第一に教主(きょうしゅ)が宇宙(うちゅう)の真理(しんり)と人間の生命の実相(じっそう)を完璧に悟った方であること
第二に教義(きょうぎ)が因果(いんが)の道理(どうり)に基(もと)づいたもので、それが経典(きょうてん)として誤りなく表記(ひょうき)されていること
第三に本尊(ほんぞん)が全人類にとって尊崇(そんすう)に値するものであり、現実に即したものであること
第四に信仰修行の規範(きはん)が普遍的(ふへてき)で社会的(しゃかいてき)人道的通念(じんどうつうねん)に反しないものであること
第五に信仰によって得られる利益(りやく)が教説に適(かな)っており、表面的一時的なものでなく本質的(ほんしつてき)、永続的(えいぞくてき)な利益であること
などを挙げることができます。
第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達(かんたつ)し、適確(てきかく)に説き尽くした教えは仏教に勝(まさ)るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神(ぜったいしん)を説きましたが、彼らは神の啓示(けいじ)を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質(ほんしつ)に立脚(りっきゃく)したものでなく、戒律(かいりつ)によって表面的な言動(げんどう)を規制(きせい)し、奇跡(きせき)と空想(くうそう)を説いているにすぎません。その点仏教は教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)の因行(いんぎょう)と果徳(かとく)を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理(しんり)と人間生命の実相をあらゆる点から完璧(かんぺき)に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初(くおんがんじょ)というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体(とうたい)なりと悟られた自受用報身(じじゅゆうほうしん)という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法(まっぽう)に日蓮大聖人として出現されたのです。
第二の教義の正当性(せいとうせい)と経典については、釈尊の説いた仏典(ぶってん)は数多く現存(げんぞん)し、その内容もすべて道理に適(かな)ったものですが、その究極(きゅうきょく)が法華経です。この法華経の予言(よげん)通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命(いのち)におよぶ迫害(はくがい)のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道(しょぶつじょうどう)の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳(くどく)の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝(すぐ)れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大(ぼうだい)な量の御書を書き遺(のこ)されています。
第三の本尊については、本尊とは、〝根本として尊崇(そんすう)すべきもの〟の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値するものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷(いなり))、ヘビ(竜神(りゅじん))、ワニ(金毘羅(こんぴら))などの畜生(ちくしょう)を拝むものや、先祖供養(せんぞくよう)に名を借りて亡者(もうじゃ)の霊(れい)を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩(ぼさつ)や天上(てんじょう)の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊(さいじょうしそん)の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空(かくう)のものであったり、空想上(くうそうじょう)のものであっては、貴重(きちょう)な人生を托(たく)する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書六八五㌻)
と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳(だいくどく)の力をそのまま図顕(ずけん)遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札(かみふだ)や守(まもり)り札(ふだ)を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持(けんじ)しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日々、御本尊を信じ礼拝(らいはい)し唱題(しょうだい)することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
第五の信仰による利益については、大聖人が、
「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・御書八七四㌻)
と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
さらに大聖人は、
「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天(だいぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日月(にちがつ)・四天等昼夜(してんとうちゅうや)に守護(しゅご)すべし」(諌暁八幡抄・御書一五四三㌻) とも、
「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・御書一二九三㌻)
とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界(きょうがい)を築くことができるのです。
現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜(かんき)にみちて仏道修行に邁進(まいしん)しています。
日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。
折伏実践のために
「教主の悟り」について
私たち末法の衆生にとって、いかなる仏の、どのような教法によれば成仏ができるのか、また、どのような功徳を得られるのかはとても大切なことです。
本文にはそれを「正しい宗教としての条件」として、教主の悟り、教義の正当性、本尊、修行、利益という五つの観点を挙(あ)げ、述べています。
その中から、「教主の悟り」について言えば、まず、教主が人間や神であったり、六道の中にいる者であれば、その教えを信じても、自分の境涯を高められるはずがないのです。
さらに、善因善果・悪因悪果や、三世の生命を説かない教えは、今という一瞬にとらわれた狭い価値観でしかありません。
また、理証・文証・現証が揃わないのであれば、奇跡と空想の押しつけに他なりません。
仏教は仏道成就のための因果の道理が示されており、中でも日蓮大聖人の教えは、
「釈迦如来五百塵点劫(じんてんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」
(御書 一四一九㌻)
等の御教示があるように、根本の仏がいつ、いかなる法を悟ったかが説かれています。
本尊の大事
「本尊」は、本文にもあるように”根本として尊崇すべきもの”ですから、本文の例に挙げられるような畜生や亡者の霊、菩薩や天上界の神を本尊とすることはふさわしくありません。
日蓮正宗の御本尊は、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が出生の本懐として、御自身の根本の悟りそのものを顕わされた本門戒壇の大御本尊ですから、根本として尊崇に値する御本尊なのです。
現証こそ大事
私たちは凡夫ですから、身近にある些細(ささい)なことから、人生に関わる大きな問題まで、悩みや願いが尽きることはありません。
加えて、相次ぐ天変地妖(ちよう)、混迷を極める政治や経済など、混沌(こんとん)とした世相にあって、どうすれば安穏で盤石(ばんじゃく)な人生を築くことができるのでしょうか。
その唯一の方途こそ、人々が一日も早く謗法(ほうぼう)の念慮(ねんりょ)を断って、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊に帰依(きえ)することです。
御法主日如上人猊下は、
「宇宙法界の根源の法を内薫自悟せられた御本仏大聖人の教えを信じて実践することによって、我らもまた、既に仏が証得さられたと同じ智慧を持ち、『無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の大宝珠』つまり、絶対的な幸福境涯を得ることができる」(大白法 七八一号)
と御指南されています。
いかなる凡夫であれ、御本仏宗祖日蓮大聖人の本因下種の妙法を自から信受し、他の人にも勧めることによって「絶対的な幸福境涯」を築くことができます。
また、正法を信受し実践することにより、生来、自身が抱える様々な業による障りや苦しみも、必ず乗り越えることのできる大きな功徳が現実の身の上に顕れてくるのです。
その功徳・利益こそ日蓮正宗が最も正しい宗教である証左と言えるのです。
(大白法 第九六五号 平成二九年九月十六日)
第二に教義(きょうぎ)が因果(いんが)の道理(どうり)に基(もと)づいたもので、それが経典(きょうてん)として誤りなく表記(ひょうき)されていること
第三に本尊(ほんぞん)が全人類にとって尊崇(そんすう)に値するものであり、現実に即したものであること
第四に信仰修行の規範(きはん)が普遍的(ふへてき)で社会的(しゃかいてき)人道的通念(じんどうつうねん)に反しないものであること
第五に信仰によって得られる利益(りやく)が教説に適(かな)っており、表面的一時的なものでなく本質的(ほんしつてき)、永続的(えいぞくてき)な利益であること
などを挙げることができます。
第一の教主の悟りについていえば、数多い宗教のなかで、宇宙の実相と人間生命を深く観達(かんたつ)し、適確(てきかく)に説き尽くした教えは仏教に勝(まさ)るものはありません。キリスト教の教主イエスやイスラム教のマホメットなどは神の子とか神の使徒として絶対神(ぜったいしん)を説きましたが、彼らは神の啓示(けいじ)を受けたというだけで、過去に何を修行し、いかなる道理によって何を悟ったのかはまったく不明です。その教義内容も生命の本質(ほんしつ)に立脚(りっきゃく)したものでなく、戒律(かいりつ)によって表面的な言動(げんどう)を規制(きせい)し、奇跡(きせき)と空想(くうそう)を説いているにすぎません。その点仏教は教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)の因行(いんぎょう)と果徳(かとく)を明らかに教示し、五十年間の説法を通して宇宙の真理(しんり)と人間生命の実相をあらゆる点から完璧(かんぺき)に説き尽くしています。釈尊が成仏した根本の一法とは、久遠元初(くおんがんじょ)というこの世の最初の時代に、我身がそのまま大法界の真理の当体(とうたい)なりと悟られた自受用報身(じじゅゆうほうしん)という仏様の教えであり、この久遠元初の仏様が末法(まっぽう)に日蓮大聖人として出現されたのです。
第二の教義の正当性(せいとうせい)と経典については、釈尊の説いた仏典(ぶってん)は数多く現存(げんぞん)し、その内容もすべて道理に適(かな)ったものですが、その究極(きゅうきょく)が法華経です。この法華経の予言(よげん)通りに末法の御本仏として日蓮大聖人が出現され、一切衆生を救うために命(いのち)におよぶ迫害(はくがい)のなかで南無妙法蓮華経の七文字を説きました。この南無妙法蓮華経は諸仏成道(しょぶつじょうどう)の根本原因の仏法であり、教義の面からも、功徳(くどく)の面からも釈尊の法華経より、はるかに勝(すぐ)れたものです。大聖人はこの大仏法を広く人々に説き示すために厖大(ぼうだい)な量の御書を書き遺(のこ)されています。
