日蓮正宗の法要(※随時更新中)
元旦勤行
正月一日は、古来からいろいろな行事がおこなわれ、一年中でもっとも意義の深い祝日とされてきました。
日蓮大聖人が 「五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、正月は妙の一字のまつり」(御書三三四ページ) とおおせられているように、本宗でおこなわれる元旦勤行は一層意義深く、目出度い行事の一つです。 法華経の開経である無量義経には「無量義とは一法より生ず」と説かれていますが、この一法とは妙法蓮華経であり、宇宙の森羅万象は、この妙法の真理より開き出されるのですから、私達の人生もまた知ると知らざるとにかかわらず、この根源の大真理によって存在せしめられているのです。したがってこの妙法は本源的な大生命の力それ自体であり、これを正しく受けきって行くものは、直ちに限りない幸福の源が確立されてゆくのです。この一法こそ、末法流布の大白法である法華経寿量品文底の妙法蓮華経です。久遠元初の御本仏の再誕宗祖大聖人こそこの妙法を所持なされるお方であり、命をかけて、この妙法を弘められました。それゆえに末法五濁悪世の民衆は、この仏様に結縁してのみ即身成仏という永遠不壊の幸福をつかむことができるのです。 大聖人は、十字御書に 「正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるごとく・とくもまさり人にもあいせられ候なり」(御書一五五一ページ) とおおせられて、年の始めを大切にする功徳を説かれています。 世間にも、一年の計は元旦にありと申して、ものごとの始めを大切にしますが、仏法においても、仏道修行の第一を<発願>といって願を発すことを最初にいたします。もし、この発願の心を起したならば、その人の仏道修行は、すでに半ばにも達したといわれるほど、この始めということを大切にするのです。また、「初心忘るべからず」の言葉のごとく、初心を貫くことは、なかなか容易なことではなく、それだけに世間でも初心貫徹の人々はいずれも、それなりの功を成就していることが知られます。いわんや、生死の一大事を決定する仏道修行においては、初心の貫徹如何が、成仏得脱の一大要件として示されるのです。大聖人はこの事を 「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり」(御書七七五ページ) と、懇切にお示し下さっています。私達は、正月の一日を素直な心で讃えるこの初心を常に大切に持ち続けながら、尊い仏道修行の大善根を怠りなく積みゆくことに精進いたさねばなりません。 法華経題目抄に 「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書三六〇ページ) とおおせられ、末法の今日においては、まったく無益な爾前権教の死の法門も、末法の大白法である妙法に照され会入された上から見ますと、活の法門としてよみがえるといわれます。毒気が深く入って本心を失い、ながい過去の世から邪宗邪義にまどわされてきた末法の衆生も、また、どんな極悪人でも、ひとたびこの妙法を信じて受持する者は、いかなる罪障も朝露のようにたちまち消滅して、尊極無上の仏果をうることができるのです。悪が善に、凡夫が仏に成ることを蘇生と云い、その道はたヾ一つ、妙法受持の外にはありません。これと反対に、妙法を信じない人々は、どれほどきれいな衣装で身を着飾って新年を迎え、心を新たにしたと思ったところで、所詮独りよがりで真の蘇生はありません。結局もとの六道輪廻の迷いの世界で悩み苦しまねばならないのです。 このような意義から、真実の新年のお祝は、仏法の根幹である三大秘法総在の御本尊を信受する日蓮正宗の僧俗のみにあることを知らなくてはなりません。それだけに、御本仏の常に変らぬ大慈大悲の福聚海に浴することのできる私達は、元旦を久遠元初の深意にも通ずるこの上もなく目出度い妙法の祭りと領解すべきです。