勤行の実践
勤行は、信心をしていくうえの基本であり、最も大切な修行です。勤行なくして信心はありえません。
日興上人が書かれた古い記録には、
「大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を 待つべきなり」(日興跡条条事、聖典五一九頁)
とあります。
また日寛上人の当流行事抄には、
「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行但両品に限るなり」(聖 典九四八頁)
とあるように、日蓮大聖人、日興上人の古より方便・寿量の両品を読み、題目を唱えることが当宗の勤行であり、修行の根本であることがわかります。
「勤行」とは、その字のとおり、「行を勤める」ことであり、また「勤め行う」ことでもあります。毎日、朝夕五座三座の勤行を真心込めて、たゆまず実践することによって、成仏という、真の幸福境界に到達することができるのです。
御法主日如上人猊下御指南(大日蓮平成二二年九月号 六十五ページ)
「毎日の心掛けとしては、朝晩の勤行をしっかり行うことが最も大切であります。
朝夕の勤行は仏道修行の基本であり、大御本尊様の計り知れない大きな功徳を受ける元であります。
覆(ふく)・漏(ろ)・汙(う)・雑(ぞう)の四つの失(※)に陥(おちい)らないためにも、けっして欠かしてはならない
大切な仏道修行であります。
そもそも勤行とは時間を決めて行うもので、日によって勤行の時間が異なるというのではなくして、時間を決めて毎日、欠かさずに行うことが必要であります。
また家族がそろって行うことも大切であります。
(※)
覆(ふく)・・覆る
漏(ろ)・・正法を聞いても漏れる。
汙(う)・・・命と心の汚れ
雑(ぞう)・・・正法・正義に邪法・邪義を交える。
(平成二十七年第五期夏期講習会登山テキストより)
五座三座
初座では、正しい仏法を昼夜にわたって守護している諸天善神に対し、東天に向かって、「方便品」と、「自我偈」を読み、「引き題目」を唱えて法味を供えるのであります。
法華経安楽行品に、
「虚空の諸天、法を聞かんが為の故に、亦常に随侍せん。・・諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し、能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん」(開結四六二頁)とあり、御書に、
「一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり」(平左衛門尉頼綱への御状、 御書三七八頁)
とありますように、諸天善神は正法の法味、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経を食することによって威光を盛んにし、衆生国土を守護する力が強くなってくるのです。ゆえに、初座で諸天善神に対し法味を送り、その威光の倍増を祈るのであります。
二座では、久遠元初の本仏の当体である本門戒壇の大御本尊に対し奉り、その偉大な功徳を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。
三座では、一切衆生の主師親である本仏日蓮大聖人を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。続いて、二祖日興上人、三祖日目上人、日道上人、日行上人等の歴代の法主上人に報恩謝徳を申し上げます。
四座では、広宣流布の祈願をします。日興上人以来、代々の法主上人によって、一日も欠かすことなく大石寺において丑寅勤行んが行われ、広宣流布の祈願がなされています。
私たちも、この四座で大聖人の御遺命である、一天四海・皆帰妙法の広宣流布を祈念し、その達成のため、精進することをお誓いするのです。
次に、自己自身の無始已来に犯した謗法の罪障消滅と信心倍増、さらに無事息災等、諸々の祈念もここで行います。
五座では、先祖への追善回向を行ないます。この追善回向とは、読経唱題の功徳を先祖に対して回り向わしめることであります。先祖を成仏に導くのも、地獄の苦にあわせるのも、法の邪正によるのですから、末法独一本門の御本尊に成仏を願うことこそ、唯一無二の追善供養になるのです。
最後に、「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と観念し、題目三唱して勤行を終了しますが、この文は、大法界の有情非情のすべてがこの南無妙法蓮華経の功徳に浴し、みな平等に成仏得道し、寂光土となるように願うのであります。
