まず「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。
一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。
さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過している人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。
こうしてみると、〝立派な人〟といっても一定の規準(きじゅん)があるわけではなく、他人を評価する時に主観的見地から用いる漠然とした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。
では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。
結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進(しゅぎょうしょうじん)することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨(れんま)し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと〝立派な人間〟が培(つち)かわれていくのです。
日蓮大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298頁)
と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。
ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意に叶う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。
大聖人は、賢人について、
「賢人は八風(はっぷう)と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとれ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(四条金吾殿御返事・御書1117頁)
と仰せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(楽)などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を体して仏道精進を志(こころざ)す以外にないと示唆(じさ)されています。
この八風に侵されない賢人こそ〝立派な人〟というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。
大聖人は、
「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さいお)いて三宝を供養し、後世菩提(ごせぼだい)をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」(新池御書・御書1457頁)
と戒(いまし)められています。
幸福となる人の振る舞い
たしかに世の中には、信仰をしていなくても立派な人はいるでしょう。
しかし
「信心をしていなくても立派な人がいるから、信仰する必要はない」
と考えるのは間違えです。
本文にあるように、真に立派な人とは
「八風に侵されない賢人」
であり、正しい信仰によって人格を向上させ、福徳を身に付け、自他共に成仏することをめざしている人です。
大聖人は『崇峻天皇御書』に、
「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。」(御書 一一七四頁)
と実際の振る舞い、実践の姿こそ、仏としての本懐も存すると仰せられています。
もちろんこの御教示は法華経の行者としての人の振る舞いを言いますが、私たちにも当てはめて考えることができるでしょう。
たとえば、世間的に立派と言われる人であっても、悩みや苦しみを抱え込んでいるものです。
それは家庭不和であったり、病気であったり、人間関係など様々です。
正しい信仰に基づいてこうした苦悩と真摯に(しんし)に向き合うことで乗り越えることができれば、一層、人格が磨かれ立派な人間になることができます。
したがって、立派な人になるためには、正しい信仰が必要であり、その功徳で一層、世のため人のために尽くせるのです。
仏と地獄は心に存在
世間的な人格者でも、仏法から人間の内面を洞察(どうさつ)すると、仏の心(智慧と慈悲の心)と地獄の心(苦悩と怒りの心)が共に具わっているのです。
「我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。」(同 一五五一頁)
と大聖人様は『十字御書』に仰せです。
立派な人であっても、何かの縁に触れて怒りの心が生じ、親を軽侮(けいぶ)したり疎(おろそ)かにしたりする場合があります。
時には、人に対して偏(かたよ)りのない優しい気持ちや慈悲の心が発揮される場合もあります。
このように、人の心には仏界も地獄界も存在するのです。
つまり信仰の目的は、世間から立派な人と言われる人も含めて、自らの心に仏界(仏の境界)を顕すことです。
この成仏をめざしてこそ、根本的な苦悩を解決し、八風に振り回されない真の人格者として、幸福を得ることができるのです。
命を浄化する
正しい信仰は私たちの命を浄化します。信仰とは、純真な心で正しい仏法僧の当体でる本門の本尊に帰依することです。
その功徳によって煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道が、そのまま法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じ、浄化するのですから、そこに人格も向上するのです。
大聖人は『立正安国論』に、
「何ぞ同じく信心の力を以て妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)を崇(あが)めんや」(同 二四九頁)
と同じく信心をするなら、けっして邪悪な宗教を信じてはいけないと仰せです。ここで大事なことは、正しい信心をするためには
正しい本尊に対する信仰が重要だということです。
ひとえに正しい本尊への信仰があればこそ、純真な信仰心が生ずるのです。
信仰の心は怒り、憎しみ、嫉(ねた)み、疑いといった悪い煩悩を浄化にします。
清浄な心になるからこそ、仏性(仏の本性)という力強い、清浄なる命が顕れてくるのです。
立派な人とは浄心信敬(じょうしんしんきょう)の人
御法主上人猊下は、
「浄心信敬の人とは、清浄な心で仏様を敬う人のことであります『御義口伝』には、
『浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり云々』(同 一七七八頁)
と仰せのように、法華経すなわち、今時末法におきましては本門寿量品文底秘沈の妙法蓮華経の大御本尊を受持信行して、固く謗法を断(た)ち、純真に信心に励む人のことであります」(大白法 九〇一号)
と御指南くださっています。
世間では、地位や功績、人間性等の側面を見て人格を評価します。
こうした世間的見方を否定するわけではありませんが、これらの言わば相対的な評価は因縁が変われば崩れてしまいます。
仏法における因縁とは、自分の持つ因が周りの様々な縁との関係の中で結果と報いが生まれるということです。
つまり評価の基準となる人格も含め、世の中のすべてのものは因縁によって変化したり消滅したりします。
これに対して仏法では、勝れた人格とは浄心信敬の信心による成仏の姿を指します。
成仏とは正しい本尊を信仰して得られる力強い清浄なる生命力を養(やしな)うことであり、それによって何ものにも左右されない真の人格を形成することです。すなわち浄心信敬の人こそ、真の人格者と言えるのです。