一切の世事に先駆けて、まず御本尊を礼拝供養し、新年最初の元旦勤行を心の底からしっかり勤めましょう。そしてこれからの一年を、水の流れるような、弛まぬ清い信心で貫ぬき通し、自行も化他も、地涌の菩薩の眷属の名に恥じない、確信にみちた修行に邁進できるよう、心新に誓願申し上げることがもっとも肝要です。 総本山大石寺においては、法主上人大導師のもとに、全山の僧侶が出仕し、近在の檀信徒も多数参詣して厳粛且つ荘厳に奉修され、下種三宝へのご報恩と広宣流布大願成就を祈念し、それによって確立される世界平和と、人類の幸福を願うとともに、正法信徒の今年の無事息災を念じられるのです。その後、法主上人から親しく新年のお言葉を賜わり、さらにご宝前にお供えされたお造酒を頂戴して、新年をお祝いいたします。また、全国の各末寺寺院においても、これにならって、もよりの信徒が多数参詣し元旦勤行を行なう例となっています。 |
日興上人法要(興師会)
年中行事の意義は、総本山富士大石寺に伝わる深遠な仏法を正しく伝えるとともに、僧俗が親しく行事に参加することによって、仏縁を深め、もって広宣流布への前進を期するところにあります。この興師会は日興上人のご命日の二月七日に総本山は勿論、末寺においても荘厳に執り行なわれます。これは日蓮大聖人から仏法の正義を受け継がれ、後世にまで正しく法燈を伝えて下さった日興上人に対し奉り、僧俗一同心からご報恩申し上げるために厳修する法要です。
私達がいま宿縁深厚にして大聖人の仏法にあい、人生最大の目的である成仏の境界を得ることができるのは、ひとえに正法正義を堅く守り抜かれた日興上人がおわしましたからであり、それゆえに本宗では僧宝として崇めています。いまその末弟に連なる者が深い感謝の念をもって、ご報恩のため、日興上人ご入滅の二月七日に法要をいとなむのは当然といえましょう。 総本山では二月七日は勿論のこと、毎月七日にも<お講日>といって御影堂において法主上人ご出仕のもと、日興上人ご報恩の法要がおこなわれています。いま明治年間に記された年中行事の中から、興師会のところを抜萃すると 六日、早朝雲板にて満山大坊に集まり、メンドリ窪へ下男一人召し連れ出張、助番の当番は地主へ立ち寄り御開山会の芹を摘みに来たる由を申し入れるなり、メンドリ窪にて、カンゾ、桑枝二本、ススキ二本取り来るなり(中略)芹は七日朝重箱に入れ進物台にのせて上るなり料理出来次第客殿へ御膳上る、雲板にて御本番来り共に御膳こしらえ上げ次第半鐘太鼓にて御前御出仕、御経世雄偈寿量品引題目、終って満山へ御膳を出す 御流れ頂戴の事 七日、衆会例の如し、早朝大梵鐘をつくべし料理は前日の如し、いり豆に桑の箸を付け、芹の重箱にススキの箸を付けて備うべし、仕度出来次第雲板にて客殿に来集、御膳上り次第半鐘太鼓にて御前出仕、御経世雄偈寿量品引題目、終って一同へ御膳出す、万事六日の通り御流れにて豆、芹は取り廻しの事 とあります。勿論年中行事は化導の儀式なので時代によって多少の変化はありますが、現在でもほとんど昔の通りおこなわれています。右の中に芹摘みのことが出ていますが昔から興師会には芹をお供えするならわしになっています。伝えによると日興上人は粗衣粗食であらせられ、八十八才のご老躯に至るまでお弟子が摘まれた若芹を常に愛好されたということです。それで現在でも興師会の前日、総本山では寒風が肌を刺す中を助番僧や大坊在勤の所化が近くの精進川畔で日興上人のご威徳を偲びつつ青々とした若芹を摘みご宝前にお供えしています。またこれにはお初物を差し上げる意味も含まれていると思われます。日興上人のお手紙にも「せり(芹)御す(酒)の御はつを(初穂)仏にまいらせて候、いまだいづち(何地)よりもたび候はず」の文が拝され、芹つみの行事は六百数十年前の二祖日興上人にたいするお弟子方の給仕の面影を、ほうふつとさせるものがあるといえます。 ここで日興上人について少し述べてみましょう。 