なお、四座までは、お経のあとに引き題目を唱えますが、これは、文底下種の妙法を遠く一天四界に流布する意義を顕わすため、長く引いて唱えるのでありますまた夕の勤行には初座と四座を除きます。
方便品寿量品読誦
勤行の時に方便品と寿量品を読むのは、
月水御書に、
「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」(御書 三〇三頁)
とあるように、この両品は、法華経の迹門と本門の中心であり、大聖人も日常お読みになっていました。これは、題目の意義と功徳を助け顕すためであり、助行といいます。
日寛上人の当流行事抄には、
「譬えば灰汁の清水を助け塩酢の米麺の味を助くるが如し、故に助行と言うなり」(聖 典九二二頁)
とあります。すなわちお経を読むのは、例えば、洗濯をするのに洗剤を加えて水の助けとし、食物の味をひきたたせるための調味料のようなものであるといわれるのです。これに対して、題目を唱えることを正行といいます。
よく、信心を始めたばかりの人の中には、忙しいとか面倒だといって、お経を読まずに題目だけを唱える人がいます。しかし、これは誤りであって、大聖人の仰せのように、正しい勤行は、きちんとお経を読み、題目を唱えることが大切であります。
心構え・態度
心構え・態度 勤行は、仏様に感謝申し上げ、祈願をする重要ん儀式ですから、姿勢を正し、きちんとした身なりで行ないましょう。暑いからといって裸に近い姿であったり、寝巻きのまま行なうようなことは慎むべきです。勤行することに化他の行も含まれているのですから、周囲の人への影響も考えて、節度ある態度が大切であります。唱題のときの心構えについて、五十九世日亨上人は、
「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい、口より 出す声は早口であったり粘口であったりしてはならぬ、落着いて確固と尻強に中音に唱 えねばならぬ。唱える数には定まりがない、多くとも少なくとも其の人の都合であるが、身体の方は両の指掌を合わせて指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向うように、其して身体中が歓喜で踊躍するようにありたい。御本尊と吾等と一体不二に成るまで励まねばならぬ」(日蓮正宗綱要、一三四頁)
と述べておられます。よくよく熟読玩味すべき教示です。ここに仰せのごとく、唱題の数に決まりはありませんが、数多く心ゆくまで唱えることが最も大切です。また、お経の文は、正確に発音し観念文も声こそ出しませんが、語句を正しく理解し記憶すべきであります。そのためにも、なるべくお教本を見て勤行することが望ましいのです。姿勢も、背筋をきちんと伸ばし、両手を自然な形で合唱しましょう。勤行の時間は、基本的には朝夕の二回ですが、特に何時という決まりはありません。職業などによって事情が異なりますから、自分の生活に合わせて、無理のないように行ないます。とくに永続して実行するために、勤行を、生活の中の習慣とすることが大切です。しかし、毎日の勤行が惰性に流れてしまっては仕方がありません。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」
という、真剣さを基本とすることを忘れてはならないと思います。
ここで、朝夕の勤行の心構えを言うならば、各座の観念文をしっかり念ずることは勿論ですが、朝の勤行は、一日の出発点ですから、妙法の広宣流布を願う仏子として、一日を有意義に過し、生活の上にも妙法の功徳を実証できるよう御祈念申し上げ、爽やかな一日のスタートとなるように五座を勤めます。また、夕の勤行では、仏法僧の三宝に加護された一日の生活を感謝申し上げ、三座の勤行とするのです。こうして、朝夕の勤行を、水の流れるように欠かさず正しく実践してゆくことが信心の肝要であり、功徳の源泉となるのです。
勤行の功徳
生命は十界互具といって、あらゆる世界を具しているので、縁にふれてさまざま生命作用を起こします。例えば、コップの水は無色透明でも、周囲の光によってさまざまな色彩に変化するように、私たちの生命も、周囲の縁によって種々に変化してゆきます。この中で、最も崇高かつ絶対的な幸福境界の生命作用を仏界といいます。この生命を湧現させるためには、大聖人出世の本懐である御本尊に向って読経唱題する以外にありません。勤行は、御本尊に、他力本願的にお願いするためのものではなく、また、自力本願的な難行苦行でもありません。あくまでも、対境の御本尊と、私たちの信心が境地冥合することによって、はじめて仏の生命が凡心に湧現し躍動しはじめるのであります。それによって、毎日の生活を歓喜に満ち、力強く送ることができるのです。
