霊というと、すぐ幽霊とか悪霊などを想像し、霊媒・心霊術などが頭に浮かんできますが、はたして霊は存在するのか、また死後の生命はいったいどうなるのか、私たちには興味のあるところです。
人が死んだら肉体は滅びるが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するといった考え方から、幽霊やたたりなどが恐怖の対象となり、一方では霊が神聖視され、信仰の対象とされてきました。
しかし生命というはかり知れない不可思議な現象は、仏法で説くところの三世にわたる永遠の生命観によってのみ、真に生命の実体を説き明かすことができるのであり、これをたんに唯心論と唯物論に分けたり、個体的存在としての霊魂説に基づいた考えでは、とうていその本質を正しくとらえることはできません。
仏教では三身常住(さんしんじょうじゅう)ということを説きます。三身とは法報応(ほっぽうおう)の三身のことで、これを仏についていえば、法身とは法界の真理の法そのものであり、報身とは因行を修して仏果を得たところの智慧であり、応身とは衆生の機に応じて出現する身をいいます。たとえ仏が入滅しても、真理の法や仏の智慧は当然のこと、衆生を救うという応身としての力用(はたらき)は常に存在しているのです。これと同様に私たちの生命も境遇の差はあっても、三身を備えており永遠に存在するものなのです。
すなわち私たちの死後の生命は大宇宙の生命とともに存在し、縁によってこの世に生じます。そしてその肉体は、過去世の業因をもとに、宇宙の物質をもって形成されています。一生が終り、死に至ったとき、その肉体は分解され、またもとの宇宙の物質へともどります。生命もまた大宇宙の生命と渾然一体となり、永遠に生死を繰り返すのです。
死後の生命についていえば、大宇宙の生命に冥伏した死後の生命は、過去世の業因によって十界のそれぞれの業を感じ、苦楽を得ていますが、とくにその苦しみや強い怨念、または過去の執着などは生きている人間に感応(かんのう)し、人によってまれには言葉が聞こえたり、物が見えるといった種々の作用を感ずるのです。普通はこれを霊魂のはたらきと考えているようですが、どこまでも感応によるものなのです。
この感応は、死後の生命だけでなく、生きている人からも故人に影響を与えます。そこで各寺院における塔婆供養などの追善(ついぜん)供養が行われるわけです。遺族の強い信心と御本尊の功力によって、亡くなった人の生命を成仏させることが追善供養の真の意義であり、それは感応妙の原理によるのです。
以上説明してきたことからも、通常いわれるような特別な霊魂や個体としての幽霊などは実際には存在しません。生といい死といっても一つの生命における変化にすぎないのです。
なお、正宗寺院の追善供養で、「誰それの霊」として回向を行いますが、この場合の霊も死者の霊魂をいうのではなく、死後の生命全体を指しているのです。その他、日蓮大聖人の御書中にも幽霊とか悪霊という言葉が使われていますが、これらは死者の生命を指しての言葉であり、また大聖人の心、生命を指して魂といわれている箇所もあります。
今日、私たちにとって、なによりも大切なことは、正法を信仰し善因を積みかさねていくことです。
これこそ永遠の幸福を築く最高の方法なのです。
利根、通力に頼ってはいけない
今日のように世の中が社会不安となったり、不況になってくると、霊媒師や占い師等の所に相談に行く人たちが多くなります。それは、世の中における先の見えない不安から救われたいとする人間の心理に他なりません。
また、その心につけこんで商売をしようする人たちも多く現われてきます。私たちはこれらの人師の手にのってはいけません。
大聖人様は、『唱法華題目抄』(しょうほっけだいもくしょう)に、
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか」(御書 二三三ページ)
また、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根(りこん)と通力とにはよるべからず」(同 二三三ページ)
と明確に仰せです。通力とは神通力のことで、超人的な能力をいい、利根とは、勝れた五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)を持つことをいいます。
ですから、超人的な能力を持っているから勝れた人であるとはいえません。
ましてや仏法の正邪ということについては、人よりも秀でた感覚や能力を持っているかどうかということで判断してはならないと仰せです。
たとえば、通力であれば、一般的に「烏」(からす)は吉凶を知り、「猫」や「梟」(ふくろう)は暗闇で物を見、「鼠」(ねずみ)は火事を予感し、「鯰」(なまず)は地震をあらかじめ知ると言われています。