日興上人は後深草天皇の寛元四年(一二四六年)三月八日、甲斐国(山梨県)巨摩郡大井荘鰍沢にお生れになりました。「師生れながらにして寄相あり特に才智凡ならず」と日霑上人の興師略伝にもありますが、幼少の頃からすでにその非凡であられたことが想像されます。幼くして父を失なったため、駿河国(静岡県)富士河合の外祖父由比入道に養なわれ、附近の蒲原荘の四十九院に上って仏法を学び、兼ねて良覚美作阿闍梨から漢学を、冷泉中将隆茂について歌道・書道を究められました。特に能筆の才腕は素晴らしく、後年日蓮大聖人のお手紙を代筆されたり、あるいは重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその見事な数多い筆跡を拝することができます。 正嘉二年、日蓮大聖人が立正安国論執筆に当り駿河加島荘岩本の実相寺において一切経を閲覧された時、久遠の師資ここに相い会し、大聖人の弟子となられました。それ以後は、内にあっては影の形に随うが如く常に大聖人のおそばを離れずお給仕申し上げて弟子の道を尽くし、外にあっては、甲斐・駿河・伊豆・遠江の各地において折伏弘教の大法将として活躍されました。とくに弘長元年の伊豆ご流罪、文永八年の佐渡ご流罪には大聖人と艱苦を共にされました。このように師に対する不断の奉仕と熱烈な信仰により、師弟相対の上からおのづと大聖人の真の教えを会得されたのです。 先にも述べた通り日興上人の折伏はすさまじいものがあり、あの壮烈を極めた熱原の法難も、その大折伏に対してひき起こされたものでした。しかし大聖人の指導と日興上人の指揮によって信徒は一致団結して退転することなく、死地にあっても従容泰然として声高らかに妙法を唱えたのです。弘安五年九月に大聖人から一切の仏法を付属され、十月十三日には身延山の貫首としての付属も受けられました。 大聖人滅後、関東方面の五老僧達は権勢を恐れて軟化し、もろもろの師敵対謗法をおかし、次第に大聖人の正義を失ないましたが、日興上人はいささかも教義を曲げることなく、正義を守り抜かれました。身延に在ること七年、地頭の四箇の謗法により身延の山もついに魔の栖と化してしまい、断腸の思いで去ることを決意されました。これも偏に”日興一人本師の正義を存して本懐をとげ奉るべき者”との信念によるものと拝されます。 そして戒壇の大御本尊をはじめとしてすべてのご霊宝を富士へお移しし、大聖人のご遺命によって広布の基盤をこの地に奠められました。富士山に本門戒壇を建立するということは深いご仏意によることであり、日興上人によってその第一歩が印されたのです。 後年五老僧中の日朗師は日興上人のもとに来て前非を悔い、また日頂師も富士に帰伏しています。これらの史実は”大聖人の仏法、富士に在り”という明らかな証拠といえましょう。富士へ移った日興上人は南条時光殿の寄進により大石寺を創立して戒壇建立の基礎を築き、門下の養成、御書の結集、全国的な折伏弘教、あるいは国家諌暁と、広宣流布への指揮をとられました。 このころ弟子の日尊師があることから破門された時、発奮して三十六ヶ寺を建立し許されたといわれています。日興上人門下の清純な信心と盛んな折伏精神をよく物語るものといえましょう。 かくて本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、八十八才の長寿をまっとうされ、元弘三年(=正慶二年、一三三三年)二月七日薪尽きて火の滅するが如く安祥として富士重須の寺(現在の北山本門寺)でご入滅されました。 大聖人滅後七百年、室町・戦国時代の動乱の中、また布教活動弾圧の江戸時代を経、連綿として法灯が厳護されてきた根元は、この日興上人の死身弘法、令法久住のお働きがあったからこそといえます。このお徳を偲び、当時の法華講総講頭池田の発願により、日興上人ご誕生の地である鰍沢に正宗寺院が建立されると承っています。教化弘通の一事を畢生の念願とされた日興上人が寂光土におわしまして、いかほどお喜びのことかと拝察し奉るものです。 この日興上人の御精神を精神として、広宣流布を目指し僧俗一致して前進することが、ご鴻恩に報い奉る唯一の道であり、興師会を報修する精神なのです。 |
