末寺で行われる、毎月十三日のお講も、その根本精神は全く変りがありません。
まず、御本尊、日蓮大聖人、日興上人並びに日目上人等、歴代の法主上人にそれぞれ献膳申し上げ、懇ろに読経唱題した後、僧侶の説法があります。
そして、このお講を通してお互いに信行学を深め、御報恩の道である正法広布の大願達成を誓い合うのです。
ここで、報恩について考えてみましょう。
ややもすると、現在の自分があるのは、すべて自己の努力によるものであると思いがちではないでしょうか。
何事も、努力なくして向上するものではありませんが、自己の努力だけで成就できるものでもありません。
広く考えてみると、人生の出発は、まずこの身を生み育ててくれた父母の恩を受け、物事の知識や道理を教えてくれた、
多くの人々や書物からは、師匠の恩を受けています。そして、周囲のさまざまな協力や援助があって、はじめて自己の努力がみのっていくのです。しかも、その目的が高遠であればあるほど、周囲の多大の恩徳を受けることはいうまでもありません。
これら大小さまざまな恩徳を忘れずに正しくわきまえることを知恩といい、受けた恩徳に対して、積極的に応えることを報恩といいます。
大聖人は開目抄に、
「聖賢の二類は孝の家よりいでたり、何に況や仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子はかならず四恩を知って知恩報恩をいたすべし」
(平成新編御書 五三〇)
と仰せられ、世間で聖人賢人と称される人々の思想と行動は、親師匠などに対する孝養心が基点となっており、いわんや、成仏道という、
人間として最高究極の目的を目指して修行精進する仏弟子は、四恩を知って、知恩報恩の道を尽すことこそ肝要であることを説かれています。
ここにいう四恩とは、三宝の恩、国主の恩、衆生の恩をいいます。
四恩抄にも、
「仏法を習う身にはかならず四恩を報ずべきに候」(平成新編御書 二六七)
と仰せられており、この四恩とは、世間、出世間、すべての恩義を包容した言葉と考えるべきであります。
この中でも、三宝の恩が最も大切なのであります。
なぜならば三宝は、人間生命の奥底に作用する根源のものであり、すべてのものを成仏させる大慈大悲の当体だからであります。
この三宝への報恩について、
四恩抄には、
「仏の寿命、百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿 命を留め置きて我等に与え給ふ恩をば四大会の水を硯の水と
し一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず……然るに 末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
(平成新編御書 二六八)
と報恩の一念が、仏道修行においてもっとも大切なことを教えております。
それでは、私たち末法の衆生が、大恩を報ずべき三宝とは何かといいますと、
日寛上人は、
「正しく是れ末法出現の三宝如何。久遠元初の仏法豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大 聖人なり、久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり、
久遠元初の 僧宝とは、即ち是れ開山上人なり、」(当流行事抄、聖典九五〇頁)
と明らかに示されています。
まず仏宝である日蓮大聖人は、
「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(開目抄 平成新編御書 五七七)
と仰せられ、
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(種種御振舞御書、平成新編御書 一〇六五)
とも仰せられているように、末法の衆生の主人、師匠、父母の三徳をそなえられた御本仏であります。そのお振舞を拝すると、御生涯、衆生救済のため、大小の難をうけられ、後世のため厖大な御書を書き残され、弘安二年には一閻浮提総与の大御本尊を御図顕あそばされました。
これはひとえに、一切衆生を未来永劫にわたって救わんがための御本仏の大慈悲であります。
また、法宝の本門の大御本尊は、久遠の仏様が証得された名字の妙法蓮華経を、末代の私たち凡夫のために、三大秘法として建立あそばされたのであります。
この御本尊に向って、信の一念をもって南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、いかなる者もすべて直達正観し、即身成仏の大利益をうることができるのであります。
このような大恩は、香城に骨を催き、雪嶺に身を投じても報じ尽くすことはせきません。
