あなたが心配される点には、次の二つのことが考えられます。
まず第一は、信仰のために時間が奪(うば)われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、
もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても
棚(たな)ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。
しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭なものではないからです。
私たちが仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにある
といえましょう。
しかしそこに築かれた幸せは、恒久的なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福になったとしても、それは表面的な一時の結果であり、前世の善因にもとづく果報ですから、その果報が尽きれば、その福徳もつきるからです。
したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果報は、今生の幸せはもとより、未来世(みらいせ)への福徳を無限に積んで、永遠に崩れない幸福となるのです。
大聖人の仏法に「世法即仏法」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会即仏法」ということになり
ましょうし、個人の立場から見るならば「信心即生活」ということになります。
この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。大聖人は、
「まことのみちは世間の事法(じほう)にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈(しゃく)せられて候」(白米一俵御書・御書一五四五ページ)
と仰せです。これは、現実社会のあらゆる現象(げんしょう)と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。
現実の社会は、「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。
ゆえに大聖人は、妙法(みょうほう)を受持(じゅじ)し、純真に信仰を貫(つらぬ)く人は、社会のあらゆる現象の実相(じっそう)を見極めていけることを、
「天晴(てんは)れぬれば地明らかなり、法華(ほっけ)を識(し)る者は世法を得(う)べきか」
(観心本尊抄・御書六八二ページ)
と教えられています。
「法華を識る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法の実相を見極める智慧を具えることであり、「世法を得可きか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分にその力を顕現し、充分に生かしきってゆくことができるという意味です。
ゆえに信仰と生活の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に生える草木ともいえます。
大地が肥沃(ひよく)であればあるほど、草木が大きく生長するように、正しい信仰を持つことによって、りっぱな見識と、洞察力(どうさつりょく)を備えることができるのです。
こうした原理を踏まえた信仰をするのですから、時間はより有効に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。
信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。
仕事は何のためにするのか
私たちは、自身の「仕事」に対して、どのような目的を求め、価値を見出しているのでしょうか。
「生活の糧(かて)を得るため」「自己実現のため」など、仕事に従事する目的観や価値観は多様です。
「仕事を通して、人間としての本性・人間らしさを深め、人格を陶冶(とうや)する。他者への感謝の念を持ち、社会へ広く貢献することなど、人生において「仕事」が担(にな)う意義は大きなものです。
ところで、仏法においては、「仕事」に従事する一番大事な目的についてどのように説かれているのでしょうか。
日蓮大聖人様は、『檀越某御返事』に、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』は此なり。」(御書 一二二〇ページ)
と仰せです。「御みやづかい」とは、会社勤めや職務のことです、つまり、自分の仕事を法華経の大切な修行だと捉えて精進していくことが大切です。そして、そこに社会の全ての営(いとな)みが、妙法蓮華経そのものとして活現(かつげん)していくことを御示しになっています。
この御金言について、御法主日如上人猊下は次のように御指南です。
「普段の生活の中でも、すべてにわたり妙法の一念をもって取り組んでいくということが極めて大切であります」(大白法 八六八号)