大聖人お誕生法要
宗祖誕生会は、御本仏日蓮大聖人の末法ご出現をお祝い申し上げ、ご報御のためにご誕生日の二月十六日に奉修される行事です。
末法という時代に、日蓮大聖人がご出現になり、衆生を救済されるということを印度のお釈迦様が予言されています。釈尊滅後一千年を正法時代、次の一千年を像法時代、その後を末法時代といいます。そして、正像二千年間はお釈迦様の教えで利益もありますが、末法の時代に入ると、仏法が隠沈し、闘諍や言訟が盛んになり、人心が荒廃して濁悪の時代となってお釈迦様の仏法では救われなくなるのです。 このような時代にたいして法華経には、涌出品にあらわれた上行等の四菩薩がふたたび出現して衆生を救済されることが予証されてあり、神力品に 「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅せん」 と、その赫々たる人格活動を説かれています。 わが国では平安末期から鎌倉時代へ移るころになると、次第に悪世末法の相をあらわしはじめました。近親相い争う保元・平治の乱、さらに承久三年には日本未曾有の大事件、前代未聞の下剋上である承久の変が起こり、甚だしく人倫の乱れた世相となってきました。また打ち続く天災地変等によって穀物も稔らず多勢の餓死者を出し、疫病が流行し、盗人が横行し、目を蔽うような悲惨な世となったのです。これを仏教上から見ると、釈尊の予言のように世は正像二千年を過ぎて「闘諍言訟、白法隠沈」の末法時代に入り、釈尊の仏法がまさに隠沈しようとする姿を示したものといえます。 この時に当って後五百歳広宣流布の金言通り、日蓮大聖人が末法万年尽未来際までの一切衆生を救済する御本仏として日本にご誕生になったのです。すなわち保元の乱が起って六十六年後、承久の変の翌年、末法に入って一七一年、後堀河天皇の貞応元年(一二二二年)二月十六日に貫名次郎重忠を父とし、梅菊女を母として安房の国(千葉県)長狭郡東条小湊でご誕生あそばされ幼名を善日麿と称されました。 大聖人はご自身の出生を御書の中に 「海人が子なり」(御書一二七九ページ) 「旃陀羅が子なり」(御書四八二ページ) 「民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり」(御書一二五八ページ) とおゝせられているように、漁師の子としてご誕生なさいました。 これはご自身示同凡夫のお姿として出生され、みずから民衆の中に入って、末法濁悪の下劣の機根である一切の大衆を救済されるためにほかなりません。 安房の国東条郷には天照太神の御厨があり、日本第一の地であるといわれていました。その地に誕生されたことも偶然ではありません。聖人御難事に 「安房の国長狭郡の内東条の郷・今は郡なり、天照太神の御くりや右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや今は日本第一なり」(御書一三九六ページ) と申されています。ご誕生の地といい、また釈尊の入滅が二月十五日であるのに対し、大聖人が二月十六日に誕生されていることなどは、釈尊の仏法が没して、この国に御本仏が出現されるという不思議な因縁を示すものといえましょう。 大聖人のご出生については種々の不思議な瑞相が伝えられています。日興上人はこれを承って「産湯相承事」として記し置かれています。ある夜、おん母君が比叡山に腰をかけ、近江の琵琶湖の水で手を洗い、そして富士山から昇った日輪を胸に懐いた夢をみました。不思議に思っておん父に話したところ、父もまた不思議な夢をみたというのです。それは、虚空蔵菩薩がかわいらしい児を肩にのせてあらわれた。そしてその虚空蔵菩薩のいうことには、この児は上行菩薩であり、行く末は一切衆生を救う大導師となる方である。この児をあなたに授けよう、といって消えてしまった。