通力だけを重んじるのであれば、ある意味ではこうした畜生たちの方がはるかに勝れています。
人師の通力を信ずる人は、あたかも暗闇に猫を伴い、火事に備えて鼠を飼い、地震を恐れて鯰を育てるような人というべきで、まことに愚かしい姿です。
つまり、大聖人様は、占いや呪いなどに頼ったりとらわれたりすることを誡められているのです。
それらはまさに多くの人を救うというよりは、むしろ人の弱みにつけ込んで、無知の人の心を惑わす魔の所為となるからです。
大聖人様は、『聖愚問答抄』に、
「仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず(中略)未だ仏法の是非を知らず、因果の道理をも弁へず(中略)『感応斯くの若きも猶理に称はず』とて、いまだ仏法をばしらず』(同 三九三㌻)
と仰せられ、霊媒師や占い師は未だ仏法の是非を知らず、因果の道理を弁(わきま)えない外道の邪師、悪師と
破折されています。
さらに、その邪師を信頼し、盲信する人に対しては、『星名五郎太郎殿御返事』に、
「若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。当に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶阿鼻の炎をまぬかれず(中略)是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし」(同 三六六㌻)
と仰せられ、霊媒等を信ずる人々は、外道を信じているようなもので、実に恐ろしいことであり、これらの邪師には決して近づいてはいけないと戒められています。
また、『大智度論』には、
「外道の語は始は妙なるに似たりと雖も窮め尽せば帰する所は即ち虚誑と為る」
と説かれています。
言葉巧みに人の心に取り入り、故人や先祖の霊、水子の霊だと言って、何も判らない人々の心につけ入ろうとする霊媒師等の外道の教えに誑(たぼら)かされてはいけません。
邪教は究め尽くせば帰するところは虚妄となり、誑惑となります。そして騙すほうも騙されるほうも、やがて謗法の現罰を被ることになってしまうのです。
しかし、真実の大法は究め修するほどに大功徳を生み、人間を磨き、人間を育て、人格を向上させていき、まさに歓喜と法楽に満ちた真実の幸せを築くことができるのです。
このことは、あたかも目連尊者が小乗の悟りで得た神通力では、餓鬼道に堕ちた母親を苦しめるばかりで救うことができず、結局、真実の法華経に至って南無妙法蓮華経と唱え、自分自身が多摩羅跋栴檀香仏という仏になって、その功徳により母親を成仏に導くことができたのと同じです。
これについて、大聖人様は、『盂蘭盆御書』に、
「目連が色身は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も 又仏になりぬ」
(御書 一三七六㌻)
と仰せです。
自ら正法を修する大事
つまり、末法今日における法華経とは、御本仏日蓮大聖人の御当体である、人法一箇の御本尊以外になく、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって亡き故人も、先祖も成仏できるのです。
本当に亡き故人のことが気がかりであるならば、霊媒師等によるのではなく、まさに南無妙法蓮華経の大法を信じ、故人や先祖の塔婆を建立して供養を怠りなく勤めていくことです。
草木成仏の深い原理に基づき、亡き精霊は、妙法蓮華経の功徳を受けて、必ず霊山浄土に安住することができるからです。
いずれにしても、末法万年の闇を救う大御本尊のもとに、まず自分自身が即身成仏の功徳を積むことが肝要であり、その功徳を故人や先祖に回向することが正しい在り方です。
御法生日如上人猊下は、
「この世の中の様々な混乱の原因について考えるとき、世界中の人達が正しい御本尊のもとに集うことが、すべての解決の道であります。そのときに一人ひとりが信心強盛に、まさに浄心に信敬し奉るということが信心の上では最も大切なことであります。『御義口伝』のなかには、浄心の浄について、 『浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり』(御書 一七七八㌻)
と仰せでありまして、謗法の念慮を断って御本尊様に帰依し奉る、まさに浄心信敬するところに大きな功徳があるのであります。そしてこの功徳をもって世界中が平和になっていくということがまことに大切なことであります。
つまり我々一人ひとりが御本尊様の功徳を説き、そして広宣流布のために折伏をしていくということに
