御会式について
10月から11月にかけて、全国の末寺では「御会式」が奉修(ほうしゅう)されます。
総本山では「御大会=ごたいえ」と称し、十月二十日・二十一日の両日にわたって奉修されます。
御大会は、日蓮正宗の僧俗にとって最も重要な法要です。
御会式の意義
日蓮大聖人は、弘安五(一二八二)年十月十三日、武州(ぶしゅう)の池上宗仲(いけがみむねなか)の館(やかた)において、安祥(あんじょう)
として御入滅(ごにゅうめつ)あそばされました。この御入滅の時には突如(とつじょ)として大地が振動(しんどう)し、初冬にもかかわらず庭の桜が一斉(いっせい)に咲いたと伝えられておりますが、この妙瑞(みょうずい)には、御本仏である大聖人様の御入滅を宇宙法界の生命が惜(お)しみ奉(たてまつ)ると共に、御本仏の滅(めつ)に即して常住(じょうじゅう)の妙相(みょうそう)を示すという深い意義が存するのです。
仏の入滅について『寿量品』には、
「必ず当(まさ)に難遭(なんぞう)の想(おもい)を生じ、心に恋慕(れんぼ)を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)して、便(すなわち)善根(ぜんごん)を種(う)ゆべし、是の故に如来、実に滅せずと雖(いえど)も、而(しか)も滅度すと言う」
(法華経 四三四㌻)
また、
「衆生を度(ど)せんが為(ため)の故に 方便して涅槃(ねはん)を現ず 而も実には滅度せず 常に此(ここ)に住して法を説く」
(同 四三九㌻)
と示されるように、仏は三世に亘(わた)って常住されるのですが、仏が常に住していると衆生は安心して仏道修行を怠(おこた)ってしまうことから、衆生に対して仏様は値い難いとの思いを懐かせ、仏道修行を方便として入滅の相を示すと説かれるのです。
大聖人様の生身(しょうしん)は入滅の相を示されますが、その御法魂は『経王殿御返事』に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)
と御教示のように、本門戒壇の大御本尊に留められ、その御威光(ごいこう)は厳然と法界を照らされているのです。
このように、御本仏の滅不滅・三世常住を寿(ことほ)ぎ奉るところに御会式の意義が存するのです。
本宗の申状
御会式の御正当会(ごせいとうえ)の折に、『立正安国論』と御歴代上人の申状(もうしじょう)が奉読(ほうどく)されます。
この申状奉読の儀式(ぎしき)は、大聖人様並びに御歴代上人の国主諌暁(かんぎょう)の精神を本宗の僧俗がけっして忘れることなく、私たちが折伏弘教(しゃくぶくぐきょう)に精進することを御宝前にお誓い申し上げる重要な儀式です。
一般に申状とは、辞書によれば「もうしぶみ」とも言い、「朝廷(ちょうてい)へ申し上げる文書」、「訴状(そじょう)」とあります。
すなわち本宗の申状は、国家の主である為政者(いせいしゃ)(政治を行う人)に対する諌暁の書であり、国中の悲惨(ひさん)な状況と人々を苦しめる原因は、ひとえに邪教謗法(じゃきょうほうぼう)にあると説き、謗法を対治(たいじ)し、正法、すなわち三大秘法へ帰依(きえ)
する以外にはないと、時の為政者を諌(いさ)めてきたものです。
総本山では「御大会=ごたいえ」と称し、十月二十日・二十一日の両日にわたって奉修されます。
御大会は、日蓮正宗の僧俗にとって最も重要な法要です。
御会式の意義
日蓮大聖人は、弘安五(一二八二)年十月十三日、武州(ぶしゅう)の池上宗仲(いけがみむねなか)の館(やかた)において、安祥(あんじょう)
として御入滅(ごにゅうめつ)あそばされました。この御入滅の時には突如(とつじょ)として大地が振動(しんどう)し、初冬にもかかわらず庭の桜が一斉(いっせい)に咲いたと伝えられておりますが、この妙瑞(みょうずい)には、御本仏である大聖人様の御入滅を宇宙法界の生命が惜(お)しみ奉(たてまつ)ると共に、御本仏の滅(めつ)に即して常住(じょうじゅう)の妙相(みょうそう)を示すという深い意義が存するのです。