実に不思議なことであると語り合ったのです。このあとでおん母は懐妊を覚えました。 またご誕生の日にも次のような夢を見ました。一本の青蓮華の花が開いて、そこから泉が涌き出ました。その清水をもって産湯をつかわれた。余った清水を四方へ注ぐとあたり一面は金色に輝き、まわりの草や木には一斉に花が咲き実がなりました。まことに末法の御本仏のご出現にふさわしい不思議な、そして荘厳な霊夢であったと拝されます。 現在総本山では、毎年二月十六日の大聖人ご誕生会には、五重の塔のお塔開きが行なわれ、末寺においてもそれぞれ法要を修し、大聖人のご誕生をお祝い申し上げています。 法華経宝塔品において、突然、多宝塔が涌現し、多宝仏が釈尊の説く法華経は皆な是れ真実なりと証明したのは、きわまるところ寿量文底の南無妙法蓮華経すなわち久遠元初名字の妙法蓮華経の真実を証明しているのであり、したがって多宝塔は大曼荼羅の姿でもあります。また阿仏房御書に 「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」(御書七九三ページ) とおおせになっているように、私達の当体が本来、宝塔であり、お題目を唱える時、私達の当体は宇宙の全体生命である妙法とあらわれることになるのです。五重の塔は一切の万物が生れ出る本源を意味し、とくに塔の中に大御本尊を安置してありますので、本仏大聖人のご当体をもって、その中心の大霊格と拝するのです。 二月十六日は一往大聖人が安房の国に貫名重忠を父とし、梅菊を母として呱々の声をあげられた日と考えますが、再往は久遠元初の御本仏出現の日であり、御本尊すなわち宝塔涌現の日であります。 この意義のもとに総本山では法主上人が大衆を随え、御影堂においてご報恩の読経の後、五重の塔の〈お塔開き〉を行なわれ読経唱題してお誕生会を奉修しています。このお塔開きは大聖人の末法ご出現をあらわすのであり、また五重の塔が西の方を向いているのは、大聖人の仏法が中国・印度を経て世界に広宣流布するようすを、太陽が東から昇って西を照らし、全世界に光明をおよぼすのになぞらえているのです。 |
立宗会(宗旨建立法要)末法の御本仏日蓮大聖人が宗旨を建立し、立宗を宣言あそばされた建長五(一二五三) 年四月二十八日を記念して御報恩申し上げる法要です。 立宗を決意された大聖人 大聖人は十六歳の時、安房国(千葉県)清澄寺において道善房を師として出家得度され、 京都や奈良などに十数年にわたって遊学研鑚されました。 生まれながらにして、深い法華経の境地に立たれていた大聖人は、その遊学研鑚のなかか ら現実の世相をとおして、一切衆生の不幸の根源は、時代に不相応の低劣な邪法を信仰する ところにあり、末法万年の時代を救うべき道はただ一つ、法華経寿量品の文底に秘し沈めら れた妙法蓮華経に帰依する以外にないとの裏付けを得られるとともに、その確信を一層 強くされました。 しかし、ひとたびこれを言い出せば、山のような大難が降り懸かり、身命にまで及 ぶことは法華経の文に明らかでありますが、大聖人は、いかなる三障四魔が競い起こって も、末法万年の一切の民衆を暗黒の苦悩から解放しようとの大慈悲によって、ここに立宗 を決意し、宣言の場所を師匠・道善房の住む清澄寺に定められました。 内証を宣示(三月二十八日) 古来、宗門には、立宗に三月二十八日と四月二十八日の二回があったとの言い伝えがあり、 三月二十八日は法界に対する内証の題目の開宣であり、顕正に即する破邪の説法が面とされるのに対し、 四月二十八日は外用弘通の題目の開示であり、破邪に即する顕正の説法が面となっています。 さらに、三月二十八日は少機のために大法を示されたのに対し、四月二十八日は万機のために題目を 弘通せられた、との意義が拝せられます。 三月二十八日を選ばれた主な理由は、幼い時から「日本第一の智者にしてください」と祈った清澄寺 の虚空蔵菩薩への功徳回向と、師匠の道善房に対する報恩にあったのです。