つながるのであります」(大白法 七三一号)
と仰せです。
(大白法 平成二十三年四月十六日号)
人が死んだら肉体は滅びるが、目に見えない霊魂が肉体を抜け出してどこかに存在するといった考え方から、幽霊やたたりなどが恐怖の対象となり、一方では霊が神聖視され、信仰の対象とされてきました。
しかし生命というはかり知れない不可思議な現象は、仏法で説くところの三世にわたる永遠の生命観によってのみ、真に生命の実体を説き明かすことができるのであり、これをたんに唯心論と唯物論に分けたり、個体的存在としての霊魂説に基づいた考えでは、とうていその本質を正しくとらえることはできません。
仏教では三身常住(さんしんじょうじゅう)ということを説きます。三身とは法報応(ほっぽうおう)の三身のことで、これを仏についていえば、法身とは法界の真理の法そのものであり、報身とは因行を修して仏果を得たところの智慧であり、応身とは衆生の機に応じて出現する身をいいます。たとえ仏が入滅しても、真理の法や仏の智慧は当然のこと、衆生を救うという応身としての力用(はたらき)は常に存在しているのです。これと同様に私たちの生命も境遇の差はあっても、三身を備えており永遠に存在するものなのです。
すなわち私たちの死後の生命は大宇宙の生命とともに存在し、縁によってこの世に生じます。そしてその肉体は、過去世の業因をもとに、宇宙の物質をもって形成されています。一生が終り、死に至ったとき、その肉体は分解され、またもとの宇宙の物質へともどります。生命もまた大宇宙の生命と渾然一体となり、永遠に生死を繰り返すのです。
死後の生命についていえば、大宇宙の生命に冥伏した死後の生命は、過去世の業因によって十界のそれぞれの業を感じ、苦楽を得ていますが、とくにその苦しみや強い怨念、または過去の執着などは生きている人間に感応(かんのう)し、人によってまれには言葉が聞こえたり、物が見えるといった種々の作用を感ずるのです。普通はこれを霊魂のはたらきと考えているようですが、どこまでも感応によるものなのです。
この感応は、死後の生命だけでなく、生きている人からも故人に影響を与えます。そこで各寺院における塔婆供養などの追善(ついぜん)供養が行われるわけです。遺族の強い信心と御本尊の功力によって、亡くなった人の生命を成仏させることが追善供養の真の意義であり、それは感応妙の原理によるのです。
以上説明してきたことからも、通常いわれるような特別な霊魂や個体としての幽霊などは実際には存在しません。生といい死といっても一つの生命における変化にすぎないのです。
なお、正宗寺院の追善供養で、「誰それの霊」として回向を行いますが、この場合の霊も死者の霊魂をいうのではなく、死後の生命全体を指しているのです。その他、日蓮大聖人の御書中にも幽霊とか悪霊という言葉が使われていますが、これらは死者の生命を指しての言葉であり、また大聖人の心、生命を指して魂といわれている箇所もあります。
今日、私たちにとって、なによりも大切なことは、正法を信仰し善因を積みかさねていくことです。
これこそ永遠の幸福を築く最高の方法なのです。
利根、通力に頼ってはいけない
今日のように世の中が社会不安となったり、不況になってくると、霊媒師や占い師等の所に相談に行く人たちが多くなります。それは、世の中における先の見えない不安から救われたいとする人間の心理に他なりません。
また、その心につけこんで商売をしようする人たちも多く現われてきます。私たちはこれらの人師の手にのってはいけません。
大聖人様は、『唱法華題目抄』(しょうほっけだいもくしょう)に、
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか」(御書 二三三ページ)
また、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根(りこん)と通力とにはよるべからず」(同 二三三ページ)
と明確に仰せです。通力とは神通力のことで、超人的な能力をいい、利根とは、勝れた五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)を持つことをいいます。
ですから、超人的な能力を持っているから勝れた人であるとはいえません。
ましてや仏法の正邪ということについては、人よりも秀でた感覚や能力を持っているかどうかということで判断してはならないと仰せです。
たとえば、通力であれば、一般的に「烏」(からす)は吉凶を知り、「猫」や「梟」(ふくろう)は暗闇で物を見、「鼠」(ねずみ)は火事を予感し、「鯰」(なまず)は地震をあらかじめ知ると言われています。
