仏の教法に迷う諸宗派
今日、釈尊が一代五十年間にわたって説かれた経典を依りどころにし、自らの宗旨とする宗派が数多くあります。何故、このようにたくさんの宗派に分かれてしまったのかと言えば、各宗派の元祖たる指導者の誤りにあります。いわゆる各宗派の祖師たちが、釈尊の真実の教えが何であるかを理解できず、それぞれが思い思いの経典を選んで勝手に宗旨を立てたため、本尊や教義がすべて異なった宗教として分派したのです。
釈尊は法華経を説く前に無量義経を説かれ、これまでの四十二年間に説いてきた経々がことごとく方便教(仮の教え)であったことを示されています。
何故ならば、釈尊は、法界の真理と真実の成仏の道を説き明した甚深の法華経を、そのまま衆生に説いても、すべての衆生が信解できる状態でないことを知り、それぞれの衆生の能力に合わせ、その向上と融和を図るために四十余年の間方便の教えを説かれたからです。したがって、この四十余年間の経々には真理の一部分は説かれますが、法華経の悟りである真理の全体は説かれていません。
日蓮大聖人様が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四ページ)
と仰せのように、今もなお諸宗派が思い思いの本尊や法義を立てて迷う現状は、釈尊の説かれた教法において、方便と真実の筋道に迷い、これを無視して自らの見解に都合のよい教典に執着したところに根本的な誤りがあります。
ここに仏法の正邪に迷い、仏法を正しく判断できない理由が存するのです。
釈尊の本懐は法華経
釈尊は、法華経を説き始められるに当たり法華経『方便品』に、
「世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし」(法華経 九三ページ)
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同 一二四ページ)
等々と説かれて、法華経に至って一大真理の法門である十界互具、一念三千の法門を説き顕わされたのであり、釈尊が説かれた真実の法とは、ただ法華経の一経に極まるのです。
日蓮大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」(御書 九〇五ページ)
と示され、末法の衆生が仏に成るためには法華経による以外にないことを御教示されています。そしてさらに、『上野殿御返事』には、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(同 一二一九ページ)
と示され、法華経以前の諸経に、末法の衆生を救う力はなく、大聖人様が御示しくださった法華経本門『寿量品』の肝要である三大秘法の御本尊様、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経こそが、すべての人が救われる皆成仏道の教えなのです。
今末法は折伏の時
日蓮大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし」(同 四〇三ページ)
と仰せられ、末法という時代は非常に濁った世の中であり、人の心も僻み歪んで、権教である邪宗教の謗法が充満し、正しい仏法が弘まりにくいと仰せです。
確かに末法の今日、
「宗教はどれも同じだ。何を信じても構わない」
といった風潮が見られます。正しい仏法に背く邪宗教が世の中に氾濫しており、邪教とは知らずに信じている人たちが数多くいますが、それをそのままにしておくと、結局、不幸になってしまいます。
故に、こうした人たちに対して大聖人様は、同じく『聖愚問答抄』に、
「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同 四〇三ページ)
と、相手の誤った法門や間違った考え方等をしっかりと正すべきであると仰せです。
今私たちがなすべきことは、未だ正法に巡り合っていない人々に、大聖人様の正しい真実の教えを説き聞かせることです。そして「不幸になっていく原因が、間違った信仰、間違った教えにあること」をしっかりと教えることが必要です。
日蓮大聖人様は『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同 一三一六ページ)
と示されています。私たちは今、この御聖訓をしっかりと心に刻み、寸暇を惜しんで折伏に邁進することが大切です。
御法主日如上人猊下が、
「人が溺れているのを見て助けない人がいないように、我々も、知らず知らずのうちに誹謗正法の罪を犯してしまっている人たちを救っていかなければならないのです。それが我々法華講衆の務めなのです」(折伏要文 二九ページ)
と御指南あそばされています。
私たち僧俗一人ひとりが今なすべき使命を自覚し、大御本尊様への絶対の確信と慈悲心を持って勇猛果敢に折伏を実践し、一日も早くまた一人でも多くの人たちを救ってまいりましょう。
(大白法・平成23年11月16日号)