つまり、「正しい信仰」を持つことは、社会の一員として、妙法によって培(つちか)った人格・功徳をもって社会に貢献していくことなのです。
仏道の因果の道理を弁(わきま)え、よき因行を積み、よき結果を生み出そうと努力する人格は、真の仏法の実践によって培(つちか)われるものであり、またその功徳の現れです。正しい御本尊への信仰を中心とすることにより、溌剌(はつらつ)として清浄な生命を開きますから、仕事に従事する目的も明確となり、意欲も向上していくのです。
仕事は功徳を実証する場
世間には信仰と生活は別のものだと思っている人もいますが、正しい信仰を持つことで、人生の土台がしっかりと組まれ、家庭人としても社会人としても、揺るぎない幸福を築いていけることを知らなければなりません。
近年、よく「ハラスメント」(Harassment)という言葉を耳にします。いろいろな場面での「嫌がらせ、いじめ」を意味する言葉です。
家庭や学校、そして職場など様々な場面で、精神的・肉体的なハラスメントを受け、悩み・苦しむ人々の声が、後を絶ちません。
例えば職場で、「パワーハラスメント」(職場の権力を利用した嫌がらせ)により、将来のある若者が自殺をするまでに追い詰められるケースもあります。
このように極度に悪化した私たちの生命や、濁りきった社会の姿は、まさに末法における五濁悪世の様相を呈したものでしょう。御法主日如上人猊下は、
「『立正安国論』にお示しの如く(中略)謗法の害毒によって衆生の煩悩がますます強盛となり、それによって生命それ自体が濁ってくる(中略)この煩悩の最たるものは何かといえば、貪瞋癡(とんじんち)の三毒であります。貪とは貪(むさぼ)り、瞋とは瞋(いか)り、癡とは癡(おろ)か、ものの道理が解らない、仏法の道理が解からない、この貪瞋癡の三毒が主なものであります」(同 八七九号)
と、不幸の原因はすべて謗法の害毒によることを仰せられています。
また、個々の生命の濁りは、社会に及び、時代全体の濁りを生んでいくのです。だからこそ、私達一人一人の単位から、乱れ切った世の中を救済し得る唯一の正法、末法の御本仏日蓮大聖人の仏法に帰依し、信行の実践を興していくことが大事なのです。日蓮正宗の信仰で、「仕事がおろそかになることなどはけっしてありません。むしろ現実の生活や職場は、御本尊様の功徳を実証し、立正安国を築いていく場であることを知りましょう。
正しい信仰のもと歓喜ある人生を
仏教とは、単に正しい道理を説くだけでなく、現実の上で衆生の苦しみを解決していくものです。大聖人様が、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」
(御書 九九一ページ)
と仰せです。私たちは喜怒哀楽にまみれた日々の社会生活の中にあっても、正しい信仰を根本として物事を喜んでいくことで、何ものにも左右されない、御本仏の妙法境界を確立し、自他共に歓喜に満ちた人生を歩んでいける事を確信しましょう。
(大白法 平成二十九年一月十六日号)
まず第一は、信仰のために時間が奪(うば)われ、そのしわ寄せによって仕事がおろそかになるのではないか、ということと、
もう一つは、信仰することによって、努力をしなくても
棚(たな)ぼた式に幸運にめぐまれるものと信じて、仕事をおろそかにするのではないか、ということでしょう。
しかし日蓮正宗の信仰においては、こうした心配はまったく無用です。なぜなら日蓮大聖人の教えは、信仰だけしていれば、仕事をおろそかにしてもよいというような偏狭なものではないからです。
私たちが仕事に励む目的は、自身の生活をより豊かにして、精神的にも物質的にも安定した幸せを得ようとするところにある
といえましょう。
しかしそこに築かれた幸せは、恒久的なものとはいえません。なぜなら、たとえ仕事が成功して、経済的に裕福になったとしても、それは表面的な一時の結果であり、前世の善因にもとづく果報ですから、その果報が尽きれば、その福徳もつきるからです。
したがってその幸せを恒久的なものにするために、正しい信心が必要なのです。正しい信仰による果報は、今生の幸せはもとより、未来世(みらいせ)への福徳を無限に積んで、永遠に崩れない幸福となるのです。
大聖人の仏法に「世法即仏法」という原理があります。これを広く社会全体の立場から見れば、「社会即仏法」ということになり
ましょうし、個人の立場から見るならば「信心即生活」ということになります。
この原理は、仏法が私たちの現実の生活を離れてあるのではなく、むしろ生活そのもののなかにあるということを示したものなのです。大聖人は、
「まことのみちは世間の事法(じほう)にて候。(中略)やがて世間の法が仏法の全体と釈(しゃく)せられて候」(白米一俵御書・御書一五四五ページ)
と仰せです。これは、現実社会のあらゆる現象(げんしょう)と仏法は一体であり、私たちの生活のなかに仏法の真理があらわされていることを教えられているのです。
現実の社会は、「政治」や「経済」によって動いているといっても、それを動かす主体は人間にほかなりません。
ゆえに大聖人は、妙法(みょうほう)を受持(じゅじ)し、純真に信仰を貫(つらぬ)く人は、社会のあらゆる現象の実相(じっそう)を見極めていけることを、
「天晴(てんは)れぬれば地明らかなり、法華(ほっけ)を識(し)る者は世法を得(う)べきか」
