日蓮正宗の信仰には、細かい戒律などはありません。ただし、人間を不幸に陥(おとしいれ)れる邪宗教を信じることや、謗法(ほうぼう)に与同(よどう)することは固く禁じています。
次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間はだれでも一日二十四時間という枠(わく)の中に制約されて生活しているわけですし、一つの社会や組織に属すれば、それなりの規則があり、時間や行動の面で制約があるのは当然のことです。
まして正しい人生を歩み、将来にわたって崩れることのない幸福を築くための仏道修行、すなわち信心活動には相応の努力と時間が必要です。
日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕(きゅうじ)(仏壇の清掃、お水や樒(しきみ)などを供える)と読経(どきょう)唱題(しょうだい)の勤行(ごんぎょう)をしなければなりません。そして大聖人が、
「月々日々につより給へ」(聖人御難事・御書一三九七㌻)
と教えられているように、幸福の源(みなもと)である信心を清浄に持続するのみならず、さらに行学を錬磨(れんま)していかなければなりません。
そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣(さんけい)、勉強会や座談会への参加などによって、信心の向上(こうじょう)を計(はか)る必要があります。
これは、なんの修行も必要としない宗教に比べると、めんどうなことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、自ら読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心が育まれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であると言えるのです。
だからといって仕事や家庭が犠牲(ぎせい)になるというわけではありません。
その人その人の生活のリズムに合わせて持続すればよいのです。ここで大切なことは、”規則や教義によって制約されて窮屈(きゅうくつ)だ”と受けとめるか、あるいは”規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ”と受けとめるかということです。この違いは物事に対していかに積極的に取り組むかという姿勢によって生ずるものといえましょう。
正しい信仰は豊かな人間性と力強く生命力、そして深い智慧を培(つちか)うものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても的確な判断と積極的な姿勢を持つようになり、信仰活動も歓喜(かんき)の心をもって実践できるようになるのです。
「信仰すると遊べなくなるからいやだ」
というのは
「学校ではテレビやマンガを自由に見せてくれないから行きたくない」
と駄々(だだ)をこねている子供と同じ理屈です。
信仰している人でも、趣味を楽しみ、レジャーを楽しむことは、一般人となんら変わりません。ある人は
「今まで自分が職場と家庭のことで汲汲(きゅうきゅう)としていたのは、自分の生命力が衰(おとろ)えていたためであったと、信心を始めてから気づいた」
といいます。またある人は
「遊びや道楽(どうらく)も、信仰をするようになってから自然に不健康なものから健康的な、人生を向上させるものに変わった」
といい、ある人は
「今までは憂(う)さばらしのために遊びに逃避(とうひ)していたが、信心によって仕事に希望が生まれ、家庭が円満になった今
は、充実した気分で本当の意味の余暇(よか)を楽しむようになった」
ともいっています。
(中略)どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠々(ゆうゆう)がる境界を(きょうがい)を築き、職場と家庭と、そして余暇を楽しみ活かす人生を送ってください。
折伏実践のために
喜びのある日々のために
