人それぞれに好みが違うように、宗教についてよく認識していない人の中には、日蓮正宗をこころよく思わない人もいるでしょう。
まして日蓮正宗は正邪のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。
しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を省みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻欠勤が多くなる、布教によって人間関係が損われる、などの点に対して心よく思わないようです。
日蓮大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・御書1220頁)
と仰せられ、法華経を持つ者は社会人としての勤めに対しても真剣に取り組まなければならないと戒められています。
この言葉どおり全国・全世界の正宗信徒は立派な社会人・家庭人として襟度をもって日夜努力しています。しかしもし正宗信徒を名乗りながら、信仰にかこつけて社会的に信用を落したり、世間から顰蹙(ひんしゅく)を買うような者がいたならば、実に残念なことといわなければなりません。
またこのようなごく一部の姿をもって、正宗を正当に評価できない人も実に不幸なことというべきです。
広い世間のことですから、ごくまれな例としては、それぞれの家風や会社の方針として正宗の信仰を嫌うところもあるかもしれません。また反対に正宗の信仰者を優先的に歓迎するところもあるでしょう。
だからといって、そのつど、信仰をしたり、しなかったりすることは愚かなことですし、信仰の意義がわからない証拠でもあります。
正しい信仰とは人生の羅針盤のようなものです。もし船に羅針盤がなければ安全な航行はできませんし、目的地に着くこともできません。
もしあなたが現在結婚や就職という人生の岐路に立っているならば、もっとも大切なことは目先の結婚や就職はゴールではなく、スタートであるという心構えをもつことです。もし希望どおりの結婚や就職ができたとしても、そのあとの長い家庭生活や社会生活の中で、必ず起こるさまざまな問題や困難な壁を雄々しく克服し、着実に幸福に向かって前進するためにはその根本に正しい信仰がなければならないのです。見栄(みえ)や体裁(ていさい)ばかりを気遣い、信仰をすると周囲からどんな眼で見られるかと神経質になるよりも、自分の人生になにがもっとも大切かを考えるべきです。そして正しい信仰によって、厳しい苦難に負けない強い生命力と、賢明(けんめい)にして明朗(めいろう)な人格を養うことが真の幸福に到達する道であることを考えるべきでありましょう。
もっとも大切な人生の指針
私たちは社会に身を置く上で様々な縁に触れ、いろいろな人から影響を受けたりしながら日々の生活を送っています。
時には他人から好ましくない態度をとられて心が揺らいでしまうこともあるでしょう。
しかしながら無量義経に、
「其れ衆生有って、聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等(これら)は為(こ)れ大利を失えるなり」(法華経 三二ページ)
と説かれるように、周囲の目を心配するあまり、正しい仏法を聞かず求めずして、大利益を得る機会を失ってしまうのは、実に悲しむべきことでしょう。
確かに、就職や結婚は人生における大事なターニングポイントであり、自分に合った職業に就(つ)き、よき伴侶に巡り合うことは、誰もが心に願うことです。
しかし今の時代、結婚も就職も、一筋縄にはいかない場合が多いのではないでしょうか。
結婚にせよ就職にせよ、大切なことは、自身の確固たる信念と情熱、また周囲を明るくするような人徳が、本来、求められるものであることを忘れてはなりません。
すなわち、結婚や就職が成功するかどうかは、世間の人たちの先入観云々というよりも、その人の持つ生命力、徳の如何(いかん)によるところが大きいのです。
そして、このような人の心を打つ徳は、一朝一夕で得られるものではありません。
正しい教えとその実践修行によってころ、体得できるのです。
大聖人様は『十字御書』に
「法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし」(御書 一五五二ページ)
と仰せです。久遠元初(くおんがんじょ)の大法が説かれる法華経を信じ崇(あが)める人は、大いなる徳を身に顕(あら)わし、人々に愛せられ、必ずや幸せな境界を開くことができます。この正しい仏法の信行に励むことこそ、私たちが人生において最も大事とすべきではないでしょうか。
生活に顕れる正法の功徳
巷(ちまた)に目を向けると、「遠結びのスポット」、「恋愛運を引き寄せるお守り」などの祈願成就を謳(うた)い文句にしている神社や寺院の宣伝が各所に見られます。しかし、人生における重大な問題の解決を、得体の知れないお守りや神様、奇跡などに頼ることは全く的外れなことです。
「運を引き寄せる神様」や、「お守り」などの代物(しろもの)は、凡夫の都合を機に欲得を煽(あお)り立てる邪教であり、人々の向上心を妨げ生命力を弱らせ、不幸に陥(おとしい)れる原因となるだけです。