(観心本尊抄・御書六八二ページ)
と教えられています。
「法華を識る」とは、正しい信仰によって、生命の永遠と、諸法の実相を見極める智慧を具えることであり、「世法を得可きか」とは、その智慧をもって仕事に励み、ひいては社会に対しても存分にその力を顕現し、充分に生かしきってゆくことができるという意味です。
ゆえに信仰と生活の関係は、信仰は大地のようなものであり、生活はその大地に生える草木ともいえます。
大地が肥沃(ひよく)であればあるほど、草木が大きく生長するように、正しい信仰を持つことによって、りっぱな見識と、洞察力(どうさつりょく)を備えることができるのです。
こうした原理を踏まえた信仰をするのですから、時間はより有効に使われ、仕事もいっそう充実していくのです。
信仰を持つことによって、仕事がおろそかになるようなことは、絶対ありえないことを知ってもらいたいと思います。
仕事は何のためにするのか
私たちは、自身の「仕事」に対して、どのような目的を求め、価値を見出しているのでしょうか。
「生活の糧(かて)を得るため」「自己実現のため」など、仕事に従事する目的観や価値観は多様です。
「仕事を通して、人間としての本性・人間らしさを深め、人格を陶冶(とうや)する。他者への感謝の念を持ち、社会へ広く貢献することなど、人生において「仕事」が担(にな)う意義は大きなものです。
ところで、仏法においては、「仕事」に従事する一番大事な目的についてどのように説かれているのでしょうか。
日蓮大聖人様は、『檀越某御返事』に、
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』は此なり。」(御書 一二二〇ページ)
と仰せです。「御みやづかい」とは、会社勤めや職務のことです、つまり、自分の仕事を法華経の大切な修行だと捉えて精進していくことが大切です。そして、そこに社会の全ての営(いとな)みが、妙法蓮華経そのものとして活現(かつげん)していくことを御示しになっています。
この御金言について、御法主日如上人猊下は次のように御指南です。
「普段の生活の中でも、すべてにわたり妙法の一念をもって取り組んでいくということが極めて大切であります」(大白法 八六八号)
つまり、「正しい信仰」を持つことは、社会の一員として、妙法によって培(つちか)った人格・功徳をもって社会に貢献していくことなのです。
仏道の因果の道理を弁(わきま)え、よき因行を積み、よき結果を生み出そうと努力する人格は、真の仏法の実践によって培(つちか)われるものであり、またその功徳の現れです。正しい御本尊への信仰を中心とすることにより、溌剌(はつらつ)として清浄な生命を開きますから、仕事に従事する目的も明確となり、意欲も向上していくのです。
仕事は功徳を実証する場
世間には信仰と生活は別のものだと思っている人もいますが、正しい信仰を持つことで、人生の土台がしっかりと組まれ、家庭人としても社会人としても、揺るぎない幸福を築いていけることを知らなければなりません。
近年、よく「ハラスメント」(Harassment)という言葉を耳にします。いろいろな場面での「嫌がらせ、いじめ」を意味する言葉です。
家庭や学校、そして職場など様々な場面で、精神的・肉体的なハラスメントを受け、悩み・苦しむ人々の声が、後を絶ちません。
例えば職場で、「パワーハラスメント」(職場の権力を利用した嫌がらせ)により、将来のある若者が自殺をするまでに追い詰められるケースもあります。
このように極度に悪化した私たちの生命や、濁りきった社会の姿は、まさに末法における五濁悪世の様相を呈したものでしょう。御法主日如上人猊下は、
「『立正安国論』にお示しの如く(中略)謗法の害毒によって衆生の煩悩がますます強盛となり、それによって生命それ自体が濁ってくる(中略)この煩悩の最たるものは何かといえば、貪瞋癡(とんじんち)の三毒であります。貪とは貪(むさぼ)り、瞋とは瞋(いか)り、癡とは癡(おろ)か、ものの道理が解らない、仏法の道理が解からない、この貪瞋癡の三毒が主なものであります」(同 八七九号)
と、不幸の原因はすべて謗法の害毒によることを仰せられています。
また、個々の生命の濁りは、社会に及び、時代全体の濁りを生んでいくのです。だからこそ、私達一人一人の単位から、乱れ切った世の中を救済し得る唯一の正法、末法の御本仏日蓮大聖人の仏法に帰依し、信行の実践を興していくことが大事なのです。日蓮正宗の信仰で、「仕事がおろそかになることなどはけっしてありません。むしろ現実の生活や職場は、御本尊様の功徳を実証し、立正安国を築いていく場であることを知りましょう。
正しい信仰のもと歓喜ある人生を
仏教とは、単に正しい道理を説くだけでなく、現実の上で衆生の苦しみを解決していくものです。大聖人様が、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」
(御書 九九一ページ)
と仰せです。私たちは喜怒哀楽にまみれた日々の社会生活の中にあっても、正しい信仰を根本として物事を喜んでいくことで、何ものにも左右されない、御本仏の妙法境界を確立し、自他共に歓喜に満ちた人生を歩んでいける事を確信しましょう。
(大白法 平成二十九年一月十六日号)