仏の入滅について『寿量品』には、
「必ず当(まさ)に難遭(なんぞう)の想(おもい)を生じ、心に恋慕(れんぼ)を懐(いだ)き、仏を渇仰(かつごう)して、便(すなわち)善根(ぜんごん)を種(う)ゆべし、是の故に如来、実に滅せずと雖(いえど)も、而(しか)も滅度すと言う」
(法華経 四三四㌻)
また、
「衆生を度(ど)せんが為(ため)の故に 方便して涅槃(ねはん)を現ず 而も実には滅度せず 常に此(ここ)に住して法を説く」
(同 四三九㌻)
と示されるように、仏は三世に亘(わた)って常住されるのですが、仏が常に住していると衆生は安心して仏道修行を怠(おこた)ってしまうことから、衆生に対して仏様は値い難いとの思いを懐かせ、仏道修行を方便として入滅の相を示すと説かれるのです。
大聖人様の生身(しょうしん)は入滅の相を示されますが、その御法魂は『経王殿御返事』に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五㌻)
と御教示のように、本門戒壇の大御本尊に留められ、その御威光(ごいこう)は厳然と法界を照らされているのです。
このように、御本仏の滅不滅・三世常住を寿(ことほ)ぎ奉るところに御会式の意義が存するのです。
本宗の申状
御会式の御正当会(ごせいとうえ)の折に、『立正安国論』と御歴代上人の申状(もうしじょう)が奉読(ほうどく)されます。
この申状奉読の儀式(ぎしき)は、大聖人様並びに御歴代上人の国主諌暁(かんぎょう)の精神を本宗の僧俗がけっして忘れることなく、私たちが折伏弘教(しゃくぶくぐきょう)に精進することを御宝前にお誓い申し上げる重要な儀式です。
一般に申状とは、辞書によれば「もうしぶみ」とも言い、「朝廷(ちょうてい)へ申し上げる文書」、「訴状(そじょう)」とあります。
すなわち本宗の申状は、国家の主である為政者(いせいしゃ)(政治を行う人)に対する諌暁の書であり、国中の悲惨(ひさん)な状況と人々を苦しめる原因は、ひとえに邪教謗法(じゃきょうほうぼう)にあると説き、謗法を対治(たいじ)し、正法、すなわち三大秘法へ帰依(きえ)
する以外にはないと、時の為政者を諌(いさ)めてきたものです。
申状の奉読
御会式における申状の奉読は、最初に第九世日有(にちう)上人の申状から始まり、続いて『立正安国論』、日蓮大聖人、日興上人、日目上人、
日道上人、日行上人の申状と続きます。
最初に奉読される日有上人の申状は、日興上人・日目上人の第百回遠忌に当たる永享(えいきょう)四(一四三二)年三月に著され、朝廷に
提出されました。
続いて奉読される『立正安国論』は、大聖人様が三十九歳の御時に著され、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出された第一回の国主諌暁の書です。
次の大聖人様の申状は、『立正安国論』以降に初めて出された申状で、文永五(一二六八)年八月二十一日付で著されました。
この申状は鎌倉幕府の要人であった宿屋左衛門入道(やどやさえもんにゅうどう)を介(かい)して幕府(の執権)に宛(あ)てられ、蒙古(もうこ)の来襲(らいしゅう)が
現実のものとなりつつある状況において、八年前に送られた『立正安国論』の諌言に対する再確認を促(うなが)し、邪教の対治と正法による治国を訴えられました。
日興上人の申状は、元徳(げんとく)二(一三三〇)年三月に著され、内乱が続く衰亡期(すいぼうき)の鎌倉幕府最後の執権であった北条守時に提出されました。
日目上人の申状は、元弘(げんこう)三(一三三三)年十一月に著され、京都の後醍醐(ごだいご)天皇への天奏(てんそう)の時に持参されましたが、日目上人は
天奏の途上、美濃(みの)の垂井(たるい)において御遷化(ごせんげ)されたため、お供の日尊(にちぞん)師と日郷(にちごう)師によって後醍醐天皇に提出されたと
伝えられています。
