A.あなたは『日女御前御返事』の、
「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只(ただ)我等衆生、法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書一三八八㌻)
との御文を根拠として、そのように言うのでしょう。
この御文は、衆生個々の生命に成仏の因となる仏性がそなかっており、御本尊に向かって唱題することによって、はじめて衆生の仏性が開かれ、そこに真実の仏界が涌現することを教示されたものです。
これについて、総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡(みょうきょう)に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝(おが)んで、なんで成仏できましょうか。
そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」
(達全ニー五-六〇〇㌻)
と仰せられています。
この御指南からも、「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかです。
「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只(ただ)我等衆生、法華経を持(たも)ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書一三八八㌻)
との御文を根拠として、そのように言うのでしょう。
この御文は、衆生個々の生命に成仏の因となる仏性がそなかっており、御本尊に向かって唱題することによって、はじめて衆生の仏性が開かれ、そこに真実の仏界が涌現することを教示されたものです。
これについて、総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡(みょうきょう)に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝(おが)んで、なんで成仏できましょうか。
そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」
(達全ニー五-六〇〇㌻)
と仰せられています。
この御指南からも、「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかです。