あなたが神棚や神札をはずすことに抵抗(ていこう)を感じるのは、それらに神の力がこもっており、その力によって守られると考えていることによるのでしょうが、それはまったく逆なのです。
大聖人は、
「世皆正(よみなまさ)に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神(ぜんしん)国を捨てゝ相去(あいさ)り、聖人所(しょうにんところ)を辞(じ)して還(かえ)らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」
(立正安国論・御書234頁)
と仰せです。
諸天善神(しょてんぜんじん)は、妙法が広く流布することによってそれを法味(ほうみ)として威力(いりょく)を増し、民衆を守護する力をましていくのです。
ところが、白法隠没(びゃくほうおんもつ)の末法の世のなかにおいては、正法(しょうほう)を信仰する者が少なく、正法に背いている者が多いために、諸天善神は法味に飢えて、社(やしろ)を捨てて天上にのぼってしまっているのです。
したがって現在の神社には、悪鬼(あっき)・魔神(まじん)が棲みついて災難をひきおこすのです。
ですからあなたの家の神棚(かみだな)にも、神札(かみふだ)にも悪鬼が棲(す)みついていますので、拝まなくてもそれがあることによって、あなたの生命はもちろんのこと、生活にも悪影響を及ぼし、ひいては先祖をも苦しめることになるのです。
法華経には、
「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切(いっさい)世間の仏種(ぶっしゅ)を断ぜん。(中略)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん」(譬喩品第三・新編一七五)
と説かれています。
末法においては、「此の経」とは、法華経の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経のことです。
したがって日蓮正宗以外の宗派の本尊や、神社の神札などの信仰の対象ともなるものは、正法に背くものであり、人々を不幸に陥れる謗法(ほうぼう)の根源なのですから、神棚や神札は速やかに捨てることが肝要(かんよう)です。
神天上の法門について
一般的に、神札とは「神の璽(しるし)」と呼ばれる木や紙で出来た〝お札(ふだ)〟のことで、神棚に納めて信仰の対象とし、祈りを捧げることで神への感謝の念や願いが届くとされています。
神札の他に神社から付与されるものとして、「お守り」や「撤饌(おさがり)(神前に供えた供物を下げたもの)」などの品があり、神からの守護を求めたり、神が持つとされる力を分けてもらう意味があるようです。
仏典においては、三光天子(日天・月天・明星天)や梵天・帝釈天などの神を説いてはいても、それらを信仰の対象とはしません。諸天の神々について法華経『安楽行品』に、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而(しか)も之を衛護(えいご)し」(法華経 三九六㌻)
とあるように、唯一の正法たる法華経と、その行者を守護することが明かされており、あくまでも仏法が主、神が従の関係となります。
この上から、日蓮大聖人は『立正安国論』の中で金光明(こんこうみょう)経や大集(だいしつ)経等の文を引用され、人々が法華経の教えを省みず謗法が国土に充満すれば、衆生を守護するはずの神々は所を去ってしまい、かわりに悪鬼・魔神が乱入して災いが引き起こされると仰せられています。
諸経の文証、また理証・現証を依拠に、「神天上の法門」として御教示あそばされるところです。
現代人が神に求めるもの
今日、日本には数々の神社が乱立しているばかりでなく、厄除(やくよ)け・家内安全・商売繁盛・学業増進に始まり、宝くじが当たる、ダイエットが成功するなど、おねだりのご利益を謳(うた)う神が人々の欲求の赴(おもむ)くまま次々と作り出されています。そのような代物に守護の力や利益などありません。
この背景には、人々の