御会式における申状の奉読は、最初に第九世日有(にちう)上人の申状から始まり、続いて『立正安国論』、日蓮大聖人、日興上人、日目上人、
日道上人、日行上人の申状と続きます。
最初に奉読される日有上人の申状は、日興上人・日目上人の第百回遠忌に当たる永享(えいきょう)四(一四三二)年三月に著され、朝廷に
提出されました。
続いて奉読される『立正安国論』は、大聖人様が三十九歳の御時に著され、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出された第一回の国主諌暁の書です。
次の大聖人様の申状は、『立正安国論』以降に初めて出された申状で、文永五(一二六八)年八月二十一日付で著されました。
この申状は鎌倉幕府の要人であった宿屋左衛門入道(やどやさえもんにゅうどう)を介(かい)して幕府(の執権)に宛(あ)てられ、蒙古(もうこ)の来襲(らいしゅう)が
現実のものとなりつつある状況において、八年前に送られた『立正安国論』の諌言に対する再確認を促(うなが)し、邪教の対治と正法による治国を訴えられました。
日興上人の申状は、元徳(げんとく)二(一三三〇)年三月に著され、内乱が続く衰亡期(すいぼうき)の鎌倉幕府最後の執権であった北条守時に提出されました。
日目上人の申状は、元弘(げんこう)三(一三三三)年十一月に著され、京都の後醍醐(ごだいご)天皇への天奏(てんそう)の時に持参されましたが、日目上人は
天奏の途上、美濃(みの)の垂井(たるい)において御遷化(ごせんげ)されたため、お供の日尊(にちぞん)師と日郷(にちごう)師によって後醍醐天皇に提出されたと
伝えられています。
申状は厳粛な所作で御法主上人猊下及び本六僧に配られる
日道上人の申状は、南北朝の動乱の最中である延元(えんげん)元(一三三六)年二月に著され、たび重なる戦乱と災害により、社会不安が増大することを憂(うれ)いて正法を立てるべきことを朝廷へ提出されました。
最後の日行上人の申状は、暦応(りゃくおう)五(一三四二)年三月に著され、京都に赴(おもむ)かれて後村上(ごむらかみ)天皇へ提出され、同時に征夷大将軍であった足利尊氏にも諌状を提出されております。
ちなみに、奉読される日興上人から日有上人までの申状の冒頭には、必ず「日蓮聖人の弟子日興」、「日蓮聖人の弟子日目」、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日道」、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟等」(日行上人申状)、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日有」と、すべて「日蓮聖人の弟子」となっています。
これは当然のことのように思えますが、実はこれが大聖人様の仏法を正しく相伝する富士の清流の証(あかし)なのです。
大聖人様御入滅後、六老僧の中でも日興上人のみが「日蓮聖人の弟子」と名乗られたのに対して、他の五老僧は、「天台の沙門(しゃもん)日昭」、「天台の沙門日郎」、「天台法華宗の沙門日向」と名乗って、
「先師日蓮は(中略)天台の余流を酌(く)み」(同 一八七六㌻)
と『五人所破抄』にあるように、大聖人様があたかも天台の亜流(ありゅう)であるかのような、はき違えた認識で臨んでいたのです。
このような五老僧の流れが、今日の折伏を忘れ、謗法に甘んじる身延(みのぶ)日蓮宗等の姿なのです。
さて、申状奉読では、なぜ最初に日有上人の申状が奉読されるのかについて、第三十一世日因上人は『有師物語聴聞抄佳跡(かせき)』に、
「日有上人の申状最初なる子細(しさい)は日有上人已後天奏の人之なき故に、日有上人の申状に由って上代の祖師開山已来の筋、天下を諌暁する事を知らせんなり、若し今申状をもって天下を諌暁するに有っては其の申状を以て最初となさんのみ」
と仰せです。