教義によって定められた掟(おきて)を守ることは、その教団の一員としての証(あかし)であり、大きな意味を持ちます。
しかしながら、生活上の細々(こまごま)とした事柄まで、狭小な掟をもって、制約したところで、私たちの人生を幸せにすることができるでしょうか。一例を挙げると、以前、宗教的制約によって、幼い子供への輸血を拒(こば)んだ両親がいました。これは児童虐待の一種である「医療ネグレクト」(保護者が児童に必要な治療を受けさせないこと)と判断され、即日審判により父母の親権が停止、この子供は助かったことがありました。
このように常軌(じょうき)を逸(いつ)した邪(よこしま)な宗教は、たとえ道徳・倫理に反する行為であっても、低劣な本尊と教義を拠(よ)り所に、不条理な制約を求めるのです。これでは、救いを求める人々に対して、人生の指針となるどころか、不幸のどん底に堕(お)とすことになります。日蓮大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(御書 二九八㌻)
と仰せあそばされています。一閻浮堤第一の御本尊を持(たも)つ人は、この尊い御本尊の広大無辺なる功徳力によって、必ず一閻浮堤第一の人となるのです。
日蓮正宗では、一生衆生を成仏に導く御本尊への朝夕の勤行・唱題を根本とし、慈悲の折伏を行じて自らの境界を高めるために精進します。これにより、妙法の信心の功徳を積み、歓喜と感謝に満ちた日々を過ごすことができるのです。
正しい信仰は、自分一人では得られません。日蓮正宗寺院への参詣を通して学び、実践することが大切です。
最大の楽しみとは
日蓮正宗では、細々とした戒律は特にありません。一言に「遊び」と言っても、詩歌・管弦や舞などの趣味を楽しんでみたり、遊戯(ゆうぎ)や娯楽に遊んだり、その内容は多岐にわたります。
時に私たちは、遊ぶことで日頃のストレスの解消や、安らぎ、充実感を得ることができます。これら適度なリフレッシュは有効ですが、たとえば酒色に耽(ひた)ったり、賭け事に没頭したり、遊び呆(ほう)けたりすることによって、身を持ち崩してしまうこともあります。法句喩経にこのような説話があります。
「昔、インドのある国に普安王という王様がいました。ある時、近隣であった四つの王様を招待し、約一ヵ月間もの間、晩餐会を開き、来る日も来る日ももてなしました。
一ヵ月後、普安王はそれぞれの王様に、
『人生に於ける喜びや、生き甲斐は何だとお考えですか』
と尋ねると、王様はそれぞれ
『とにかく遊ぶこと』、
『おいしい御馳走(ちそう)を囲んでの団欒(だんらん)の機会をもつこと』、
『お金や財産を集めて、気ままに生きること』、
『愛欲の限りを尽くし、楽しく生活すること』
と答えました。その時、普安王は
『一ヵ月間、あなた方の望みで満たされたはずです。その結果、今はどういうお気持ちですか』
と尋ねました。
そうすると四人の王様は全員、
『全く疲れました。もう何もいりません。お金も、音楽やお酒もすべて飽きてしまいました』
と答えました。
そこにあったのは、憂(うれ)い・苦悩・悲哀・倦怠感(けんたいかん)で、落ち込んだ姿でした。
そこで普安王は、
『一時の楽しさも、それを極めると、最後は今の皆さんのように倦怠や悲哀の気持ちに沈むのです。人生における最大の楽しみは、正しい道を求める、仏法を求めることなのです。仏法は、求めるほど味わい深く、その尊さが判ってくる』
と教えたのです。
と。つまり、人間は、五欲の赴(おもむ)くままに、快楽や地位や名誉を求めては、本当の幸せと喜びのある人生を掴(つか)むことはできないのです。
仏道に精進しよう
努力した人としない人の差は、初めは小さく見えますが、時間が経つと、その差は歴然(れきぜん)です。
御法主日如上人猊下は
「所詮、努力なくして人は大きくなれません。惰眠(だみん)を貪(むさぼ)っていたのでは、いくら経っても成長しないばかりか、人間性を劣化させ、後悔と無慚(むざん)な結果だけが残ることになってしまいます。火を消すには、それだけの努力をしなければならないということです。」(大日蓮 八四四号)
と御指南くださっています。