最近では「婚活」や「就活」と言う言葉をよく耳にします。「婚活」は、結婚相手を見つける積極的な活動を言い、「就活」(就職活動)をもじった造語です。
大切な人生を共にし、豊かな家庭を築くよき伴侶を得ること。理想の人生や社会貢献など、自分自身を成長させる職業に就くこと。結婚や就職は、人生において大きな意義を待つからこそ、積極的な「婚活」「就活」に際し、互いの人柄・人格(社風)が特に尊重されるのです。
さらには結婚や就職に限らず、人生の目標を達成できるか否かは、一つや二つの要因で決まるわけではありません。自らの揺るぎない決意と、正しい努力・精進のもと、様々な人たちの助力を得て、初めて成就することができるのです。しかし、その基盤となるのは、人格や人柄ということです。
では、どのようにしてこれを磨くのでしょう。本宗の本因下種(ほんにんげしゅ)の妙法の御本尊様にこそ、自らの人格を磨き、自他を幸福へと導く広大な功徳が存することを知るべきです。
『御講聞書』には、
「此の題目の五字、我等衆生の為には(中略)渇(かつ)せる時は水となり、飢(う)ゑたる時は食となり、裸(はだか)なる時は
衣となり、妻となり子となり眷属(けんぞく)となり家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給ふなり。」(同 一八三五ぺージ)
と説かれています。
世の中には様々な人があり、その環境や経験、抱える問題なども十人十色です。しかし、いかなる境遇にあっても、大聖人様の法を受持し、日々南無妙法蓮華経と唱えることを人生の基本とすれば、家庭での生活、職場での仕事などを問わず、あらゆる所に確かな御利益が顕れてきます。
すなわち、発心して仏道修行に励み、日々御祈念をしていくことで、自ずと御本仏の御仏智を戴き、数々の善業を積んでいくことができます。
そこにまた、外界からの様々な縁を正しく捉え、その助力を得て、最終的には大きな成果、所願の達成へと繋(つな)げていけるのです。また、同御書には、
「法華経の意は、煩悩即菩提・生死即涅槃と云へり。(中略)所詮日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得べきなり」(同ページ)
と御教示されています。
日蓮正宗の信仰を正しく実践していけば、現実の上に身心を練磨し、あらゆる迷い悟りへの開き、やがては自らの住処を寂光土へのかえていくことができるのです。
御本尊様を受持信行する功徳は、結婚や就職など、人生の大切な筋目のみならず、私たちの一生、乃至は三世に亘(わた)って幸福な境界を開いていくのです。
(大白法平成二十八年 十一月十六日号)
まして日蓮正宗は正邪のけじめをはっきりさせる教えであり、自らの信仰に励むだけではなく他の人に布教する宗教ですから、時には誤解をする人もいるようです。
しかしこのような人でも、よく聞いてみると、正宗の教義そのものや信仰すること自体をきらっているのではなく、信仰活動にかこつけて家庭を省みなくなったり、職場での仕事がおろそかになる、遅刻欠勤が多くなる、布教によって人間関係が損われる、などの点に対して心よく思わないようです。
日蓮大聖人は、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(檀越某御返事・御書1220頁)
と仰せられ、法華経を持つ者は社会人としての勤めに対しても真剣に取り組まなければならないと戒められています。
この言葉どおり全国・全世界の正宗信徒は立派な社会人・家庭人として襟度をもって日夜努力しています。しかしもし正宗信徒を名乗りながら、信仰にかこつけて社会的に信用を落したり、世間から顰蹙(ひんしゅく)を買うような者がいたならば、実に残念なことといわなければなりません。
またこのようなごく一部の姿をもって、正宗を正当に評価できない人も実に不幸なことというべきです。
広い世間のことですから、ごくまれな例としては、それぞれの家風や会社の方針として正宗の信仰を嫌うところもあるかもしれません。また反対に正宗の信仰者を優先的に歓迎するところもあるでしょう。
だからといって、そのつど、信仰をしたり、しなかったりすることは愚かなことですし、信仰の意義がわからない証拠でもあります。
正しい信仰とは人生の羅針盤のようなものです。もし船に羅針盤がなければ安全な航行はできませんし、目的地に着くこともできません。
もしあなたが現在結婚や就職という人生の岐路に立っているならば、もっとも大切なことは目先の結婚や就職はゴールではなく、スタートであるという心構えをもつことです。もし希望どおりの結婚や就職ができたとしても、そのあとの長い家庭生活や社会生活の中で、必ず起こるさまざまな問題や困難な壁を雄々しく克服し、着実に幸福に向かって前進するためにはその根本に正しい信仰がなければならないのです。見栄(みえ)や体裁(ていさい)ばかりを気遣い、信仰をすると周囲からどんな眼で見られるかと神経質になるよりも、自分の人生になにがもっとも大切かを考えるべきです。そして正しい信仰によって、厳しい苦難に負けない強い生命力と、賢明(けんめい)にして明朗(めいろう)な人格を養うことが真の幸福に到達する道であることを考えるべきでありましょう。