通力だけを重んじるのであれば、ある意味ではこうした畜生たちの方がはるかに勝れています。
人師の通力を信ずる人は、あたかも暗闇に猫を伴い、火事に備えて鼠を飼い、地震を恐れて鯰を育てるような人というべきで、まことに愚かしい姿です。
つまり、大聖人様は、占いや呪いなどに頼ったりとらわれたりすることを誡められているのです。
それらはまさに多くの人を救うというよりは、むしろ人の弱みにつけ込んで、無知の人の心を惑わす魔の所為となるからです。
大聖人様は、『聖愚問答抄』に、
「仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず(中略)未だ仏法の是非を知らず、因果の道理をも弁へず(中略)『感応斯くの若きも猶理に称はず』とて、いまだ仏法をばしらず』(同 三九三㌻)
と仰せられ、霊媒師や占い師は未だ仏法の是非を知らず、因果の道理を弁(わきま)えない外道の邪師、悪師と
破折されています。
さらに、その邪師を信頼し、盲信する人に対しては、『星名五郎太郎殿御返事』に、
「若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。当に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶阿鼻の炎をまぬかれず(中略)是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし」(同 三六六㌻)
と仰せられ、霊媒等を信ずる人々は、外道を信じているようなもので、実に恐ろしいことであり、これらの邪師には決して近づいてはいけないと戒められています。
また、『大智度論』には、
「外道の語は始は妙なるに似たりと雖も窮め尽せば帰する所は即ち虚誑と為る」
と説かれています。
言葉巧みに人の心に取り入り、故人や先祖の霊、水子の霊だと言って、何も判らない人々の心につけ入ろうとする霊媒師等の外道の教えに誑(たぼら)かされてはいけません。
邪教は究め尽くせば帰するところは虚妄となり、誑惑となります。そして騙すほうも騙されるほうも、やがて謗法の現罰を被ることになってしまうのです。
しかし、真実の大法は究め修するほどに大功徳を生み、人間を磨き、人間を育て、人格を向上させていき、まさに歓喜と法楽に満ちた真実の幸せを築くことができるのです。
このことは、あたかも目連尊者が小乗の悟りで得た神通力では、餓鬼道に堕ちた母親を苦しめるばかりで救うことができず、結局、真実の法華経に至って南無妙法蓮華経と唱え、自分自身が多摩羅跋栴檀香仏という仏になって、その功徳により母親を成仏に導くことができたのと同じです。
これについて、大聖人様は、『盂蘭盆御書』に、
「目連が色身は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も 又仏になりぬ」
(御書 一三七六㌻)
と仰せです。
自ら正法を修する大事
つまり、末法今日における法華経とは、御本仏日蓮大聖人の御当体である、人法一箇の御本尊以外になく、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって亡き故人も、先祖も成仏できるのです。
本当に亡き故人のことが気がかりであるならば、霊媒師等によるのではなく、まさに南無妙法蓮華経の大法を信じ、故人や先祖の塔婆を建立して供養を怠りなく勤めていくことです。
草木成仏の深い原理に基づき、亡き精霊は、妙法蓮華経の功徳を受けて、必ず霊山浄土に安住することができるからです。
いずれにしても、末法万年の闇を救う大御本尊のもとに、まず自分自身が即身成仏の功徳を積むことが肝要であり、その功徳を故人や先祖に回向することが正しい在り方です。
御法生日如上人猊下は、
「この世の中の様々な混乱の原因について考えるとき、世界中の人達が正しい御本尊のもとに集うことが、すべての解決の道であります。そのときに一人ひとりが信心強盛に、まさに浄心に信敬し奉るということが信心の上では最も大切なことであります。『御義口伝』のなかには、浄心の浄について、 『浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり』(御書 一七七八㌻)
と仰せでありまして、謗法の念慮を断って御本尊様に帰依し奉る、まさに浄心信敬するところに大きな功徳があるのであります。そしてこの功徳をもって世界中が平和になっていくということがまことに大切なことであります。
つまり我々一人ひとりが御本尊様の功徳を説き、そして広宣流布のために折伏をしていくということに
つながるのであります」(大白法 七三一号)
と仰せです。
(大白法 平成二十三年四月十六日号)