今日、釈尊が一代五十年間にわたって説かれた経典を依りどころにし、自らの宗旨とする宗派が数多くあります。何故、このようにたくさんの宗派に分かれてしまったのかと言えば、各宗派の元祖たる指導者の誤りにあります。いわゆる各宗派の祖師たちが、釈尊の真実の教えが何であるかを理解できず、それぞれが思い思いの経典を選んで勝手に宗旨を立てたため、本尊や教義がすべて異なった宗教として分派したのです。
釈尊は法華経を説く前に無量義経を説かれ、これまでの四十二年間に説いてきた経々がことごとく方便教(仮の教え)であったことを示されています。
何故ならば、釈尊は、法界の真理と真実の成仏の道を説き明した甚深の法華経を、そのまま衆生に説いても、すべての衆生が信解できる状態でないことを知り、それぞれの衆生の能力に合わせ、その向上と融和を図るために四十余年の間方便の教えを説かれたからです。したがって、この四十余年間の経々には真理の一部分は説かれますが、法華経の悟りである真理の全体は説かれていません。
日蓮大聖人様が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四ページ)
と仰せのように、今もなお諸宗派が思い思いの本尊や法義を立てて迷う現状は、釈尊の説かれた教法において、方便と真実の筋道に迷い、これを無視して自らの見解に都合のよい教典に執着したところに根本的な誤りがあります。
ここに仏法の正邪に迷い、仏法を正しく判断できない理由が存するのです。
釈尊の本懐は法華経
釈尊は、法華経を説き始められるに当たり法華経『方便品』に、
「世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし」(法華経 九三ページ)
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(同 一二四ページ)
等々と説かれて、法華経に至って一大真理の法門である十界互具、一念三千の法門を説き顕わされたのであり、釈尊が説かれた真実の法とは、ただ法華経の一経に極まるのです。
日蓮大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」(御書 九〇五ページ)
と示され、末法の衆生が仏に成るためには法華経による以外にないことを御教示されています。そしてさらに、『上野殿御返事』には、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(同 一二一九ページ)
と示され、法華経以前の諸経に、末法の衆生を救う力はなく、大聖人様が御示しくださった法華経本門『寿量品』の肝要である三大秘法の御本尊様、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経こそが、すべての人が救われる皆成仏道の教えなのです。
今末法は折伏の時
日蓮大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし」(同 四〇三ページ)
と仰せられ、末法という時代は非常に濁った世の中であり、人の心も僻み歪んで、権教である邪宗教の謗法が充満し、正しい仏法が弘まりにくいと仰せです。
確かに末法の今日、
「宗教はどれも同じだ。何を信じても構わない」
といった風潮が見られます。正しい仏法に背く邪宗教が世の中に氾濫しており、邪教とは知らずに信じている人たちが数多くいますが、それをそのままにしておくと、結局、不幸になってしまいます。
故に、こうした人たちに対して大聖人様は、同じく『聖愚問答抄』に、
「只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同 四〇三ページ)
と、相手の誤った法門や間違った考え方等をしっかりと正すべきであると仰せです。
今私たちがなすべきことは、未だ正法に巡り合っていない人々に、大聖人様の正しい真実の教えを説き聞かせることです。そして「不幸になっていく原因が、間違った信仰、間違った教えにあること」をしっかりと教えることが必要です。
日蓮大聖人様は『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同 一三一六ページ)
と示されています。私たちは今、この御聖訓をしっかりと心に刻み、寸暇を惜しんで折伏に邁進することが大切です。
御法主日如上人猊下が、
「人が溺れているのを見て助けない人がいないように、我々も、知らず知らずのうちに誹謗正法の罪を犯してしまっている人たちを救っていかなければならないのです。それが我々法華講衆の務めなのです」(折伏要文 二九ページ)
と御指南あそばされています。
私たち僧俗一人ひとりが今なすべき使命を自覚し、大御本尊様への絶対の確信と慈悲心を持って勇猛果敢に折伏を実践し、一日も早くまた一人でも多くの人たちを救ってまいりましょう。
(大白法・平成23年11月16日号)