この日、大聖人は、一人、 清澄山上の嵩ケ森に立ち、遠く太平洋の彼方に差し昇る日の出を待たれました。 やがて、水平線上にその姿が現れると、起立合掌されていた大聖人の口から「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」 と、末法万年の闇を照らす下種の題目が、厳かに熱誠を込めて力強く唱え始められました。 大聖人は、御自身の胸中に具え給う題目をもって、太陽をはじめ全宇宙の生命に厳かな開宗の宣言を発せら れたのです。この題目こそ、今まで誰人も唱え出すことのなかった自行化他にわたる題目です。 悠久仏教史上二千余年の間に、いまだ誰人も説かなかった七文字の題目は、今ここに初めて、大聖人によって唱え出されました。 インド応誕の釈尊の教えはもちろん、中国最高の碩徳と言われる天台大師、大学匠・妙楽大師も、 そして日本天台宗の開祖・伝教大師等の教えも、たしかに法華経を中心としてはいますが、これらは 修行を積み、善根の厚い者を対象とした本果の教法でありました。 日蓮大聖人が唱え出された題目は、久遠元初の法華経の体であり、直達正観、即身成仏、すなわち 一切の生命が、この法を信ずる一念で直ちに成仏するという前代未聞の教えです。あらゆるものをある がままにおいて根底から救う仏法、その仏法が我が国、安房の地に初めて顕れたのです。 凡眼をもって見れば、それは単に大聖人の肉声であったでしょう。しかし、仏眼をもってするならば 、その声は一切の森羅万象を根本から揺り動かす大音声でありました。 |
立宗(四月二十八日)
立宗(四月二十八日)
やがて、時は移って四月二十八日午の刻(正午)となり、清澄寺諸仏坊の持仏堂には、学問修行 を終えて帰山した大聖人の説法を聞こうと、多くの僧俗が集まっていました。そこで、日蓮と改名 された大聖人の本格的な立宗の第一声が朗々と響き渡ったのです。身命を賭した堂々たる気魄、さ わやかで淀みのない弁舌、豊かな知識は、いつしか聴衆の心をしっかりとつかんでいました。 しかし、説法が進むにつれ、その感嘆は驚きと憎しみに変わっていったのです。末法という時代 の説明から、釈尊の仏法が既にカを失ったこと、既存の八宗、十宗等の頼むに足らぬ理由を理路整然 と述べ、特に禅は天魔、念仏は堕地獄の法であることを強調されました。また、これらの謗法の諸宗 を信仰する結果として、下剋上の気風が増長し、社会秩序の顛倒と道義の頽廃、天変地夭が起こることを喝破されました。 結局、末法の民衆を救うことができる教えは、一切法の根源である南無妙法蓮華経以外にはなく、 早く禅、念仏等の邪法を捨てて、この妙法を信ずべきであると勧められたのです。 このような説法に対し、謗法の執着が強い地頭の東条景信は、かねて三月の説法を伝え聞いてお り、大聖人の説かれるところを理解せず、瞋りと憎しみを懐いて怨嫉誹謗の徒となり、のちには無 間大城の苦を受けることとなったのです。 しかし、下種の妙法の功徳は、地によって倒れた者が、また地によって立ち上がるように、これ らの誹謗した者も、一度はその罪によって悪道に堕ちますが、それが縁となって逆に成仏への道が開かれるのです。 立宗会の意義 大聖人の立宗宣言は信と謗、善と悪の一切に対して行われたのであって、根本は大聖人の南無妙法蓮華経 の一念、大慈悲の一念が国土・衆生・五陰の三世間にあまねく浸透し、知ると知らざるとにかかわらず、 また信・謗のいかんにかかわらず、一切民衆と宇宙法界に妙法を下種されたところに、立宗宣言の究極の 意義があると言えましよう。 この上から、総本山においては、毎年三月二十八日に立宗内証宣示報恩会を、四月二十八日に立宗会を奉修し、 宗祖日蓮大聖人の大慈大悲に対し奉り、御報恩謝徳申し上げております。 この儀式に際して私達は、不退転の弘通誓願をなされた大聖人のお心を拝し奉り、いよいよ信心を強盛に、 死身弘法の決意を新たにすべきであります。 (大日蓮 平成24年 3月号) |