釈尊は、一代経の究極である法華経に、
「正直に方便(ほうべん)を捨てて、但無上道(ただむじょうどう)を説く」(方便品第二・開結一二四)
と仰せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上の教えである法華経を最高唯一のものとして説かれました。そしてさらに、
「余経の一偈(いちげ)をも受けざる有らん」(譬喩品第三・開結一八三)
と戒めています。
末法においては御本仏日蓮大聖人が建立された南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因妙(もんていほんいんみょう)の法華経といって究極中の究極であり、すべての仏菩薩をはじめ全世界の民衆を根本から成仏させる無上最高の真実の法なのです。
したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教(ごんきょう)ともいいます。権とは〝かり〟の意で、権教とは実教(じっきょう)に対する言葉です。
(中略)
さらに日蓮大聖人は、
「『了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』
と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受(しんじゅ)すべき」(開目抄・御書五五八ページ)
と教えられています。了義経とは完全無欠な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典のことで、日蓮正宗以外の宗旨(しゅうし)、宗派はすべて不了義経に当たります。
どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何の経をよりどころとしているのか、教理が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見も設備も立派であるが、エンジンが故障している飛行機のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。
また、正しい教え以外の宗教を「覆相教」(ふそうきょう)といいます。これは真実の教えを覆いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除かなければならないのです。
ここを大聖人は、
「今の時は権教即実教の敵(かたき)と成る」(如説修行抄・御書六七二ページ)
と仰せられています。
人々を救おうとする仏の真実の教に敵対する不完全な宗教は、人間を生命の奥深いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法とも苦の因ともいうのです。
(中略)
釈尊は、
「但虚妄を離るるを名づけて解脱と為す」(譬喩品第三・開結一七三ページ)
と説いています。真実の幸福は、虚妄(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依することによって得られるのです。
(正しい宗教と信仰 三一八ページ)
宗教には正邪がある
「なぜ他の宗教を捨てなければならないのか」との疑問は、どこから生じるのでしょうか。
それは恐らく、「幸せや苦悩の解決は、どの宗教でも可能」
との考えから生まれると思われます。
しかし、それは間違いです。
なぜなら、幸せと言っても、何をもって幸せとするのか。苦悩を解決すると言っても、どのように解決するのか。宗教によって違いがあるからです。
そもそも「宗教」とは、天台大師が『法華玄義』に、
「仏の自行の因果を以て宗と為すなり」(法華経玄義本 上ー四九ページ)
と「宗」の意味を説かれ、同書に、
「教とは聖人、下(しも)に披(こうむ)らしむるの言なり」(同 五七ページ)
と教の意味を説かれるように、仏様が衆生救済のため、御自身の修行(因)と悟り(果)を「教え」として表され、衆生に与えたものです。
つまり先導者(神仏)が異なれば、進道も、到達点も違うのです。
例として日蓮正宗と浄土宗・浄土真宗を比較します。
宗教はどれも同じ、と考える人にとっては同じ仏教でしょうが、大聖人様を御本仏と仰ぐ日蓮正宗では、正しい修行により苦悩が解決され、凡夫の姿のまま、娑婆世界において、仏様と同じ境界に到達できることを教えます。
これに対して、阿弥陀仏に救いを求める浄土宗・浄土真宗は、娑婆世界を穢土(えど)と嫌い、現世の苦悩から逃避し、極楽浄土への往生を目的とします。
往生とは、浄土へ往って生まれることで、成仏することではありません。
