人間は誰でもきゅうくつな思いをしたり、束縛(そくばく)されることを好みません。できることなら毎日の生活を、他人から干渉(かんしょう)されず、気がねすることなく、好き勝手に過ごしてみたいと思うでしょう。いい換(か)えれば、誰でも組織的な集団にくみ込まれて種々の制約を受けることをきらうのです。(中略)大きくいえば、社会全体が総合的な機構を持った組織体であり、この社会を国という単位で見れば、よりいっそう組織的な意味が強くなるといえましょう。
この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑(えんかつ)に運営するために、規則や法律が存在します。
これがさらにきめ細かい共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を尽(つ)くすとともに、その組織によって身を守り、生活の向上を計るなどの恩恵(おんけい)を受けるわけです。
このように私たちは生きている限り幾(いく)種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。(中略)たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会(どうそうかい)の組織では、私たち個人を規制(きせい)する度合いも当然違ってきます。
私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効をもたらすために組織が必要なのです。
もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業させたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。
それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価(ひょうか)しか下されないでしょう。
このことは信仰の道についても同様です。個人的な気休め程度の宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、
人間としての最高の境涯(きょうがい)である成仏を遂(と)げるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道に導き向上させる働きを善知識(ぜんちしき)といいます。
伝教大師(でんぎょうだいし)は、仏道修行を志す者の善知識として、
①教授(きょうじゅ)の善知識、
②同行(どうぎょう)の善知識、
③外護(げご)の善知識、
の三種を挙(あ)げています。
教授の善知識とは深遠な仏法を教え導いてくれる師範(しはん)や先輩を指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚や友人であり、第三の外護の善知識とは有形無形に私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。
これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果的に発揮するために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰を磨き、培(つちか)わなければならないのです。
心が弱く、自己本位の人は人間関係を忌みきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣に自己の向上と鍛錬(たんれん)を願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効に活(い)かすべきです。
折伏実践の為に
正しく信仰の道を歩むために
私たちは日蓮大聖人様の仏法に巡り合い、この仏法を素直に信仰していくことで、人生や社会の中で自ら打ち立てた志(こころざし)や願いを成就させ、さらに究極の目的である即身成仏の境界を得ることができるのです。
そのためには、本文に「善智識があって初めて、私たちは正しく信仰の道を歩むことができる」とある通り、善智識の働きが必要です。
一人として、他者の力を借りることなく、自分の努力だけで成長し妙法を護持することはできないからです。
また信仰を「個人的な利益を追求したり、自らの内面を充実させるためのもの」という認識に立つと、自ら善智識の働きを止めてしまいます。
私たちが求めるべき縁
善智識とは、善き友、真の友人の意で、仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導く者を言います。知識とは事物の認識や認知のことではなく、友人・知人や師匠等のことで、私たちに縁する者を意味します。
法華経『妙荘厳王本事品』には、
「若(も)し善男子、善女人、善根(ぜんこん)を植えたるが故に、世世(せせ)に善智識を得(う)。其の善智識は、能(よ)く仏事を作(な)し、示教利喜(じきょうりき)して、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に入(い)らしむ。
大王当(まさ)に知るべし。善智識は是れ大因縁なり。所謂(いわゆる)化導して、仏を見ることを得(う)、阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)さしむ」(法華経 五九二㌻)
と説かれています。天台大師は『摩訶止観』にこの文を釈して、