「神にすがり、楽をして利益を得たい」
「気休めや癒(いや)しが欲しい」
といった願望があると思われますが、自らの身心の鍛錬を怠(おこた)り、問題解決に向けた努力もしないで、いたずらに神の奇跡や運に任せて結果を得たいと願うなどは、因果を無視しており、都合がよすぎます。
正しい仏法の実践修行によってこそ、人生における様々な難題を力強く乗り越え、幸福な境界を開いていけることを心得るべきです。
感応道交の理について
日本には多種多様な神が祀(まつ)られており、山や海、火や水などの自然現象を神格化した「自然神」、屋敷・門・納屋・トイレ・竈(かまど)などに宿るとされる「生活神」、神話に基づく「神話神」、さらには歴史上の人物や死者を神とした「人物神」、「祖霊神」などが挙げられます。
これらの神を崇(あが)め、生活の一部としている人もいるかも知れませんが、信仰するということは、その対境となる本尊や神に自らの命を奉るという重大な意味がありますから、けっして軽率に行ってはなりません。
「朱に交われば赤くなる」という言葉もあるように、私たちはふだん触れ合う人々や事物に、知らず知らずのうちに強い影響を受けながら生活を送っています。まじめだった人が悪友に交わって悪事を働くようになったり、逆に悪人と呼ばれる人が善友の影響を受けて更正することもあります。
無意識のうちに他から受ける影響さえ多大なのですから、意識して自ら特定の神や本尊を信じ崇める影響は計り知れません。これを「感応道交(かんのうどうこう)の原理」と言います。
神話神や人物神の中には、横暴であったり、欲に振り回されたり、他を裏切ったりする神もあり、これらを日々拝んでいれば、そういった性質が自分の心や体の上にも必ず現われてくるのです。
大聖人様が『本尊問答抄』に、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(御書 一二七五㌻)
と説かれるように、本尊とは、
根本尊崇(そんすう)(一切の根本)
本来尊重(本然的に尊ぶべき当体)
本有尊形(ほんぬそんぎょう)(無始以来の尊い相貌(そうみょう))
の三義を具(そな)えます。
大聖人の御建立あそばされた本因下種(ほんいんげしゅ)の当体たる大御本尊こそ、私たちが帰依し奉るべき対境なのです。
日蓮正宗の信仰の姿勢は、神やお守りの力に頼るようなものとは異なり、その対境である御本尊の仏力・法力と、信仰者自らの持つ信力・行力が合して、初めて功徳が得られることを説きます。
四力成就で大功徳を
すなわち「信力」とは、大聖人が御図顕あそばされた御本尊の他に成仏の道はないと強く信ずる力、「行力」とは他の宗教や信仰を雑えずただ御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える力、「法力」とは三世諸仏の因果の功徳をすべて具えた根源の法体である妙法の大漫荼羅御本尊の功徳力用(りきゆう)、
「仏力」とは末法の御本仏日蓮大聖人に具わる大慈大悲の力用で、具体的にはすべての功徳を具足した妙法五字を一幅の御本尊として顕わし、末法の一切衆生を善導し救済されることを指します。
私たちの信力・行力と、人法一箇の御本尊の仏力・法力が成就してこそ、即身成仏の絶大なる功徳を得ることができるのです。
また、個人の利益に偏重(へんちょう)する今日の神道や他門仏教とは大きく異なり、日蓮正宗の信仰の功徳は個々の幸福境界を開くに止まらず、地域社会、世界全体に揺るぎない平和をもたらす力用があることを知るべきです。
御法主日如上人猊下は、
「不幸と混乱と苦悩を招いている邪義邪宗の謗法を対治して正善の妙法蓮華経を立つる時、初めて国中に並び起きるところの三災七難をはじめ様々な災難は消えうせ、積み重なる国家の危機も消滅して、安寧にして盤石なる仏国土が出現するのであります」(大白法 七五五号)
と御指南あそばされております。
謗法の蔓延する末法の今日において、神棚や神札は利益がないばかりではなく、大いなる災いをもたらすものです。-
根拠や実証のない神を崇拝し、その力などに頼ることは止め、実乗の一善たる日蓮大聖人の正法に帰依し、真の幸福と世界平和の実現をめざして精進していきましょう。
