正法に縁する大事
世の中には数え切れないほど多くの宗教があります。その信仰の対象が、仏であり、神です。しかし、
日蓮大聖人が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四ページ)
と仰せのように、ほとんどの宗教において説かれる神仏は、間違った神仏であり、架空のものであって、本当に私たちが信仰の対象とすべきものではありません。ですから、「無神論ではなぜいけないのか」と思うこともあるでしょう。しかし、正法に縁しないで、直ちに無神論を唱えることは、あまりにも早計なことです。
大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、
「末代悪世には悪知識は大地微塵(みじん)よりもをほく、善知識は爪上(そうじょう)の土よりもすくなし」(同 八七三ページ)
と仰せです。私たちの周りは、邪義・邪法で満ちあふれています。したがって、出合うのは人々を迷わせようと巧みに用(はたら)く悪知識ばかりなのです。真の教えを求めて宗教のことを聞いても、また自分で考えても、なかなか真実に到達することができず、正しく宗教を理解できません。
しかし、私たちにとって最も大事なことは、正しい宗教を信じ、正しい御本尊を持つことです。それによって、幸福な境界を得ることができるのです。
同抄に、
「善知識に値(あ)ふ事が第一のかたき事なり」(同)
と仰せですから、神仏を否定する人々は、正法を求めても未だ巡り合っていないのか、もしくは、正しい教えに導いてくれようとした善知識に気づかずに拒否してしまったかも知れません。
無神論は迷いの法
神仏の存在を否定する無神論では、人間の心が中心になります。
しかし大聖人は、『顕謗法抄』に、
「衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか」(同 二八二ページ)
と仰せであり、さらに『法門申さるべき様の事』には、
「凡夫の私の計(はか)らひ是非につけてをそれあるべし」(同 四二八ページ)
と御教示されています。
迷いの凡夫である人の心を中心にすることは、真の幸福・成仏の道とはならず、かえって堕地獄の因となることを知らなくてはなりません。大聖人は、
「不信は一闡提謗法(いっせんだいほうぼう)の因」(同 一一一二ページ)
また、
「不信は堕獄の因なり」(同 一七三八ページ)
と御指南あそばされています。
人はそれぞれ「幸福でありたい」という願いを、必ず持って生活しています。しかし、人にはいくら幸福を求めても得られない場合があり、得ることができたと思っていても、いつか失うこともあるものです。こうした無常の法則を免(まぬか)れることはできません。
世の中の人々は、仏法という正しい道理があるにもかかわらず、それを知らずに苦悩に喘ぐばかりです。無神論者も同様なのです。こうした人々は、自己の力で、苦しみがどこからきているのか、現実を正しく捉えることなどできないのです。
やはり正しい信仰に基づいてこそ、その解決策を見出(みいだ)すことができます。
本文にある通り、仏法は因果の道理に基づいて、法界の真理を説かれたもので、この教えを信仰することにより四苦八苦と言われる困難を解決することができるのです。
殊に今時にあっては、末法の御本仏である日蓮大聖人が説き顕わされた「南無妙法蓮華経」の教えを信仰することによってのみ抜苦与楽(ばっくよらく)の功徳を享受(きょうじゅ)できることを知るべきです。
無神論者を救おう
無神論は、間違った神仏を否定するだけでなく、正しい宗教をも否定することになります。詰まるところ、「南無妙法蓮華経」という最高の教えを否定してしまうものであり、大聖人の説かれた正しい教えに背く謗法の邪宗教であることを知らねばなりません。
たとえ、正法を直(じか)に誹謗していないとしても、正法を信仰しないのですから謗法の害毒に蝕(むしば)まれることは疑いないことです。
御法主日如上人猊下は、
「謗法の害毒によって塗炭(とたん)の苦しみに喘(あえ)ぐ一人でも多くの人に、謗法の恐ろしさを教え、一切衆生救済の秘法たる末法の御本仏宗祖大聖人の仏法を下種折伏し、救っていかなければなりません。大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
『夫法華経の意は一切衆生皆(かい)成仏道の御経なり。然(しか)りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ。『若し人信ぜずして斯の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』とは是なり』(同 九〇五ページ)
と仰せであります。(中略)我々は、この御金言のままに、大御本尊様の広大無辺なる功徳を確信し、講中一結して一天四海本因妙広宣流布の戦いに臨んでいくとき、必ず誓願を達成することができると固く確信いたします」
(大白法 九二一号)
と御指南されています。
無神論の人も大聖人の正しい仏法に縁し、行じてこそ幸福になれるのです。こうした人々も、しっかりと折伏をして成仏の境界に導いてあげましょう。
(大白法 平成二十八年年三月十六日号)
世の中には数え切れないほど多くの宗教があります。その信仰の対象が、仏であり、神です。しかし、
日蓮大聖人が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四ページ)
と仰せのように、ほとんどの宗教において説かれる神仏は、間違った神仏であり、架空のものであって、本当に私たちが信仰の対象とすべきものではありません。ですから、「無神論ではなぜいけないのか」と思うこともあるでしょう。しかし、正法に縁しないで、直ちに無神論を唱えることは、あまりにも早計なことです。
大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、
「末代悪世には悪知識は大地微塵(みじん)よりもをほく、善知識は爪上(そうじょう)の土よりもすくなし」(同 八七三ページ)
と仰せです。私たちの周りは、邪義・邪法で満ちあふれています。したがって、出合うのは人々を迷わせようと巧みに用(はたら)く悪知識ばかりなのです。真の教えを求めて宗教のことを聞いても、また自分で考えても、なかなか真実に到達することができず、正しく宗教を理解できません。
しかし、私たちにとって最も大事なことは、正しい宗教を信じ、正しい御本尊を持つことです。それによって、幸福な境界を得ることができるのです。
同抄に、
「善知識に値(あ)ふ事が第一のかたき事なり」(同)
と仰せですから、神仏を否定する人々は、正法を求めても未だ巡り合っていないのか、もしくは、正しい教えに導いてくれようとした善知識に気づかずに拒否してしまったかも知れません。
無神論は迷いの法
神仏の存在を否定する無神論では、人間の心が中心になります。
しかし大聖人は、『顕謗法抄』に、
「衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか」(同 二八二ページ)
と仰せであり、さらに『法門申さるべき様の事』には、
「凡夫の私の計(はか)らひ是非につけてをそれあるべし」(同 四二八ページ)
と御教示されています。
迷いの凡夫である人の心を中心にすることは、真の幸福・成仏の道とはならず、かえって堕地獄の因となることを知らなくてはなりません。大聖人は、
「不信は一闡提謗法(いっせんだいほうぼう)の因」(同 一一一二ページ)
また、
「不信は堕獄の因なり」(同 一七三八ページ)
と御指南あそばされています。
人はそれぞれ「幸福でありたい」という願いを、必ず持って生活しています。しかし、人にはいくら幸福を求めても得られない場合があり、得ることができたと思っていても、いつか失うこともあるものです。こうした無常の法則を免(まぬか)れることはできません。
世の中の人々は、仏法という正しい道理があるにもかかわらず、それを知らずに苦悩に喘ぐばかりです。無神論者も同様なのです。こうした人々は、自己の力で、苦しみがどこからきているのか、現実を正しく捉えることなどできないのです。
やはり正しい信仰に基づいてこそ、その解決策を見出(みいだ)すことができます。
本文にある通り、仏法は因果の道理に基づいて、法界の真理を説かれたもので、この教えを信仰することにより四苦八苦と言われる困難を解決することができるのです。
殊に今時にあっては、末法の御本仏である日蓮大聖人が説き顕わされた「南無妙法蓮華経」の教えを信仰することによってのみ抜苦与楽(ばっくよらく)の功徳を享受(きょうじゅ)できることを知るべきです。
無神論者を救おう
無神論は、間違った神仏を否定するだけでなく、正しい宗教をも否定することになります。詰まるところ、「南無妙法蓮華経」という最高の教えを否定してしまうものであり、大聖人の説かれた正しい教えに背く謗法の邪宗教であることを知らねばなりません。
たとえ、正法を直(じか)に誹謗していないとしても、正法を信仰しないのですから謗法の害毒に蝕(むしば)まれることは疑いないことです。
御法主日如上人猊下は、
「謗法の害毒によって塗炭(とたん)の苦しみに喘(あえ)ぐ一人でも多くの人に、謗法の恐ろしさを教え、一切衆生救済の秘法たる末法の御本仏宗祖大聖人の仏法を下種折伏し、救っていかなければなりません。大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
『夫法華経の意は一切衆生皆(かい)成仏道の御経なり。然(しか)りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ。『若し人信ぜずして斯の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』とは是なり』(同 九〇五ページ)
と仰せであります。(中略)我々は、この御金言のままに、大御本尊様の広大無辺なる功徳を確信し、講中一結して一天四海本因妙広宣流布の戦いに臨んでいくとき、必ず誓願を達成することができると固く確信いたします」
(大白法 九二一号)
と御指南されています。
無神論の人も大聖人の正しい仏法に縁し、行じてこそ幸福になれるのです。こうした人々も、しっかりと折伏をして成仏の境界に導いてあげましょう。
(大白法 平成二十八年年三月十六日号)