第三の本尊については、本尊とは、〝根本として尊崇(そんすう)すべきもの〟の意味で、少なくとも人間として誰もが尊敬するに値するものでなければなりません。世の宗教のなかには、キツネ(稲荷(いなり))、ヘビ(竜神(りゅじん))、ワニ(金毘羅(こんぴら))などの畜生(ちくしょう)を拝むものや、先祖供養(せんぞくよう)に名を借りて亡者(もうじゃ)の霊(れい)を本尊とするもの、仏としての悟りを得ていない菩薩(ぼさつ)や天上(てんじょう)の神などを本尊とするものなどがありますが、これらは最上至尊(さいじょうしそん)の本尊ではないのです。またいかに立派な神や仏を立てても、それが架空(かくう)のものであったり、空想上(くうそうじょう)のものであっては、貴重(きちょう)な人生を托(たく)する本尊としてはきわめて頼りなく、危険なことというべきです。
久遠元初の仏である日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(経王殿御返事・御書六八五㌻)
と仰せられて、御身に備わる一切の悟りと大功徳(だいくどく)の力をそのまま図顕(ずけん)遊ばされた本門戒壇の大御本尊こそもっとも尊く勝れた御本尊なのです。
第四の信仰修行についていえば、宗教のなかには修行として、山にこもったり、断食をするもの、神札(かみふだ)や守(まもり)り札(ふだ)を貼っておけば修行は一切必要ないというものなどさまざまです。また戒律宗教などの教えを現実生活の中で堅持(けんじ)しようとすると、さまざまな支障をきたしたり、非常識な行為になることもあります。日蓮正宗の信仰は教条的に現実生活上の行動を規制するものではなく、日常生活の中で日々、御本尊を信じ礼拝(らいはい)し唱題(しょうだい)することが基本であり、誰でも支障なく信行に励むことができるのです。
第五の信仰による利益については、大聖人が、
「道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・御書八七四㌻)
と仰せられるように、現証は宗教を判定するうえでもっとも大切なことです。
さらに大聖人は、
「南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天(だいぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・日月(にちがつ)・四天等昼夜(してんとうちゅうや)に守護(しゅご)すべし」(諌暁八幡抄・御書一五四三㌻) とも、
「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・御書一二九三㌻)
とも仰せられています。すなわち、日蓮正宗の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、諸天善神に守護され、未来永劫にくずれることのない仏の境界(きょうがい)を築くことができるのです。
現在、日本国内のみならず全世界において、正宗信徒が飛躍的に増加し、歓喜(かんき)にみちて仏道修行に邁進(まいしん)しています。
日蓮正宗の仏法が世界でもっとも正しい宗教であることを、全世界の人々に理解される日もそう遠いことではないでしょう。
折伏実践のために
「教主の悟り」について
私たち末法の衆生にとって、いかなる仏の、どのような教法によれば成仏ができるのか、また、どのような功徳を得られるのかはとても大切なことです。
本文にはそれを「正しい宗教としての条件」として、教主の悟り、教義の正当性、本尊、修行、利益という五つの観点を挙(あ)げ、述べています。
その中から、「教主の悟り」について言えば、まず、教主が人間や神であったり、六道の中にいる者であれば、その教えを信じても、自分の境涯を高められるはずがないのです。
さらに、善因善果・悪因悪果や、三世の生命を説かない教えは、今という一瞬にとらわれた狭い価値観でしかありません。
また、理証・文証・現証が揃わないのであれば、奇跡と空想の押しつけに他なりません。
仏教は仏道成就のための因果の道理が示されており、中でも日蓮大聖人の教えは、
「釈迦如来五百塵点劫(じんてんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」
(御書 一四一九㌻)
等の御教示があるように、根本の仏がいつ、いかなる法を悟ったかが説かれています。
本尊の大事
「本尊」は、本文にもあるように”根本として尊崇すべきもの”ですから、本文の例に挙げられるような畜生や亡者の霊、菩薩や天上界の神を本尊とすることはふさわしくありません。
日蓮正宗の御本尊は、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が出生の本懐として、御自身の根本の悟りそのものを顕わされた本門戒壇の大御本尊ですから、根本として尊崇に値する御本尊なのです。
現証こそ大事
私たちは凡夫ですから、身近にある些細(ささい)なことから、人生に関わる大きな問題まで、悩みや願いが尽きることはありません。
加えて、相次ぐ天変地妖(ちよう)、混迷を極める政治や経済など、混沌(こんとん)とした世相にあって、どうすれば安穏で盤石(ばんじゃく)な人生を築くことができるのでしょうか。
その唯一の方途こそ、人々が一日も早く謗法(ほうぼう)の念慮(ねんりょ)を断って、三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊に帰依(きえ)することです。
御法主日如上人猊下は、
「宇宙法界の根源の法を内薫自悟せられた御本仏大聖人の教えを信じて実践することによって、我らもまた、既に仏が証得さられたと同じ智慧を持ち、『無上宝聚不求自得(むじょうほうじゅふぐじとく)の大宝珠』つまり、絶対的な幸福境涯を得ることができる」(大白法 七八一号)
と御指南されています。
いかなる凡夫であれ、御本仏宗祖日蓮大聖人の本因下種の妙法を自から信受し、他の人にも勧めることによって「絶対的な幸福境涯」を築くことができます。
また、正法を信受し実践することにより、生来、自身が抱える様々な業による障りや苦しみも、必ず乗り越えることのできる大きな功徳が現実の身の上に顕れてくるのです。
その功徳・利益こそ日蓮正宗が最も正しい宗教である証左と言えるのです。
(大白法 第九六五号 平成二九年九月十六日)