この「火」というのは、あなたや私の持っている罪障です。正しい信仰を根本として過ごすことでこれを解決し、大功徳を戴(いただ)き即身成仏の境界を人生の中に顕わすことができます。
桜花爛漫(おうからんまん)の好機にこういったことを大切な折伏をしている方々に伝え、歓喜を持って仏道修行に励みましょう。
(大白法 第九五三号 平成二十九年 三月十六日)
次に信仰活動による時間的な制約については、大きくいえば人間はだれでも一日二十四時間という枠(わく)の中に制約されて生活しているわけですし、一つの社会や組織に属すれば、それなりの規則があり、時間や行動の面で制約があるのは当然のことです。
まして正しい人生を歩み、将来にわたって崩れることのない幸福を築くための仏道修行、すなわち信心活動には相応の努力と時間が必要です。
日蓮正宗の信仰をする場合、少なくとも御本尊への朝夕のお給仕(きゅうじ)(仏壇の清掃、お水や樒(しきみ)などを供える)と読経(どきょう)唱題(しょうだい)の勤行(ごんぎょう)をしなければなりません。そして大聖人が、
「月々日々につより給へ」(聖人御難事・御書一三九七㌻)
と教えられているように、幸福の源(みなもと)である信心を清浄に持続するのみならず、さらに行学を錬磨(れんま)していかなければなりません。
そのためには家庭での勤行唱題とともに、寺院への参詣(さんけい)、勉強会や座談会への参加などによって、信心の向上(こうじょう)を計(はか)る必要があります。
これは、なんの修行も必要としない宗教に比べると、めんどうなことのように思われるかもしれませんが、現実的に考えると、自ら読経唱題し、行学を錬磨するからこそ、その人に本当の信仰心が育まれるわけですし、信心と行学の修行をともなうからこそ生きた真実の宗教であると言えるのです。
だからといって仕事や家庭が犠牲(ぎせい)になるというわけではありません。
その人その人の生活のリズムに合わせて持続すればよいのです。ここで大切なことは、”規則や教義によって制約されて窮屈(きゅうくつ)だ”と受けとめるか、あるいは”規則を守り教えによってこそ自分は正しく向上できるのだ”と受けとめるかということです。この違いは物事に対していかに積極的に取り組むかという姿勢によって生ずるものといえましょう。
正しい信仰は豊かな人間性と力強く生命力、そして深い智慧を培(つちか)うものでありますから、日蓮正宗を信仰する人はおのずと仕事や家庭に対しても的確な判断と積極的な姿勢を持つようになり、信仰活動も歓喜(かんき)の心をもって実践できるようになるのです。
「信仰すると遊べなくなるからいやだ」
というのは
「学校ではテレビやマンガを自由に見せてくれないから行きたくない」
と駄々(だだ)をこねている子供と同じ理屈です。
信仰している人でも、趣味を楽しみ、レジャーを楽しむことは、一般人となんら変わりません。ある人は
「今まで自分が職場と家庭のことで汲汲(きゅうきゅう)としていたのは、自分の生命力が衰(おとろ)えていたためであったと、信心を始めてから気づいた」
といいます。またある人は
「遊びや道楽(どうらく)も、信仰をするようになってから自然に不健康なものから健康的な、人生を向上させるものに変わった」
といい、ある人は
「今までは憂(う)さばらしのために遊びに逃避(とうひ)していたが、信心によって仕事に希望が生まれ、家庭が円満になった今
は、充実した気分で本当の意味の余暇(よか)を楽しむようになった」
ともいっています。
(中略)どうかあなたも日蓮正宗の信仰によって悠々(ゆうゆう)がる境界を(きょうがい)を築き、職場と家庭と、そして余暇を楽しみ活かす人生を送ってください。
折伏実践のために
喜びのある日々のために
教義によって定められた掟(おきて)を守ることは、その教団の一員としての証(あかし)であり、大きな意味を持ちます。
しかしながら、生活上の細々(こまごま)とした事柄まで、狭小な掟をもって、制約したところで、私たちの人生を幸せにすることができるでしょうか。一例を挙げると、以前、宗教的制約によって、幼い子供への輸血を拒(こば)んだ両親がいました。これは児童虐待の一種である「医療ネグレクト」(保護者が児童に必要な治療を受けさせないこと)と判断され、即日審判により父母の親権が停止、この子供は助かったことがありました。