(大白法 第九五七号 平成二十九年五月十六日)
大聖人は、
「世皆正(よみなまさ)に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神(ぜんしん)国を捨てゝ相去(あいさ)り、聖人所(しょうにんところ)を辞(じ)して還(かえ)らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」
(立正安国論・御書234頁)
と仰せです。
諸天善神(しょてんぜんじん)は、妙法が広く流布することによってそれを法味(ほうみ)として威力(いりょく)を増し、民衆を守護する力をましていくのです。
ところが、白法隠没(びゃくほうおんもつ)の末法の世のなかにおいては、正法(しょうほう)を信仰する者が少なく、正法に背いている者が多いために、諸天善神は法味に飢えて、社(やしろ)を捨てて天上にのぼってしまっているのです。
したがって現在の神社には、悪鬼(あっき)・魔神(まじん)が棲みついて災難をひきおこすのです。
ですからあなたの家の神棚(かみだな)にも、神札(かみふだ)にも悪鬼が棲(す)みついていますので、拝まなくてもそれがあることによって、あなたの生命はもちろんのこと、生活にも悪影響を及ぼし、ひいては先祖をも苦しめることになるのです。
法華経には、
「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば則ち一切(いっさい)世間の仏種(ぶっしゅ)を断ぜん。(中略)其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入らん」(譬喩品第三・新編一七五)
と説かれています。
末法においては、「此の経」とは、法華経の文底に秘沈された三大秘法の南無妙法蓮華経のことです。
したがって日蓮正宗以外の宗派の本尊や、神社の神札などの信仰の対象ともなるものは、正法に背くものであり、人々を不幸に陥れる謗法(ほうぼう)の根源なのですから、神棚や神札は速やかに捨てることが肝要(かんよう)です。
神天上の法門について
一般的に、神札とは「神の璽(しるし)」と呼ばれる木や紙で出来た〝お札(ふだ)〟のことで、神棚に納めて信仰の対象とし、祈りを捧げることで神への感謝の念や願いが届くとされています。
神札の他に神社から付与されるものとして、「お守り」や「撤饌(おさがり)(神前に供えた供物を下げたもの)」などの品があり、神からの守護を求めたり、神が持つとされる力を分けてもらう意味があるようです。
仏典においては、三光天子(日天・月天・明星天)や梵天・帝釈天などの神を説いてはいても、それらを信仰の対象とはしません。諸天の神々について法華経『安楽行品』に、
「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而(しか)も之を衛護(えいご)し」(法華経 三九六㌻)
とあるように、唯一の正法たる法華経と、その行者を守護することが明かされており、あくまでも仏法が主、神が従の関係となります。
この上から、日蓮大聖人は『立正安国論』の中で金光明(こんこうみょう)経や大集(だいしつ)経等の文を引用され、人々が法華経の教えを省みず謗法が国土に充満すれば、衆生を守護するはずの神々は所を去ってしまい、かわりに悪鬼・魔神が乱入して災いが引き起こされると仰せられています。
諸経の文証、また理証・現証を依拠に、「神天上の法門」として御教示あそばされるところです。
現代人が神に求めるもの
今日、日本には数々の神社が乱立しているばかりでなく、厄除(やくよ)け・家内安全・商売繁盛・学業増進に始まり、宝くじが当たる、ダイエットが成功するなど、おねだりのご利益を謳(うた)う神が人々の欲求の赴(おもむ)くまま次々と作り出されています。そのような代物に守護の力や利益などありません。
この背景には、人々の
「神にすがり、楽をして利益を得たい」
「気休めや癒(いや)しが欲しい」