いかなる苦悩にも立ち向かう大聖人様の仏法を信ずるなら、苦悩から逃避し、極楽に逃げ込むことを目的とする念仏を捨てるのは当然です。
例えて言えばせっかく良薬を手に入れたのに、良薬と一緒に毒を飲み続けるような人はいません。
ところが、「どれも同じ」「どれでもよし」は、両立しない良薬と毒を一緒に飲むようなものです。
選ぶ教えによって人生が違ってしまうのですから、真の幸せを得るためには、間違った宗教を捨てなければならないのです。
誤りを糾(ただ)してこそ正しい宗教
しかし今、多くの宗教が、世間に受け入れられるようと、カフェを設けたり、音楽界を開催したり、福祉等の社会貢献を主として活動していて、自らの教義を主張せず、また他の宗教の批判をしません。
宗教に対して、こうしたイメージを持ち、批判をしないことが正しい在り方だと考える人たちは、他の宗教を捨てることを求める日蓮正宗に違和感を覚えるのかも知れません。
「批判=争い」
と考える人は、間違った宗教を糾(ただ)す日蓮正宗が、争いを生む宗教のように感じるのかも知れません。
しかし、果たしてそうでしょうか。
末法の衆生は、貪瞋痴(とんじんち)の三毒強盛な命です。間違った宗教は、かえってこの三毒を盛んにします。
例えば、仏教では慢心を戒めます。
慢心とは、自身を高くし、他者を貶(おとし)める心です。残念なことに、人間や能力、容姿等で、他者を見下(みくだ)す人が多いのも事実です。
理性ではそれが間違いと判っても、改められないのが三毒強盛(ごうじょう)の末法の衆生です。
この命を増長させるのが、間違った宗教です。例を挙(あ)げれば、ヒンズー教などは、人を様々な階層に分け、差別を生んでいます。
多くの人は差別はいけないと理解しながら、間違った宗教が、その差別を正当化しているのです。
もし、そのような宗教の誤りを糾さずに、折り合おうとすれば、それは間違った思想を肯定することになります。
確かにその時は争いを生まないかも知れませんが、結局は、大きな不幸の種を遺(のこ)すことになるのは、今の世界の状況を見れば明らかです。
日蓮正宗が、他の誤った宗教を捨てることを求めるのは、日蓮大聖人が『開目抄』に、
「我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや。(中略)
日本の禅と念仏者とを見て、せいせざる者はかくのごとし。『慈無(じな)くして詐(いつわ)り親しむは、即ち是彼(これかれ)が怨(あだ)なり』等云云」
(同 五七七ページ)
と御指南のように、真の慈悲心から生まれた主張なのです。
(大白法 平成二十八年十二月十六日号)
「正直に方便(ほうべん)を捨てて、但無上道(ただむじょうどう)を説く」(方便品第二・開結一二四)
と仰せられるように、今まで説いてきた方便の教えを捨てて無上の教えである法華経を最高唯一のものとして説かれました。そしてさらに、
「余経の一偈(いちげ)をも受けざる有らん」(譬喩品第三・開結一八三)
と戒めています。
末法においては御本仏日蓮大聖人が建立された南無妙法蓮華経の仏法こそ文底本因妙(もんていほんいんみょう)の法華経といって究極中の究極であり、すべての仏菩薩をはじめ全世界の民衆を根本から成仏させる無上最高の真実の法なのです。
したがって真実の一法以外はすべて方便の教えであり、これを権教(ごんきょう)ともいいます。権とは〝かり〟の意で、権教とは実教(じっきょう)に対する言葉です。
(中略)
さらに日蓮大聖人は、
「『了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経(ふりょうぎきょう)に依らざれ』
と定めて、経の中にも了義・不了義経を糾明(きゅうめい)して信受(しんじゅ)すべき」(開目抄・御書五五八ページ)
と教えられています。了義経とは完全無欠な教えであり、不了義経とは不完全な教えの経典のことで、日蓮正宗以外の宗旨(しゅうし)、宗派はすべて不了義経に当たります。
どの宗教も一見もっともらしいことを説きますが、要するにうわべの言葉よりも何の経をよりどころとしているのか、教理が完全なものであるか、という点がもっとも大事なのです。一部分にありがたいことが説かれているからといっても、教理が不完全な宗教は、ちょうど外見も設備も立派であるが、エンジンが故障している飛行機のようなものです。このような飛行機に「良いところもあるのだから」といって、あなたは乗ることができるでしょうか。
また、正しい教え以外の宗教を「覆相教」(ふそうきょう)といいます。これは真実の教えを覆いかくす教えという意味で、不完全な宗教は正しい仏法を覆いかくし、迷わせる働きをするゆえにこれを除かなければならないのです。