つまり、日有上人の申状をもって、宗開両祖以来の国主諌暁の筋道を示し、その精神をもって広宣流布に向かって邁進(まいしん)することを御宝前にお誓いするからです。しかし、日有上人以降は戦国の乱世のなって政権の移り変わりも激しく、国の統治者も定かではない世の中となり、申状による国主諌暁はできなくなりました。
その後、江戸時代となり戦乱の治まった世の中が訪れましたが、今度は寺請制度(てらうけせいど)などの権力的な宗教政策によって、他宗への折伏も容易にできない時代となりました。
幕末に至り、万延(まんえん)二(一八六一)年二月に、第五十二世日霑(にちでん)上人が江戸幕府の寺社奉行に対して申状をもって諌暁をされ、また、明治六(一八七三)年六月には、第五十四世日胤(にちいん)上人が明治政府の教部省に対して、本宗の正統性を主張する申状を建白されました。
しかし、それ以降は民主主義の時代へと移り、信仰も個々の考えが定着しているため、現代では国主諌暁ではなく、むしろ個人に対する折伏が妙法を広く弘通していく筋道となっているのです。
申状の精神で折伏に邁進
様々な時代の変遷(へんせん)はありますが、現在の私たちの法華講員も、その根本精神は、大聖人様以来の申状による国主諌暁の精神を尊び、どこまでもこれを堅持(けんじ)していくことが肝要(かんよう)です。
現在の折伏の実践は、国主諌暁という形では行われませんが、『立正安国論』に示される破邪顕正(はじゃけんしょう)の精神をもって、時の御法主上人猊下の御指南に随って、個人に対する折伏を地道に一歩一歩進め、広宣流布をめざしていくことが大事なのです。
古来より本宗では、たとえ三百六十五日欠かさずに寺院に参詣しても、御会式のたった一日の参詣を怠ったならば、本宗の信徒ではないと言われてきました。
有名な逸話(いつわ)に、日興上人の御説法の最中、梨の葉が秋風に吹かれて落ちる様子に気を取られた日尊師は、日興上人より十二年も勘当(かんどう)されたというものがあります。
日尊師は、勘当中、布教の為に諸国を回って折伏弘教に励みましたが、毎年十月十三日には必ず日興上人のおられる重須(おもす)の門前に来て、大聖人様への御報恩を忘れなかったと伝えられています。
この逸話からも、御会式には家族揃(そろ)って必ず参詣し、大聖人様へ御報恩申し上げると共に、さらなる折伏の邁進をお誓い申し上げることが、法華講衆の信心であることを堅く心に留めることが大事なのです。
御法主日如上人猊下は、平成二十三年の御大会の砌(みぎり)に、
「昨今の混迷を極めている世情を見る時、一人でも多くの人に妙法を下種結縁し、折伏を行じ、救済していかなければならないと痛感いたします」
(大白法 八二六号)
と御指南あそばされております。
私たちは、御法主上人猊下の御指南を心肝に染め、世情不安の尽きない現在において、大聖人様並びに御歴代上人の申状の精神を受け継ぎ、本年の折伏誓願目標達成に向かって精進してまいりましょう。
(大白法第九六六号 平成二十九年十月一日)
※当本修寺では毎年10月初めに奉修されています。
↓↓
最後の日行上人の申状は、暦応(りゃくおう)五(一三四二)年三月に著され、京都に赴(おもむ)かれて後村上(ごむらかみ)天皇へ提出され、同時に征夷大将軍であった足利尊氏にも諌状を提出されております。
ちなみに、奉読される日興上人から日有上人までの申状の冒頭には、必ず「日蓮聖人の弟子日興」、「日蓮聖人の弟子日目」、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日道」、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟等」(日行上人申状)、「日蓮聖人の弟子日興の遺弟日有」と、すべて「日蓮聖人の弟子」となっています。
これは当然のことのように思えますが、実はこれが大聖人様の仏法を正しく相伝する富士の清流の証(あかし)なのです。
大聖人様御入滅後、六老僧の中でも日興上人のみが「日蓮聖人の弟子」と名乗られたのに対して、他の五老僧は、「天台の沙門(しゃもん)日昭」、「天台の沙門日郎」、「天台法華宗の沙門日向」と名乗って、