(大白法 平成二十七年 二月十六日号)
一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。
さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過している人々も〝立派な人〟といえるのではないでしょうか。
こうしてみると、〝立派な人〟といっても一定の規準(きじゅん)があるわけではなく、他人を評価する時に主観的見地から用いる漠然とした言葉にすぎないことがおわかりでしょう。
では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。
結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境涯に到達することを大目的として修行精進(しゅぎょうしょうじん)することであり、その仏道を修行することによって、ひとりひとりが人間性を開発し、錬磨(れんま)し、身に福徳を具えていきますので、その過程の中でおのずと〝立派な人間〟が培(つち)かわれていくのです。
日蓮大聖人は、
「されば持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・御書298頁)
と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。
ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意に叶う人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が備わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。
大聖人は、賢人について、
「賢人は八風(はっぷう)と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとれ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(四条金吾殿御返事・御書1117頁)
と仰せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(楽)などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち身心に強い信仰を体して仏道精進を志(こころざ)す以外にないと示唆(じさ)されています。
この八風に侵されない賢人こそ〝立派な人〟というべきではないでしょうか。そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法をもつべきなのです。
大聖人は、
「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さいお)いて三宝を供養し、後世菩提(ごせぼだい)をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」(新池御書・御書1457頁)
と戒(いまし)められています。
幸福となる人の振る舞い
たしかに世の中には、信仰をしていなくても立派な人はいるでしょう。
しかし
「信心をしていなくても立派な人がいるから、信仰する必要はない」
と考えるのは間違えです。
本文にあるように、真に立派な人とは
「八風に侵されない賢人」
であり、正しい信仰によって人格を向上させ、福徳を身に付け、自他共に成仏することをめざしている人です。
大聖人は『崇峻天皇御書』に、
「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。」(御書 一一七四頁)
と実際の振る舞い、実践の姿こそ、仏としての本懐も存すると仰せられています。
もちろんこの御教示は法華経の行者としての人の振る舞いを言いますが、私たちにも当てはめて考えることができるでしょう。
たとえば、世間的に立派と言われる人であっても、悩みや苦しみを抱え込んでいるものです。
それは家庭不和であったり、病気であったり、人間関係など様々です。
正しい信仰に基づいてこうした苦悩と真摯に(しんし)に向き合うことで乗り越えることができれば、一層、人格が磨かれ立派な人間になることができます。
したがって、立派な人になるためには、正しい信仰が必要であり、その功徳で一層、世のため人のために尽くせるのです。
仏と地獄は心に存在
世間的な人格者でも、仏法から人間の内面を洞察(どうさつ)すると、仏の心(智慧と慈悲の心)と地獄の心(苦悩と怒りの心)が共に具わっているのです。
「我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。」(同 一五五一頁)
と大聖人様は『十字御書』に仰せです。
立派な人であっても、何かの縁に触れて怒りの心が生じ、親を軽侮(けいぶ)したり疎(おろそ)かにしたりする場合があります。
時には、人に対して偏(かたよ)りのない優しい気持ちや慈悲の心が発揮される場合もあります。
このように、人の心には仏界も地獄界も存在するのです。
つまり信仰の目的は、世間から立派な人と言われる人も含めて、自らの心に仏界(仏の境界)を顕すことです。
この成仏をめざしてこそ、根本的な苦悩を解決し、八風に振り回されない真の人格者として、幸福を得ることができるのです。
命を浄化する
正しい信仰は私たちの命を浄化します。信仰とは、純真な心で正しい仏法僧の当体でる本門の本尊に帰依することです。
その功徳によって煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三道が、そのまま法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じ、浄化するのですから、そこに人格も向上するのです。
大聖人は『立正安国論』に、
「何ぞ同じく信心の力を以て妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)を崇(あが)めんや」(同 二四九頁)
と同じく信心をするなら、けっして邪悪な宗教を信じてはいけないと仰せです。ここで大事なことは、正しい信心をするためには
正しい本尊に対する信仰が重要だということです。
ひとえに正しい本尊への信仰があればこそ、純真な信仰心が生ずるのです。
信仰の心は怒り、憎しみ、嫉(ねた)み、疑いといった悪い煩悩を浄化にします。
清浄な心になるからこそ、仏性(仏の本性)という力強い、清浄なる命が顕れてくるのです。
立派な人とは浄心信敬(じょうしんしんきょう)の人
御法主上人猊下は、
「浄心信敬の人とは、清浄な心で仏様を敬う人のことであります『御義口伝』には、
『浄とは法華経の信心なり、不浄とは謗法なり云々』(同 一七七八頁)
と仰せのように、法華経すなわち、今時末法におきましては本門寿量品文底秘沈の妙法蓮華経の大御本尊を受持信行して、固く謗法を断(た)ち、純真に信心に励む人のことであります」(大白法 九〇一号)
と御指南くださっています。
世間では、地位や功績、人間性等の側面を見て人格を評価します。
こうした世間的見方を否定するわけではありませんが、これらの言わば相対的な評価は因縁が変われば崩れてしまいます。
仏法における因縁とは、自分の持つ因が周りの様々な縁との関係の中で結果と報いが生まれるということです。
つまり評価の基準となる人格も含め、世の中のすべてのものは因縁によって変化したり消滅したりします。
これに対して仏法では、勝れた人格とは浄心信敬の信心による成仏の姿を指します。
成仏とは正しい本尊を信仰して得られる力強い清浄なる生命力を養(やしな)うことであり、それによって何ものにも左右されない真の人格を形成することです。すなわち浄心信敬の人こそ、真の人格者と言えるのです。
(大白法 平成二十七年 二月十六日号)