ここを大聖人は、
「今の時は権教即実教の敵(かたき)と成る」(如説修行抄・御書六七二ページ)
と仰せられています。
人々を救おうとする仏の真実の教に敵対する不完全な宗教は、人間を生命の奥深いところから迷わせ苦しめるものですから、これを悪法とも苦の因ともいうのです。
(中略)
釈尊は、
「但虚妄を離るるを名づけて解脱と為す」(譬喩品第三・開結一七三ページ)
と説いています。真実の幸福は、虚妄(いつわり)の教えを捨てて正法に帰依することによって得られるのです。
(正しい宗教と信仰 三一八ページ)
宗教には正邪がある
「なぜ他の宗教を捨てなければならないのか」との疑問は、どこから生じるのでしょうか。
それは恐らく、「幸せや苦悩の解決は、どの宗教でも可能」
との考えから生まれると思われます。
しかし、それは間違いです。
なぜなら、幸せと言っても、何をもって幸せとするのか。苦悩を解決すると言っても、どのように解決するのか。宗教によって違いがあるからです。
そもそも「宗教」とは、天台大師が『法華玄義』に、
「仏の自行の因果を以て宗と為すなり」(法華経玄義本 上ー四九ページ)
と「宗」の意味を説かれ、同書に、
「教とは聖人、下(しも)に披(こうむ)らしむるの言なり」(同 五七ページ)
と教の意味を説かれるように、仏様が衆生救済のため、御自身の修行(因)と悟り(果)を「教え」として表され、衆生に与えたものです。
つまり先導者(神仏)が異なれば、進道も、到達点も違うのです。
例として日蓮正宗と浄土宗・浄土真宗を比較します。
宗教はどれも同じ、と考える人にとっては同じ仏教でしょうが、大聖人様を御本仏と仰ぐ日蓮正宗では、正しい修行により苦悩が解決され、凡夫の姿のまま、娑婆世界において、仏様と同じ境界に到達できることを教えます。
これに対して、阿弥陀仏に救いを求める浄土宗・浄土真宗は、娑婆世界を穢土(えど)と嫌い、現世の苦悩から逃避し、極楽浄土への往生を目的とします。
往生とは、浄土へ往って生まれることで、成仏することではありません。
いかなる苦悩にも立ち向かう大聖人様の仏法を信ずるなら、苦悩から逃避し、極楽に逃げ込むことを目的とする念仏を捨てるのは当然です。
例えて言えばせっかく良薬を手に入れたのに、良薬と一緒に毒を飲み続けるような人はいません。
ところが、「どれも同じ」「どれでもよし」は、両立しない良薬と毒を一緒に飲むようなものです。
選ぶ教えによって人生が違ってしまうのですから、真の幸せを得るためには、間違った宗教を捨てなければならないのです。
誤りを糾(ただ)してこそ正しい宗教
しかし今、多くの宗教が、世間に受け入れられるようと、カフェを設けたり、音楽界を開催したり、福祉等の社会貢献を主として活動していて、自らの教義を主張せず、また他の宗教の批判をしません。
宗教に対して、こうしたイメージを持ち、批判をしないことが正しい在り方だと考える人たちは、他の宗教を捨てることを求める日蓮正宗に違和感を覚えるのかも知れません。
「批判=争い」
と考える人は、間違った宗教を糾(ただ)す日蓮正宗が、争いを生む宗教のように感じるのかも知れません。
しかし、果たしてそうでしょうか。
末法の衆生は、貪瞋痴(とんじんち)の三毒強盛な命です。間違った宗教は、かえってこの三毒を盛んにします。
例えば、仏教では慢心を戒めます。
慢心とは、自身を高くし、他者を貶(おとし)める心です。残念なことに、人間や能力、容姿等で、他者を見下(みくだ)す人が多いのも事実です。
理性ではそれが間違いと判っても、改められないのが三毒強盛(ごうじょう)の末法の衆生です。
この命を増長させるのが、間違った宗教です。例を挙(あ)げれば、ヒンズー教などは、人を様々な階層に分け、差別を生んでいます。
多くの人は差別はいけないと理解しながら、間違った宗教が、その差別を正当化しているのです。
もし、そのような宗教の誤りを糾さずに、折り合おうとすれば、それは間違った思想を肯定することになります。
確かにその時は争いを生まないかも知れませんが、結局は、大きな不幸の種を遺(のこ)すことになるのは、今の世界の状況を見れば明らかです。
日蓮正宗が、他の誤った宗教を捨てることを求めるのは、日蓮大聖人が『開目抄』に、
「我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや。(中略)
日本の禅と念仏者とを見て、せいせざる者はかくのごとし。『慈無(じな)くして詐(いつわ)り親しむは、即ち是彼(これかれ)が怨(あだ)なり』等云云」
(同 五七七ページ)
と御指南のように、真の慈悲心から生まれた主張なのです。
(大白法 平成二十八年十二月十六日号)