①「三大秘法を信ずる」とは観念的信仰
今回、創価学会は、会則の教義条項を、
「根本の法である南無妙法蓮華経を具現(ぐげん)された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え云々」
(本書137頁参照・傍線筆者)
と改変しました。
これは、これまでの会則の教義条項にあった、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」(傍線筆者)
との条文から「大御本尊を信受し」の文言を削除し、「三大秘法を信じ」と改変したものです。
信仰の集団では、何を信ずるのかが最も重要なことです。
今回、創価学会が具体的な信仰の対象である三大秘法総在の大御本尊を放棄し、名ばかりの三大秘法を信仰の対象としたことは、現実に存在する御本尊を離れ、観念的(かんねんてき)信仰におちたものと言えます。
②一大秘法抜きの三大秘法は邪説
今回の会則改変は、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊を排除し、創価学会流の実体のない三大秘法を信仰の対象にすり替(か)えたものです。
そもそも、日蓮大聖人の仏法において、三大秘法とは、
本門の本尊・・・・大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊
本門の戒壇・・・・本門の本尊を安置する所
本門の題目・・・・本門の本尊を信じて唱える題目
であり、この三大秘法は、別個に存在するものではありません。
日寛上人は『依義判文抄』(えぎはんもんしょう)に、
「三大秘法を合(がっ)すれば則(すなわ)ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名(な)づくるなり」(六巻抄八二頁)
と仰せです。
すなわち、本門戒壇の大御本尊を開けば三大秘法となり、三大秘法を合すれば一大秘法の本門戒壇の大御本尊に納(おさ)まります。このことをもって、本門戒壇の大御本尊を三大秘法総在の大御本尊と尊称(そんしょう)するのです。
したがって、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を離れて、三大秘法は成り立たないのです。
今回、創価学会は、会則の教義条項を、
「根本の法である南無妙法蓮華経を具現(ぐげん)された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え云々」
(本書137頁参照・傍線筆者)
と改変しました。
これは、これまでの会則の教義条項にあった、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」(傍線筆者)
との条文から「大御本尊を信受し」の文言を削除し、「三大秘法を信じ」と改変したものです。
信仰の集団では、何を信ずるのかが最も重要なことです。
今回、創価学会が具体的な信仰の対象である三大秘法総在の大御本尊を放棄し、名ばかりの三大秘法を信仰の対象としたことは、現実に存在する御本尊を離れ、観念的(かんねんてき)信仰におちたものと言えます。
②一大秘法抜きの三大秘法は邪説
今回の会則改変は、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊を排除し、創価学会流の実体のない三大秘法を信仰の対象にすり替(か)えたものです。
そもそも、日蓮大聖人の仏法において、三大秘法とは、
本門の本尊・・・・大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊
本門の戒壇・・・・本門の本尊を安置する所
本門の題目・・・・本門の本尊を信じて唱える題目
であり、この三大秘法は、別個に存在するものではありません。
日寛上人は『依義判文抄』(えぎはんもんしょう)に、
「三大秘法を合(がっ)すれば則(すなわ)ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名(な)づくるなり」(六巻抄八二頁)
と仰せです。
すなわち、本門戒壇の大御本尊を開けば三大秘法となり、三大秘法を合すれば一大秘法の本門戒壇の大御本尊に納(おさ)まります。このことをもって、本門戒壇の大御本尊を三大秘法総在の大御本尊と尊称(そんしょう)するのです。
したがって、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を離れて、三大秘法は成り立たないのです。
さらに第六十四世日昇上人も、
「三大秘法と申しまするにその究竟の眼目は戒壇の大御本尊に帰着致すのでありまして即ち皆様が今日篤くと拝せられました当山に護持し奉る戒壇の大御本尊に帰するのであります」(大日蓮・昭和二九年五月号三頁)
と仰せられ、三大秘法は本門戒壇の大御本尊に帰着すると、明確に指南されています。
ちなみに、創価学会発行の『折伏教典』には、
「三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人のお教えである」(該書改訂二三版三二九頁)
とあり、また『創価学会入門』にも、
「大聖人の仏法は三大秘法ですが、その根本は弘安二年十月十二日に御図顕された本門戒壇の大御本尊です。それは、本門の大御本尊に向かって唱える題目が本門の題目、本門の本尊を安置する所が本門の戒壇だからです」
(該書改訂版一〇〇頁)
とあります。
これらの御指南と従来の創価学会の主張を見ても、現在の創価学会流の三大秘法説がいかに狂っているか明らかではありませんか。
③「文字曼荼羅は等しく本門の本尊」という邪義
原田会長は、
「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界(じゅっかい)の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』であります」 (本書138頁参照)
と述べています。
つまり創価学会では、日蓮大聖人が図顕された大漫荼羅本尊とそれを書写した本尊は、すべて「等しく本門の本尊」であると定義しているのです。
それでは、創価学会は身延(みのぶ)をはじめ他門の寺院に蔵(ぞう)される大聖人直筆の御本尊や、他宗の僧侶が書写した本尊も「等しく本門の本尊」として認定するのでしょうか。
日寛上人は、戒壇の大御本尊と他門流に伝えられる漫荼羅本尊との違いについて、
「『日興が身に宛(あ)て賜(たま)はる所の弘安二年の大本尊は、日目に之を授与す。本門寺に掛け奉るべし』云云。今四百余年に至る。他流は皆是れ似(え)せ薬なるべし」(妙法曼陀羅供養抄記・文段七〇三頁・傍線筆者)
と仰せられ、大聖人直筆の御本尊であっても、本門戒壇の大御本尊につながる御本尊でなければすべて「似(え)せ薬」であり、「本門の本尊」ではないと指南されています。
また『折伏教典』にも、
「富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである」
(該書改訂二三版三一四頁)
とあり、さらに、
「日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道(てんまげどう)の本尊である。姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である」 (同三二-頁)
と明確に説明しています。
これらのことからも、根本の御本尊である本門戒壇の大御本尊から離れた創価学会が、いかなる本尊を持ち出そうとも、それはすでに血脈の切れた、功徳のない本尊なのです。