もっとも大切な人生の指針
私たちは社会に身を置く上で様々な縁に触れ、いろいろな人から影響を受けたりしながら日々の生活を送っています。
時には他人から好ましくない態度をとられて心が揺らいでしまうこともあるでしょう。
しかしながら無量義経に、
「其れ衆生有って、聞くことを得ざる者は、当に知るべし、是等(これら)は為(こ)れ大利を失えるなり」(法華経 三二ページ)
と説かれるように、周囲の目を心配するあまり、正しい仏法を聞かず求めずして、大利益を得る機会を失ってしまうのは、実に悲しむべきことでしょう。
確かに、就職や結婚は人生における大事なターニングポイントであり、自分に合った職業に就(つ)き、よき伴侶に巡り合うことは、誰もが心に願うことです。
しかし今の時代、結婚も就職も、一筋縄にはいかない場合が多いのではないでしょうか。
結婚にせよ就職にせよ、大切なことは、自身の確固たる信念と情熱、また周囲を明るくするような人徳が、本来、求められるものであることを忘れてはなりません。
すなわち、結婚や就職が成功するかどうかは、世間の人たちの先入観云々というよりも、その人の持つ生命力、徳の如何(いかん)によるところが大きいのです。
そして、このような人の心を打つ徳は、一朝一夕で得られるものではありません。
正しい教えとその実践修行によってころ、体得できるのです。
大聖人様は『十字御書』に
「法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし」(御書 一五五二ページ)
と仰せです。久遠元初(くおんがんじょ)の大法が説かれる法華経を信じ崇(あが)める人は、大いなる徳を身に顕(あら)わし、人々に愛せられ、必ずや幸せな境界を開くことができます。この正しい仏法の信行に励むことこそ、私たちが人生において最も大事とすべきではないでしょうか。
生活に顕れる正法の功徳
巷(ちまた)に目を向けると、「遠結びのスポット」、「恋愛運を引き寄せるお守り」などの祈願成就を謳(うた)い文句にしている神社や寺院の宣伝が各所に見られます。しかし、人生における重大な問題の解決を、得体の知れないお守りや神様、奇跡などに頼ることは全く的外れなことです。
「運を引き寄せる神様」や、「お守り」などの代物(しろもの)は、凡夫の都合を機に欲得を煽(あお)り立てる邪教であり、人々の向上心を妨げ生命力を弱らせ、不幸に陥(おとしい)れる原因となるだけです。
最近では「婚活」や「就活」と言う言葉をよく耳にします。「婚活」は、結婚相手を見つける積極的な活動を言い、「就活」(就職活動)をもじった造語です。
大切な人生を共にし、豊かな家庭を築くよき伴侶を得ること。理想の人生や社会貢献など、自分自身を成長させる職業に就くこと。結婚や就職は、人生において大きな意義を待つからこそ、積極的な「婚活」「就活」に際し、互いの人柄・人格(社風)が特に尊重されるのです。
さらには結婚や就職に限らず、人生の目標を達成できるか否かは、一つや二つの要因で決まるわけではありません。自らの揺るぎない決意と、正しい努力・精進のもと、様々な人たちの助力を得て、初めて成就することができるのです。しかし、その基盤となるのは、人格や人柄ということです。
では、どのようにしてこれを磨くのでしょう。本宗の本因下種(ほんにんげしゅ)の妙法の御本尊様にこそ、自らの人格を磨き、自他を幸福へと導く広大な功徳が存することを知るべきです。
『御講聞書』には、
「此の題目の五字、我等衆生の為には(中略)渇(かつ)せる時は水となり、飢(う)ゑたる時は食となり、裸(はだか)なる時は
衣となり、妻となり子となり眷属(けんぞく)となり家となり、無窮の応用を施して一切衆生を利益し給ふなり。」(同 一八三五ぺージ)
と説かれています。
世の中には様々な人があり、その環境や経験、抱える問題なども十人十色です。しかし、いかなる境遇にあっても、大聖人様の法を受持し、日々南無妙法蓮華経と唱えることを人生の基本とすれば、家庭での生活、職場での仕事などを問わず、あらゆる所に確かな御利益が顕れてきます。
すなわち、発心して仏道修行に励み、日々御祈念をしていくことで、自ずと御本仏の御仏智を戴き、数々の善業を積んでいくことができます。
そこにまた、外界からの様々な縁を正しく捉え、その助力を得て、最終的には大きな成果、所願の達成へと繋(つな)げていけるのです。また、同御書には、
「法華経の意は、煩悩即菩提・生死即涅槃と云へり。(中略)所詮日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処即寂光土と心得べきなり」(同ページ)
と御教示されています。
日蓮正宗の信仰を正しく実践していけば、現実の上に身心を練磨し、あらゆる迷い悟りへの開き、やがては自らの住処を寂光土へのかえていくことができるのです。
御本尊様を受持信行する功徳は、結婚や就職など、人生の大切な筋目のみならず、私たちの一生、乃至は三世に亘(わた)って幸福な境界を開いていくのです。
(大白法平成二十八年 十一月十六日号)