「善智識とは(中略)一に外護、二に同行、三に教授なり」(摩訶止観弘決会本 中ー一0四㌻)
と、本文にある三種の善智識を示しています。
一に、「外護の善知識」とは、仏道修行者を守護する人のことです。母の存在がさりげなく家庭の日常生活を支えるように、支部の中にあってもお互いが支え合って正法の弘通を助ける
ことです。
日蓮正宗の宗旨が厳然として七百六十余年伝えられているのも、御歴代上人のもとに先師先達が、僧俗異体同心して広宣流布を成し遂げようと折伏弘通に励んでこられたからにほかなりません。
また、人生の苦難などに直面したとき、手を差し伸べて、共に乗り越えてくれる外護の善智識となるのも講中組織と言えるでしょう。外護の善智識に感謝すると共に、私たち一人ひとりが、同じ時代の人々と未来広布のために、外護の善智識となることが大事ではないでしょうか。
二に、「同行の善智識」とは、励まし合い共に仏道修行に励んでくれる人、同じ法華講員として、同じ講中の一員として、同じ立場に立って共々に啓発していくよき法友のことです。
自分一人では、
「気が向いたときだけ」
「自分が納得することだけ従う」
などのわがまま、怠惰な信仰姿勢に陥(おちい)りがちです。
そういう自分を叱咤(しった)激励し、後押ししてくれるのも同志や組織です。
三に、「教授の善知識」は仏法の教えを正しく説き導いてくれる人、つまり大聖人様が弘通された文底下種仏法の一切の法義・法門を教えてくださる、日興上人をはじめとする代々の御法主上人猊下のことです。
さらに、各末寺の御住職・御主管は、御法主上人猊下に師弟相対し、名代(みょうだい)として赴任されています。大聖人様の仏法の化導・化法を正しく弘宣(ぐせん)し、教化育成されている御住職・御主管から、私たちは手をとって教わるのです。
最勝の善智識
天台大師は『法華文句』に、三種の善智識に加えて、成仏に導き入れてくれる「実際実相の善智識」を示しています。これについて日蓮大聖人様は、
「実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御書 一八三七㌻)
と仰せられ、大聖人様が弘通された法華経本門寿量品文底下種の南無妙法蓮華経であることを御教示です。
御法主日如上人猊下は、
「善智識とは、一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善智識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性を扣発(こうはつ)し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。
したがってまた、今時に訳して申せば、人法一箇の大御本尊を指しのであります」(大白法 八一0号)
と御指南されています。
末法における最勝の善智識とは、一切衆生を成仏に導いてくださる御本仏大聖人様であり、その御当体である本門に在(ましま)すのです。
本当の信心を育てよう
寺院における支部組織は、常に本門を信仰の根本として御法主上人猊下の御指南に随順してひ、一人ひとりの自行化他にわたる信心の育成を図ることを目的としています。
自分の心を師とするのではなく、正しい信仰に裏打ちされた自身を作り上げていくことが大切です。
善智識である講中の活動によって、本当の信心を育ててまいりましょう。
(大白法 第九五九号 平成二九年六月十六日)
この人間社会あるいは国家の組織を守り、かつ円滑(えんかつ)に運営するために、規則や法律が存在します。
これがさらにきめ細かい共同目的をもった組織体として、学校や会社、組合などがあります。その組織に属する人は、それぞれの役割をもち、目的のために力を尽(つ)くすとともに、その組織によって身を守り、生活の向上を計るなどの恩恵(おんけい)を受けるわけです。
このように私たちは生きている限り幾(いく)種類もの大小さまざまな組織の構成員となっているのです。(中略)たとえば現在自分の職業に直接関係する組織と、小学校時代の同窓会(どうそうかい)の組織では、私たち個人を規制(きせい)する度合いも当然違ってきます。
私たちは自分の人生に大きな影響を与えるものであればあるほど、方向を誤ることなく、より実効をもたらすために組織が必要なのです。
もし、ある学校で、生徒が登校するのも欠席するのも自由であり、校規校則もなく、成績にかかわらず全員を卒業させたら、ほんとうの学力を養うことができるでしょうか。
それこそこのような学校や生徒はいいかげんなものだという評価(ひょうか)しか下されないでしょう。
このことは信仰の道についても同様です。個人的な気休め程度の宗教やはっきりした目標のない教えならば、自分勝手でよいかもしれませんが、
人間としての最高の境涯(きょうがい)である成仏を遂(と)げるには組織の必要性を認識しなくてはなりません。仏教では人間を正道に導き向上させる働きを善知識(ぜんちしき)といいます。
伝教大師(でんぎょうだいし)は、仏道修行を志す者の善知識として、
①教授(きょうじゅ)の善知識、
②同行(どうぎょう)の善知識、
③外護(げご)の善知識、
の三種を挙(あ)げています。
教授の善知識とは深遠な仏法を教え導いてくれる師範(しはん)や先輩を指します。第二の同行の善知識とはたがいに励まし、助け合いながら信仰する同僚や友人であり、第三の外護の善知識とは有形無形に私たちの信仰を助け、協力してくれる人たちのことです。
