戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります(会長講演集三-一〇三㌻)
戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである(広布と人生を語る三―二四六㌻)
戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします、大仏法のありがたさを、一人、感ずるものである。この弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様のみが、全世界の人々が、信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである
(大白蓮華・昭和三五年一〇月号七㌻)
末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである(御義口伝講義下二三八㌻)
戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和のカギはこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない
(大白蓮華・昭和四五年一一月号一〇㌻)
日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである(立正安国論講義七七一㌻)
戒壇の大御本尊は根本の御本尊
日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくだざるのである
(広布と人生を語る一―一一二㌻)
三大秘法とは戒壇の大御本尊
どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである(日蓮大聖人御書十大部講義五―三六二㌻)
大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります(会長講演集ニ―五六㌻)
大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります(会長講演集九―二一八㌻)
創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます(大白蓮華・昭和三五年六月号七㌻)
もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります
(聖教新聞・昭和五五年四月二日付)
大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない(聖教新聞・平成五年九月一九日付)
日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである(広布と人生を語る一―一三一㌻)
社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
一、三大秘法の大御本尊がいっさいの根本であると拝していくことだ。
二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことだ(中略)この大原則を離れて、大聖人の仏法はありえない(広布と人生を語る三―二七一㌻)
戒壇の大御本尊を信じよ
唯々、弘安二年十月十二日の大御本尊に題目を唱えきって行く事のみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである(大白蓮華・昭和二九年六月号二二㌻)
私たちは、いま幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理・方法とは何か。申すまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年十月十二日の三大秘法の大御本尊様に唱題することにつきるのである(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊様を、しっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある(大白蓮華・昭和三六年一二月号八㌻)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対と信じたてまつり、いかかる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである(広布と人生を語る一―一三二㌻)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである(広布と人生を語る三―九八㌻)
戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな
一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄)です
(会長講演集九―三二三㌻)
末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである(日蓮大聖人御書十大部講義五―二七四㌻)
「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる中傷非難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の大信心に厳然とたつべきである(講座教学研究ニ―一二㌻)
大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです(会長講演集一〇―一九二㌻)
戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる(会長講演集八―一六七㌻)
日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである(御義口伝講義上九四㌻)
御本尊書写の権能は御法主上人にある
日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る三―二五六㌻)
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります(会長講演集三-一〇三㌻)
戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである(広布と人生を語る三―二四六㌻)
戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします、大仏法のありがたさを、一人、感ずるものである。この弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様のみが、全世界の人々が、信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである
(大白蓮華・昭和三五年一〇月号七㌻)
末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである(御義口伝講義下二三八㌻)
戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和のカギはこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない
(大白蓮華・昭和四五年一一月号一〇㌻)
日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである(立正安国論講義七七一㌻)
戒壇の大御本尊は根本の御本尊
日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくだざるのである
(広布と人生を語る一―一一二㌻)
三大秘法とは戒壇の大御本尊
どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである(日蓮大聖人御書十大部講義五―三六二㌻)
大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります(会長講演集ニ―五六㌻)
大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります(会長講演集九―二一八㌻)
創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます(大白蓮華・昭和三五年六月号七㌻)
もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります
(聖教新聞・昭和五五年四月二日付)
大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない(聖教新聞・平成五年九月一九日付)
日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである(広布と人生を語る一―一三一㌻)
社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
一、三大秘法の大御本尊がいっさいの根本であると拝していくことだ。
二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことだ(中略)この大原則を離れて、大聖人の仏法はありえない(広布と人生を語る三―二七一㌻)
戒壇の大御本尊を信じよ
唯々、弘安二年十月十二日の大御本尊に題目を唱えきって行く事のみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである(大白蓮華・昭和二九年六月号二二㌻)
私たちは、いま幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理・方法とは何か。申すまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年十月十二日の三大秘法の大御本尊様に唱題することにつきるのである(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊様を、しっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある(大白蓮華・昭和三六年一二月号八㌻)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対と信じたてまつり、いかかる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである(広布と人生を語る一―一三二㌻)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである(広布と人生を語る三―九八㌻)
戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな
一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄)です
(会長講演集九―三二三㌻)
末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである(日蓮大聖人御書十大部講義五―二七四㌻)
「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる中傷非難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の大信心に厳然とたつべきである(講座教学研究ニ―一二㌻)
大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです(会長講演集一〇―一九二㌻)
戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる(会長講演集八―一六七㌻)
日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである(御義口伝講義上九四㌻)
御本尊書写の権能は御法主上人にある
日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る三―二五六㌻)