僧宝とは、前に引用した四恩抄にあるように、たとえ仏法と法宝があっても、これを学び伝えていく方がなくては永く衆生を利益してゆくことができません。
日興上人は、大聖人への永年にわたる常隨給仕の間に、下種仏法の深奥を正しく体得せられ、御入滅に際してはそのすべてを,「血脈の次第日蓮日興」と付嘱されたのであります。
大聖人の滅後は、他の五老が異議を唱える中に一人正義を宣揚し、立義をいささかも曲げず、正法正義のため、身延を離山し、大石寺を創建して、本門戒壇建立への基礎を定められたのであります。
また、日目上人の四十二度に及ぶ国諌、歴代法主上人の心労は、そのすべてが令法久住のためであり、
三大秘法の広宣流布により、末代の人々を成仏せしめんがためであります。
このように三宝の恩徳は、どのように報じても報じ尽せないほど鴻大であります。したがって、
御書に、
「然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」 (平成新編御書 二六八)
とお示しのように、この広大無辺な大恩を忘れては到底成仏はできないのであります。
「華厳経に云く『恩を知らざる者は多く横死に遭う』等云々、観仏相海経に云く『是れ阿 鼻の因なり』等云々」
(四条金吾釈迦仏供養事 平成新編御書 九九四)
の厳しい戒めを肝に銘ずべきであります。
では、この仏道修行の根本たる報恩を、どのようにつとめるべきでしょうか。祈祷抄の中に
「白鳥の恩をば黒鳥に報ずべし」(平成新編御書 六三〇)
という文があります。
これはある時、毒蛇が、昼寝をしていた王様を咬み殺そうとしたとき白い鳥が現われて王様を助けたので、王様は恩返しをするため手を尽くして白い鳥を探し尋ねたのですが、どうしても見つけることができません。
このため、王様は、白い鳥に受けた恩をふつうの黒い鳥に広く施すことによって恩返しをした、という話に由来しています。この話を、私たちにあてはめて考えますと、王様を救ったまれな白鳥とは、私たちを折伏して御本尊を受持させてくれた人であります。
しかし、私たちはその人から受けた広大な恩徳を返し尽せるものではありません。ですから、その報恩を黒鳥である、いまだ正法を知らない人に施すべきであります。
すなわち、私たちは日常の姿や対話を通して、大御本尊の偉大さを社会に広く流布し理解させていくことが、真の御報恩なのであります。
私たちは、知恩報恩の一念をもって、欠かさずお講に参詣し、自己の信心をいっそう深めるよう心掛けるべきでしょう。
そして、末法の三宝尊に感謝申し上げるとともに、真の御報恩の道たる正法広布に邁進することを、堅く決意することこそ肝要なのであります。
御隠尊日顕上人猊下御指南
「やはり、皆さん方は、できるだけお寺に参詣して、法門を良く聞き、我見などに執われることがないようにしなければなりません。お題目を唱えること、また妙法の命は、すなわち我見を浄化していくことであります。我々は、我見や煩悩から離れることはできませんが、その我見を浄化することによって、仏様の教えに導かれて、我々の振る舞いや考えを清浄な功徳に転ずることができるのであります」(大日蓮平成四年・六月号 三一㌻)
まず、御本尊、日蓮大聖人、日興上人並びに日目上人等、歴代の法主上人にそれぞれ献膳申し上げ、懇ろに読経唱題した後、僧侶の説法があります。
そして、このお講を通してお互いに信行学を深め、御報恩の道である正法広布の大願達成を誓い合うのです。
ここで、報恩について考えてみましょう。
ややもすると、現在の自分があるのは、すべて自己の努力によるものであると思いがちではないでしょうか。
何事も、努力なくして向上するものではありませんが、自己の努力だけで成就できるものでもありません。
広く考えてみると、人生の出発は、まずこの身を生み育ててくれた父母の恩を受け、物事の知識や道理を教えてくれた、
多くの人々や書物からは、師匠の恩を受けています。そして、周囲のさまざまな協力や援助があって、はじめて自己の努力がみのっていくのです。しかも、その目的が高遠であればあるほど、周囲の多大の恩徳を受けることはいうまでもありません。
これら大小さまざまな恩徳を忘れずに正しくわきまえることを知恩といい、受けた恩徳に対して、積極的に応えることを報恩といいます。
大聖人は開目抄に、
「聖賢の二類は孝の家よりいでたり、何に況や仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子はかならず四恩を知って知恩報恩をいたすべし」
(平成新編御書 五三〇)
と仰せられ、世間で聖人賢人と称される人々の思想と行動は、親師匠などに対する孝養心が基点となっており、いわんや、成仏道という、
人間として最高究極の目的を目指して修行精進する仏弟子は、四恩を知って、知恩報恩の道を尽すことこそ肝要であることを説かれています。
ここにいう四恩とは、三宝の恩、国主の恩、衆生の恩をいいます。
