人は皆生き方が違いますし、宗教に対する認識もそれぞれ異なります。なかには宗教の必要性をまったく認めない人もいれば、宗教をアヘンのように思っている人、宗教を低級なものと思っている人などさまざまです。
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異(きい)な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
しかし周囲の目といっても、宗教の正邪(せいじゃ)をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針も持っていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
また現代は宗教の時代といわれ、世間でも人生を充実させるために宗教の必要性を痛感している心ある人がふえているといわれています。
現代では信仰を持つことが恥ずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上しようという心ある行為といえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判しているわけではなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、
「百千合(あ)はせたる薬も口にのまざれば病も愈(い)えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐(ふところ)に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・御書110頁)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
他人の目を気にして至上(しじょう)の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
入信当初は、一時心ない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯を築くのだ」という、強い自覚と信念と誇りをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直して尊敬の眼差しを向けるようになるでしょう。
大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298頁)
と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。
どうか、とり越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。
奇異な目の原因は邪宗教にある
そもそも様々な宗教がある中で、正しい宗教とは、どのようなものでしょうか。
日顕上人は、
「正しい宗教とは、過去・現在・未来という三世にわたっての原因と結果、因縁、そしてそのなかにおける
幸せと不幸の筋道をことごとくきちんと説かれたところの教えであります。」(大白法 四三八号)
と御指南されています。
三世に亘(わた)る因縁果報を説き、正しい道理を持って人々を幸せに導いてこそ正しい宗教と言えるのです。
世間には、因果果報を弁えない誤った思想や価値観が多く広まっています。これらの理不尽な教えを基準に宗教全般を捉(とら)えて、「信仰をする人」=「不合理なものを信じる人」と思い込む人は少なくないでしょう。
宗教に奇異な目を向ける人の根底には、相手の幸せを思う温かい心があるのではなく、むしろ邪(よこしま)な宗教によって造影された宗教への負のイメージに対するものがあると言えます。
因果の道理を信じなければ幸せにはなれない
世の中には、社会や家庭の中で、身に覚えのない中傷や批判に晒さ(さら)され傷ついた経験を持つ人が大勢います。
あるいは突然の事故等で大切なものを失い、苦しむ人も数え切れません。
多くの人は、受け止め切れない苦しみから逃れるために、自分ではなく、他者(外界)に原因を求めます。
しかし、これらの苦悩も因果の道理に照らすとき、自身の過去の業(行い)が原因となって招いた苦果であることが明白となります。
因果の理法が明らかでも、信じることができない人がいます。
このことについて、前御法主日顕上人猊下は、
「我見に執われている故に正しい因果が説かれる法華経に対し怨(うら)みの心を生ずるのです」(大日蓮 五七七号)
と御指南されています。
偏(へん)理偏論の我見に執着を脱することはけっしてできません。我見に執着する人は、自分に原因があることを受け止めず、因果を否定するどころか、正しい信仰により善行を積もうとする人々へ怨みを向けてくるのです。
しかし、自身に原因があるからこそ、自らの正しい行いによって、幸せな未来を切り開くことができるのです。
また、何よりも今の自分の行いが将来の自分を作っていると受け止めることで、幸せへの道を開くのです。
(大白法 平成二十八年 七月十六日号)
今あなたは信仰の必要性を認識したものの、もし日蓮正宗の信仰をすれば、このような人々から奇異(きい)な目で見られはしないかと心配しているのでしょう。
しかし周囲の目といっても、宗教の正邪(せいじゃ)をわきまえない人々の宗教観は当を得たものではなく、無責任きわまりないものです。もしあなたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
欧米では「あなたはなにを信仰していますか」と聞かれた時に、「私は信仰を持っていません」と答えると、かえって周囲からなんの信念も、指針も持っていない人だと軽蔑され、奇異な目で見られるそうです。
また現代は宗教の時代といわれ、世間でも人生を充実させるために宗教の必要性を痛感している心ある人がふえているといわれています。
現代では信仰を持つことが恥ずかしいどころか、むしろ人生を深く考え、より向上しようという心ある行為といえるのです。「周囲の奇異な目」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判しているわけではなく、あなたの思いすごしの部分が多いのではないでしょうか。
日蓮大聖人は、
「百千合(あ)はせたる薬も口にのまざれば病も愈(い)えず。蔵に宝を持てども開く事を知らずしてかつへ、懐(ふところ)に薬を持ても飲まん事を知らずして死するが如し」(一念三千法門・御書110頁)
と仰せられ、せっかくの薬も宝も用いなければなんの役にも立たないように、正しい信仰をしなければ真の幸福は築かれないと教えられています。
他人の目を気にして至上(しじょう)の宝である正法の信仰を持たず無為に過ごすことは、あなたの人生にとって最大の損失になるのです。
入信当初は、一時心ない人から奇異な目で見られることがあるかもしれませんが、「真実の宗教を信仰して幸せな境涯を築くのだ」という、強い自覚と信念と誇りをもって信仰に励むならば、周囲の人もやがてはあなたを見直して尊敬の眼差しを向けるようになるでしょう。
大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298頁)
と、最高の教えを持つ人は、また最高にすばらしい人だと仰せられています。
どうか、とり越し苦労や弱気をふり払い、勇気をもって真実の門に入り、正々堂々と人生の大道を歩んで下さい。
奇異な目の原因は邪宗教にある
そもそも様々な宗教がある中で、正しい宗教とは、どのようなものでしょうか。
日顕上人は、
「正しい宗教とは、過去・現在・未来という三世にわたっての原因と結果、因縁、そしてそのなかにおける
幸せと不幸の筋道をことごとくきちんと説かれたところの教えであります。」(大白法 四三八号)
と御指南されています。
三世に亘(わた)る因縁果報を説き、正しい道理を持って人々を幸せに導いてこそ正しい宗教と言えるのです。
世間には、因果果報を弁えない誤った思想や価値観が多く広まっています。これらの理不尽な教えを基準に宗教全般を捉(とら)えて、「信仰をする人」=「不合理なものを信じる人」と思い込む人は少なくないでしょう。
宗教に奇異な目を向ける人の根底には、相手の幸せを思う温かい心があるのではなく、むしろ邪(よこしま)な宗教によって造影された宗教への負のイメージに対するものがあると言えます。
因果の道理を信じなければ幸せにはなれない
世の中には、社会や家庭の中で、身に覚えのない中傷や批判に晒さ(さら)され傷ついた経験を持つ人が大勢います。
あるいは突然の事故等で大切なものを失い、苦しむ人も数え切れません。
多くの人は、受け止め切れない苦しみから逃れるために、自分ではなく、他者(外界)に原因を求めます。
しかし、これらの苦悩も因果の道理に照らすとき、自身の過去の業(行い)が原因となって招いた苦果であることが明白となります。
因果の理法が明らかでも、信じることができない人がいます。
このことについて、前御法主日顕上人猊下は、
「我見に執われている故に正しい因果が説かれる法華経に対し怨(うら)みの心を生ずるのです」(大日蓮 五七七号)
と御指南されています。
偏(へん)理偏論の我見に執着を脱することはけっしてできません。我見に執着する人は、自分に原因があることを受け止めず、因果を否定するどころか、正しい信仰により善行を積もうとする人々へ怨みを向けてくるのです。
しかし、自身に原因があるからこそ、自らの正しい行いによって、幸せな未来を切り開くことができるのです。
また、何よりも今の自分の行いが将来の自分を作っていると受け止めることで、幸せへの道を開くのです。
(大白法 平成二十八年 七月十六日号)