て毛頭程(もうとうほど)も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下(じょうしゅいげ)並びに末弟等異論(いろん)無く尽未来際(じんみらいさい)に至るまで、予(よ)が存日の如く、日興が嫡々付法(ちゃくちゃくふほう)の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二㌻)
との御教示に背くことであり、大謗法の言(げん)というほかはありません。
また、「歴代会長の言葉はどうでもよい」という主張は、現在の創価学会が、牧口・戸田両会長の指導に違背し、本来進むべき道を見失った状態にあることを物語っています。
ひとつの宗教団体の教義・信条がコロコロと変わり、八十数年間根本としてきた大御本尊を放棄し、歴代会長とまったく違った指導をするなどは、世間の物笑いの種(たね)というべきでしょう。
創価学会の言う「御書根本」については、他の項目で破折しています。
(Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」
Q13.「御書だけで議論しようではないか」参照)
「歴代法主の言葉はどうでもよい」という主張は、御歴代上人に伝えられる血脈にもとづく御指南を蔑(ないがしろ)ろにすることであり、それは『百六箇抄』に仰せられる、
「直授結要付嘱(じきじゅけっちょうふぞく)は唯一人(ただいちにん)なり。白蓮阿闍梨(びゃくれんざじゃり)日興を以て総貫首(そうかんず)と為(な)し、日蓮が正義(しょうぎ)悉(ことごと)く以(もっ)て毛頭程(もうとうほど)も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢(おわ)んぬ。上首已下(じょうしゅいげ)並びに末弟等異論(いろん)無く尽未来際(じんみらいさい)に至るまで、予(よ)が存日の如く、日興が嫡々付法(ちゃくちゃくふほう)の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二㌻)
との御教示に背くことであり、大謗法の言(げん)というほかはありません。
また、「歴代会長の言葉はどうでもよい」という主張は、現在の創価学会が、牧口・戸田両会長の指導に違背し、本来進むべき道を見失った状態にあることを物語っています。
ひとつの宗教団体の教義・信条がコロコロと変わり、八十数年間根本としてきた大御本尊を放棄し、歴代会長とまったく違った指導をするなどは、世間の物笑いの種(たね)というべきでしょう。