このように常軌(じょうき)を逸(いつ)した邪(よこしま)な宗教は、たとえ道徳・倫理に反する行為であっても、低劣な本尊と教義を拠(よ)り所に、不条理な制約を求めるのです。これでは、救いを求める人々に対して、人生の指針となるどころか、不幸のどん底に堕(お)とすことになります。日蓮大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(御書 二九八㌻)
と仰せあそばされています。一閻浮堤第一の御本尊を持(たも)つ人は、この尊い御本尊の広大無辺なる功徳力によって、必ず一閻浮堤第一の人となるのです。
日蓮正宗では、一生衆生を成仏に導く御本尊への朝夕の勤行・唱題を根本とし、慈悲の折伏を行じて自らの境界を高めるために精進します。これにより、妙法の信心の功徳を積み、歓喜と感謝に満ちた日々を過ごすことができるのです。
正しい信仰は、自分一人では得られません。日蓮正宗寺院への参詣を通して学び、実践することが大切です。
最大の楽しみとは
日蓮正宗では、細々とした戒律は特にありません。一言に「遊び」と言っても、詩歌・管弦や舞などの趣味を楽しんでみたり、遊戯(ゆうぎ)や娯楽に遊んだり、その内容は多岐にわたります。
時に私たちは、遊ぶことで日頃のストレスの解消や、安らぎ、充実感を得ることができます。これら適度なリフレッシュは有効ですが、たとえば酒色に耽(ひた)ったり、賭け事に没頭したり、遊び呆(ほう)けたりすることによって、身を持ち崩してしまうこともあります。法句喩経にこのような説話があります。
「昔、インドのある国に普安王という王様がいました。ある時、近隣であった四つの王様を招待し、約一ヵ月間もの間、晩餐会を開き、来る日も来る日ももてなしました。
一ヵ月後、普安王はそれぞれの王様に、
『人生に於ける喜びや、生き甲斐は何だとお考えですか』
と尋ねると、王様はそれぞれ
『とにかく遊ぶこと』、
『おいしい御馳走(ちそう)を囲んでの団欒(だんらん)の機会をもつこと』、
『お金や財産を集めて、気ままに生きること』、
『愛欲の限りを尽くし、楽しく生活すること』
と答えました。その時、普安王は
『一ヵ月間、あなた方の望みで満たされたはずです。その結果、今はどういうお気持ちですか』
と尋ねました。
そうすると四人の王様は全員、
『全く疲れました。もう何もいりません。お金も、音楽やお酒もすべて飽きてしまいました』
と答えました。
そこにあったのは、憂(うれ)い・苦悩・悲哀・倦怠感(けんたいかん)で、落ち込んだ姿でした。
そこで普安王は、
『一時の楽しさも、それを極めると、最後は今の皆さんのように倦怠や悲哀の気持ちに沈むのです。人生における最大の楽しみは、正しい道を求める、仏法を求めることなのです。仏法は、求めるほど味わい深く、その尊さが判ってくる』
と教えたのです。
と。つまり、人間は、五欲の赴(おもむ)くままに、快楽や地位や名誉を求めては、本当の幸せと喜びのある人生を掴(つか)むことはできないのです。
仏道に精進しよう
努力した人としない人の差は、初めは小さく見えますが、時間が経つと、その差は歴然(れきぜん)です。
御法主日如上人猊下は
「所詮、努力なくして人は大きくなれません。惰眠(だみん)を貪(むさぼ)っていたのでは、いくら経っても成長しないばかりか、人間性を劣化させ、後悔と無慚(むざん)な結果だけが残ることになってしまいます。火を消すには、それだけの努力をしなければならないということです。」(大日蓮 八四四号)
と御指南くださっています。
この「火」というのは、あなたや私の持っている罪障です。正しい信仰を根本として過ごすことでこれを解決し、大功徳を戴(いただ)き即身成仏の境界を人生の中に顕わすことができます。
桜花爛漫(おうからんまん)の好機にこういったことを大切な折伏をしている方々に伝え、歓喜を持って仏道修行に励みましょう。
(大白法 第九五三号 平成二十九年 三月十六日)