四恩抄にも、
「仏法を習う身にはかならず四恩を報ずべきに候」(平成新編御書 二六七)
と仰せられており、この四恩とは、世間、出世間、すべての恩義を包容した言葉と考えるべきであります。
この中でも、三宝の恩が最も大切なのであります。
なぜならば三宝は、人間生命の奥底に作用する根源のものであり、すべてのものを成仏させる大慈大悲の当体だからであります。
この三宝への報恩について、
四恩抄には、
「仏の寿命、百二十まで世にましますべかりしが八十にして入滅し、残る所の四十年の寿 命を留め置きて我等に与え給ふ恩をば四大会の水を硯の水と
し一切の草木を焼て墨となして一切のけだものの毛を筆とし十方世界の大地を紙と定めて注し置くとも争か仏の恩を報じ奉るべき、法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし、次に僧の恩をいはば仏宝法宝は必ず僧によりて住す、譬えば薪なければ火無く大地無ければ草木生ずべからず、仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法・像法・二千年過ぎて末法へも伝はるべからず……然るに 末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」
(平成新編御書 二六八)
と報恩の一念が、仏道修行においてもっとも大切なことを教えております。
それでは、私たち末法の衆生が、大恩を報ずべき三宝とは何かといいますと、
日寛上人は、
「正しく是れ末法出現の三宝如何。久遠元初の仏法豈異人ならんや、即ち是れ蓮祖大 聖人なり、久遠元初の法宝とは、即ち是れ本門の大本尊是れなり、
久遠元初の 僧宝とは、即ち是れ開山上人なり、」(当流行事抄、聖典九五〇頁)
と明らかに示されています。
まず仏宝である日蓮大聖人は、
「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(開目抄 平成新編御書 五七七)
と仰せられ、
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(種種御振舞御書、平成新編御書 一〇六五)
とも仰せられているように、末法の衆生の主人、師匠、父母の三徳をそなえられた御本仏であります。そのお振舞を拝すると、御生涯、衆生救済のため、大小の難をうけられ、後世のため厖大な御書を書き残され、弘安二年には一閻浮提総与の大御本尊を御図顕あそばされました。
これはひとえに、一切衆生を未来永劫にわたって救わんがための御本仏の大慈悲であります。
また、法宝の本門の大御本尊は、久遠の仏様が証得された名字の妙法蓮華経を、末代の私たち凡夫のために、三大秘法として建立あそばされたのであります。
この御本尊に向って、信の一念をもって南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、いかなる者もすべて直達正観し、即身成仏の大利益をうることができるのであります。
このような大恩は、香城に骨を催き、雪嶺に身を投じても報じ尽くすことはせきません。
僧宝とは、前に引用した四恩抄にあるように、たとえ仏法と法宝があっても、これを学び伝えていく方がなくては永く衆生を利益してゆくことができません。
日興上人は、大聖人への永年にわたる常隨給仕の間に、下種仏法の深奥を正しく体得せられ、御入滅に際してはそのすべてを,「血脈の次第日蓮日興」と付嘱されたのであります。
大聖人の滅後は、他の五老が異議を唱える中に一人正義を宣揚し、立義をいささかも曲げず、正法正義のため、身延を離山し、大石寺を創建して、本門戒壇建立への基礎を定められたのであります。
また、日目上人の四十二度に及ぶ国諌、歴代法主上人の心労は、そのすべてが令法久住のためであり、
三大秘法の広宣流布により、末代の人々を成仏せしめんがためであります。
このように三宝の恩徳は、どのように報じても報じ尽せないほど鴻大であります。したがって、
御書に、
「然るに末代の凡夫・三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」 (平成新編御書 二六八)
とお示しのように、この広大無辺な大恩を忘れては到底成仏はできないのであります。
「華厳経に云く『恩を知らざる者は多く横死に遭う』等云々、観仏相海経に云く『是れ阿 鼻の因なり』等云々」
(四条金吾釈迦仏供養事 平成新編御書 九九四)
の厳しい戒めを肝に銘ずべきであります。
では、この仏道修行の根本たる報恩を、どのようにつとめるべきでしょうか。祈祷抄の中に
「白鳥の恩をば黒鳥に報ずべし」(平成新編御書 六三〇)
という文があります。
これはある時、毒蛇が、昼寝をしていた王様を咬み殺そうとしたとき白い鳥が現われて王様を助けたので、王様は恩返しをするため手を尽くして白い鳥を探し尋ねたのですが、どうしても見つけることができません。