これらの善知識があってはじめて私たちは正しく信仰の道を歩むことができます。またこの善知識の働きをより効果的に発揮するために作られたものが信仰上の組織なのです。したがって真の幸福を築くためには、善知識である信仰組織のなかで、人間性と信仰を磨き、培(つちか)わなければならないのです。
心が弱く、自己本位の人は人間関係を忌みきらって組織から遠ざかろうとするでしょうが、真剣に自己の向上と鍛錬(たんれん)を願う人は、人間関係や組織を修行の場として有効に活(い)かすべきです。
折伏実践の為に
正しく信仰の道を歩むために
私たちは日蓮大聖人様の仏法に巡り合い、この仏法を素直に信仰していくことで、人生や社会の中で自ら打ち立てた志(こころざし)や願いを成就させ、さらに究極の目的である即身成仏の境界を得ることができるのです。
そのためには、本文に「善智識があって初めて、私たちは正しく信仰の道を歩むことができる」とある通り、善智識の働きが必要です。
一人として、他者の力を借りることなく、自分の努力だけで成長し妙法を護持することはできないからです。
また信仰を「個人的な利益を追求したり、自らの内面を充実させるためのもの」という認識に立つと、自ら善智識の働きを止めてしまいます。
私たちが求めるべき縁
善智識とは、善き友、真の友人の意で、仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導く者を言います。知識とは事物の認識や認知のことではなく、友人・知人や師匠等のことで、私たちに縁する者を意味します。
法華経『妙荘厳王本事品』には、
「若(も)し善男子、善女人、善根(ぜんこん)を植えたるが故に、世世(せせ)に善智識を得(う)。其の善智識は、能(よ)く仏事を作(な)し、示教利喜(じきょうりき)して、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に入(い)らしむ。
大王当(まさ)に知るべし。善智識は是れ大因縁なり。所謂(いわゆる)化導して、仏を見ることを得(う)、阿耨多羅三藐三菩提の心を発(おこ)さしむ」(法華経 五九二㌻)
と説かれています。天台大師は『摩訶止観』にこの文を釈して、
「善智識とは(中略)一に外護、二に同行、三に教授なり」(摩訶止観弘決会本 中ー一0四㌻)
と、本文にある三種の善智識を示しています。
一に、「外護の善知識」とは、仏道修行者を守護する人のことです。母の存在がさりげなく家庭の日常生活を支えるように、支部の中にあってもお互いが支え合って正法の弘通を助ける
ことです。
日蓮正宗の宗旨が厳然として七百六十余年伝えられているのも、御歴代上人のもとに先師先達が、僧俗異体同心して広宣流布を成し遂げようと折伏弘通に励んでこられたからにほかなりません。
また、人生の苦難などに直面したとき、手を差し伸べて、共に乗り越えてくれる外護の善智識となるのも講中組織と言えるでしょう。外護の善智識に感謝すると共に、私たち一人ひとりが、同じ時代の人々と未来広布のために、外護の善智識となることが大事ではないでしょうか。
二に、「同行の善智識」とは、励まし合い共に仏道修行に励んでくれる人、同じ法華講員として、同じ講中の一員として、同じ立場に立って共々に啓発していくよき法友のことです。
自分一人では、
「気が向いたときだけ」
「自分が納得することだけ従う」
などのわがまま、怠惰な信仰姿勢に陥(おちい)りがちです。
そういう自分を叱咤(しった)激励し、後押ししてくれるのも同志や組織です。
三に、「教授の善知識」は仏法の教えを正しく説き導いてくれる人、つまり大聖人様が弘通された文底下種仏法の一切の法義・法門を教えてくださる、日興上人をはじめとする代々の御法主上人猊下のことです。
さらに、各末寺の御住職・御主管は、御法主上人猊下に師弟相対し、名代(みょうだい)として赴任されています。大聖人様の仏法の化導・化法を正しく弘宣(ぐせん)し、教化育成されている御住職・御主管から、私たちは手をとって教わるのです。
最勝の善智識
天台大師は『法華文句』に、三種の善智識に加えて、成仏に導き入れてくれる「実際実相の善智識」を示しています。これについて日蓮大聖人様は、
「実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり」(御書 一八三七㌻)
と仰せられ、大聖人様が弘通された法華経本門寿量品文底下種の南無妙法蓮華経であることを御教示です。
御法主日如上人猊下は、
「善智識とは、一般的には、教えを説いて仏道へと導いてくれる善い友人・指導者のことを指しますが、ここで善智識と仰せられているのは、末法御出現の御本仏、主師親三徳兼備の宗祖日蓮大聖人様のことであります。つまり、御本仏大聖人様が末法に御出現あそばされて一切衆生の三因仏性を扣発(こうはつ)し、凡夫即極の成仏を現ぜしめるが故であります。
したがってまた、今時に訳して申せば、人法一箇の大御本尊を指しのであります」(大白法 八一0号)
と御指南されています。
末法における最勝の善智識とは、一切衆生を成仏に導いてくださる御本仏大聖人様であり、その御当体である本門に在(ましま)すのです。
本当の信心を育てよう
寺院における支部組織は、常に本門を信仰の根本として御法主上人猊下の御指南に随順してひ、一人ひとりの自行化他にわたる信心の育成を図ることを目的としています。
自分の心を師とするのではなく、正しい信仰に裏打ちされた自身を作り上げていくことが大切です。
善智識である講中の活動によって、本当の信心を育ててまいりましょう。
(大白法 第九五九号 平成二九年六月十六日)