「先師日蓮は(中略)天台の余流を酌(く)み」(同 一八七六㌻)
と『五人所破抄』にあるように、大聖人様があたかも天台の亜流(ありゅう)であるかのような、はき違えた認識で臨んでいたのです。
このような五老僧の流れが、今日の折伏を忘れ、謗法に甘んじる身延(みのぶ)日蓮宗等の姿なのです。
さて、申状奉読では、なぜ最初に日有上人の申状が奉読されるのかについて、第三十一世日因上人は『有師物語聴聞抄佳跡(かせき)』に、
「日有上人の申状最初なる子細(しさい)は日有上人已後天奏の人之なき故に、日有上人の申状に由って上代の祖師開山已来の筋、天下を諌暁する事を知らせんなり、若し今申状をもって天下を諌暁するに有っては其の申状を以て最初となさんのみ」
と仰せです。
つまり、日有上人の申状をもって、宗開両祖以来の国主諌暁の筋道を示し、その精神をもって広宣流布に向かって邁進(まいしん)することを御宝前にお誓いするからです。しかし、日有上人以降は戦国の乱世のなって政権の移り変わりも激しく、国の統治者も定かではない世の中となり、申状による国主諌暁はできなくなりました。
その後、江戸時代となり戦乱の治まった世の中が訪れましたが、今度は寺請制度(てらうけせいど)などの権力的な宗教政策によって、他宗への折伏も容易にできない時代となりました。
幕末に至り、万延(まんえん)二(一八六一)年二月に、第五十二世日霑(にちでん)上人が江戸幕府の寺社奉行に対して申状をもって諌暁をされ、また、明治六(一八七三)年六月には、第五十四世日胤(にちいん)上人が明治政府の教部省に対して、本宗の正統性を主張する申状を建白されました。
しかし、それ以降は民主主義の時代へと移り、信仰も個々の考えが定着しているため、現代では国主諌暁ではなく、むしろ個人に対する折伏が妙法を広く弘通していく筋道となっているのです。
申状の精神で折伏に邁進
様々な時代の変遷(へんせん)はありますが、現在の私たちの法華講員も、その根本精神は、大聖人様以来の申状による国主諌暁の精神を尊び、どこまでもこれを堅持(けんじ)していくことが肝要(かんよう)です。
現在の折伏の実践は、国主諌暁という形では行われませんが、『立正安国論』に示される破邪顕正(はじゃけんしょう)の精神をもって、時の御法主上人猊下の御指南に随って、個人に対する折伏を地道に一歩一歩進め、広宣流布をめざしていくことが大事なのです。
古来より本宗では、たとえ三百六十五日欠かさずに寺院に参詣しても、御会式のたった一日の参詣を怠ったならば、本宗の信徒ではないと言われてきました。
有名な逸話(いつわ)に、日興上人の御説法の最中、梨の葉が秋風に吹かれて落ちる様子に気を取られた日尊師は、日興上人より十二年も勘当(かんどう)されたというものがあります。
日尊師は、勘当中、布教の為に諸国を回って折伏弘教に励みましたが、毎年十月十三日には必ず日興上人のおられる重須(おもす)の門前に来て、大聖人様への御報恩を忘れなかったと伝えられています。
この逸話からも、御会式には家族揃(そろ)って必ず参詣し、大聖人様へ御報恩申し上げると共に、さらなる折伏の邁進をお誓い申し上げることが、法華講衆の信心であることを堅く心に留めることが大事なのです。
御法主日如上人猊下は、平成二十三年の御大会の砌(みぎり)に、
「昨今の混迷を極めている世情を見る時、一人でも多くの人に妙法を下種結縁し、折伏を行じ、救済していかなければならないと痛感いたします」
(大白法 八二六号)
と御指南あそばされております。
私たちは、御法主上人猊下の御指南を心肝に染め、世情不安の尽きない現在において、大聖人様並びに御歴代上人の申状の精神を受け継ぎ、本年の折伏誓願目標達成に向かって精進してまいりましょう。
(大白法第九六六号 平成二十九年十月一日)
※当本修寺では毎年10月初めに奉修されています。
↓↓
毎年、多くの海外信徒が総本山御大会に参列している。