このため、王様は、白い鳥に受けた恩をふつうの黒い鳥に広く施すことによって恩返しをした、という話に由来しています。この話を、私たちにあてはめて考えますと、王様を救ったまれな白鳥とは、私たちを折伏して御本尊を受持させてくれた人であります。
しかし、私たちはその人から受けた広大な恩徳を返し尽せるものではありません。ですから、その報恩を黒鳥である、いまだ正法を知らない人に施すべきであります。
すなわち、私たちは日常の姿や対話を通して、大御本尊の偉大さを社会に広く流布し理解させていくことが、真の御報恩なのであります。
私たちは、知恩報恩の一念をもって、欠かさずお講に参詣し、自己の信心をいっそう深めるよう心掛けるべきでしょう。
そして、末法の三宝尊に感謝申し上げるとともに、真の御報恩の道たる正法広布に邁進することを、堅く決意することこそ肝要なのであります。
御隠尊日顕上人猊下御指南
「やはり、皆さん方は、できるだけお寺に参詣して、法門を良く聞き、我見などに執われることがないようにしなければなりません。お題目を唱えること、また妙法の命は、すなわち我見を浄化していくことであります。我々は、我見や煩悩から離れることはできませんが、その我見を浄化することによって、仏様の教えに導かれて、我々の振る舞いや考えを清浄な功徳に転ずることができるのであります」(大日蓮平成四年・六月号 三一㌻)
法華経に見る「御講」参詣の功徳
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法華経 随喜功徳品
「阿逸多よ、もし人がこの経の為の故に僧房に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須兜聴受せん。 この功徳によって、身を転じて生まれん所には、好き上妙の像馬の車乗や珍宝の輦輿を得、天宮に乗ぜん。」 通解:「弥勒菩薩よ。若し人が。是の法華経の為に寺院に参詣して、座っても、立ってても、 信心の上で少しでも法華経を聴くとする。その功徳により次に生まれる時、その所は、上等の車や、珍しい宝の乗り物を得るなど、豊かな生活に恵まれるであろう。」 真面目に御講に参詣する人は来世は生活に困らない豊かな環境で生を受けるでしょう。 「若し復、人有って護法の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勤めて坐し、聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん。是の人の功徳、身転じて帝釈の坐処、若しは梵天の坐処、若しは転輪聖王の所坐の処を得ん」 通解:また人が、法華経の講義の場に於いて坐っていた時に、他の人が来られた場合には、相手にも落ち着いて聴聞させてあげる為にも、自らの場所を少し空けて、勧めて坐って戴く等、心配りが大切である。 この人の功徳は、次に生まれる時、帝釈天か梵天王の所に生じるか、若しくは、人間界に有っては、転輪聖王の所に生まれるのである。 梵天は清浄の世界である。 転輪聖王のような有能な指導者のいる場所、今の政治家とは違い、自分の利益や国の利益だけしか考えない指導者とは違い、善を世界に広く施す有能な指導者のいる世界。 「阿逸多、若し復人あって余人に語っていわく、経あり法華と名けたてまつる、共に往いて聴くべしと。 即ち其の教を受けて乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。利根にして智慧あらん。(健康な身心、整った美しい意容姿を得、世世に仏ひ値い福徳を増すようになる) 一人を勧めて往いて法を聴かしむる功徳此の如し。何に況んや、一心に聴き説き読誦し、而も大衆に於て人の為に分別し、説の如く修行せんをや。」 通解:弥勒菩薩よ、若し貴方が他の人に「御講や御経日などで仏様の話が有るから、共に行きましょう」と誘ってあげる。 その話を受けて相手が寺院に参詣し講義を聞かれる等の功徳を積まれる。この様に他の人を誘ってあげる功徳は、次に生まれる時は、一切の悪を遮って生じさせない徳を具えた菩薩と共に、常に善処に生ずることをができる。また智慧が聡明で健康な身心、整った美しい容姿を得て、その時代その時代に仏様に値い、福徳を増すようになる。この様に信心に理解の弱い人に勧めて、大聖人様の教えや法華経を聴かしむる功徳は、是く如し、況してや、一心に法を聴き、折伏し、勤行し、而も大衆に於いて、説の如く修行する人に於いては尚更である。 |
本修寺の御講
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毎月:毎月第2日曜日の前日 午後19時~
日曜日(御正当会)午後14時~ 御命日御講:13日 午後14時~ |