といった願望があると思われますが、自らの身心の鍛錬を怠(おこた)り、問題解決に向けた努力もしないで、いたずらに神の奇跡や運に任せて結果を得たいと願うなどは、因果を無視しており、都合がよすぎます。
正しい仏法の実践修行によってこそ、人生における様々な難題を力強く乗り越え、幸福な境界を開いていけることを心得るべきです。
感応道交の理について
日本には多種多様な神が祀(まつ)られており、山や海、火や水などの自然現象を神格化した「自然神」、屋敷・門・納屋・トイレ・竈(かまど)などに宿るとされる「生活神」、神話に基づく「神話神」、さらには歴史上の人物や死者を神とした「人物神」、「祖霊神」などが挙げられます。
これらの神を崇(あが)め、生活の一部としている人もいるかも知れませんが、信仰するということは、その対境となる本尊や神に自らの命を奉るという重大な意味がありますから、けっして軽率に行ってはなりません。
「朱に交われば赤くなる」という言葉もあるように、私たちはふだん触れ合う人々や事物に、知らず知らずのうちに強い影響を受けながら生活を送っています。まじめだった人が悪友に交わって悪事を働くようになったり、逆に悪人と呼ばれる人が善友の影響を受けて更正することもあります。
無意識のうちに他から受ける影響さえ多大なのですから、意識して自ら特定の神や本尊を信じ崇める影響は計り知れません。これを「感応道交(かんのうどうこう)の原理」と言います。
神話神や人物神の中には、横暴であったり、欲に振り回されたり、他を裏切ったりする神もあり、これらを日々拝んでいれば、そういった性質が自分の心や体の上にも必ず現われてくるのです。
大聖人様が『本尊問答抄』に、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(御書 一二七五㌻)
と説かれるように、本尊とは、
根本尊崇(そんすう)(一切の根本)
本来尊重(本然的に尊ぶべき当体)
本有尊形(ほんぬそんぎょう)(無始以来の尊い相貌(そうみょう))
の三義を具(そな)えます。
大聖人の御建立あそばされた本因下種(ほんいんげしゅ)の当体たる大御本尊こそ、私たちが帰依し奉るべき対境なのです。
日蓮正宗の信仰の姿勢は、神やお守りの力に頼るようなものとは異なり、その対境である御本尊の仏力・法力と、信仰者自らの持つ信力・行力が合して、初めて功徳が得られることを説きます。
四力成就で大功徳を
すなわち「信力」とは、大聖人が御図顕あそばされた御本尊の他に成仏の道はないと強く信ずる力、「行力」とは他の宗教や信仰を雑えずただ御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える力、「法力」とは三世諸仏の因果の功徳をすべて具えた根源の法体である妙法の大漫荼羅御本尊の功徳力用(りきゆう)、
「仏力」とは末法の御本仏日蓮大聖人に具わる大慈大悲の力用で、具体的にはすべての功徳を具足した妙法五字を一幅の御本尊として顕わし、末法の一切衆生を善導し救済されることを指します。
私たちの信力・行力と、人法一箇の御本尊の仏力・法力が成就してこそ、即身成仏の絶大なる功徳を得ることができるのです。
また、個人の利益に偏重(へんちょう)する今日の神道や他門仏教とは大きく異なり、日蓮正宗の信仰の功徳は個々の幸福境界を開くに止まらず、地域社会、世界全体に揺るぎない平和をもたらす力用があることを知るべきです。
御法主日如上人猊下は、
「不幸と混乱と苦悩を招いている邪義邪宗の謗法を対治して正善の妙法蓮華経を立つる時、初めて国中に並び起きるところの三災七難をはじめ様々な災難は消えうせ、積み重なる国家の危機も消滅して、安寧にして盤石なる仏国土が出現するのであります」(大白法 七五五号)
と御指南あそばされております。
謗法の蔓延する末法の今日において、神棚や神札は利益がないばかりではなく、大いなる災いをもたらすものです。-
根拠や実証のない神を崇拝し、その力などに頼ることは止め、実乗の一善たる日蓮大聖人の正法に帰依し、真の幸福と世界平和の実現をめざして精進していきましょう。
(大白法 第九五七号 平成二十九年五月十六日)