大聖人は、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う」(法華初心成仏抄、御書一三二〇頁)
「南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり 甚深なり是を信受すべし」(聖愚問答抄、全四九七頁)
また日寛上人は、大御本尊の功徳を讃えて、
「此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として 滅びざるなく、福としてきたらざるなし理として顕われざるなきなり」(観心本尊抄文 段上、富士宗学要集、四-二一三頁)
と仰せられております。このように、強い信力と行力があってはじめて御本尊の偉大な仏力と法力がこれに呼応し、この四力があい契って大利益を生ずるのです。しかし、
「魔競はずば正法と知るべからず」(兄弟抄、御書九八六七頁)
とあり、また、
「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。」(四条金吾殿御返事、御書七七六頁)
と説かれているように、成仏の大直道である勤行を、朝夕欠かさず行なうことは、なかなか容易なことではありません。大聖人は、御書のいたるところに、水の流れるような不退の信心を貫くことが肝要である旨を御教示あそばされています。
「六郎次郎殿御返事」に、
「正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし」(御書一一〇四頁)
とあるように、末法の利益は顕益よりも、むしろ冥益が表であるといわれています。信心によって病気が治った、生活苦が解決したなどの利益は数多くの人が体験することです。
これは、御本尊の功徳の一端を示されたもので、このような表面的・一時的な利益を顕益といいます。しかし、御本尊の功徳は広大無辺ですから、信心の目的もさらに深く大きいものでなければなりません。すなわち、あたかもこんこんと湧き出て尽きることのない清浄な泉のごとく、生命の奥底より常に金剛不壊の仏界を湧現し、自己の人生を力強く向上させていく境界こそ冥益であり、不求自得の大利益といえましょう。
六巻抄に、
「法華経を信ずる心強きを名ずけて仏界となす」(三重秘伝抄、聖典八一〇頁)
という言葉があります。日夜勤行に励み、水の流れるような信心を三年、五年、十年と貫いてゆくことによって、ますます己心の仏界が開けていき、仏の境界に近づいてゆくのです。例えば、幼児の成長は、一日二日で計ることはできません。ところが、一年二年の歳月を経てみると、驚くほどに成長しています。そのように、真面目に勤行を実行する人と、そうでない人とは、境界も功徳もいつのまにか大きな開きができることはまちがいありません。
今日も、真心こめて音吐朗々と勤行を実践し、
「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す」(『就註法華経口伝』、御書一七四九頁)
の金言のように、御本尊の大慈悲に包まれて衆生所遊楽の人生を力強く築いてゆきましょう。
先祖回向
毎日の勤行において、先祖代々の諸精霊の追善回向を行なっています。仏教徒に限らず、人間として、自分の先祖や縁ある人々に対して、回向することは、情として当然であります。今日、世間一般では,「回向」という言葉は、死者に対してお経を読んだり、あるいは香華を供えて、故人の冥福を祈ることだけを指しているようです。これも確かに回向に相違ありません。しかし、本来回向とは、このような狭い、通俗的なもののみを指すのではなく、広い深い宗教的哲学的意味を含むものなのです。
これを知らず、世俗的な考え方で、ただ手を合わせて祈ればよいと思ったり、また死者や先祖の位牌などを仏壇に祀ることだけでは、少しも追善回向にならないのです。そればかりか、邪宗邪義によって先祖回向を行なった場合は、その苦しみを取り除き、成仏に導こうとする行為が、先祖はもちろん、その本人までも苦しむ結果になり、かえって目的に反してしまいます。
そこで、回向の正しいあり方についてかんがえてみたいと思います。
回向とは、梵語のパリナーマ(Parinama )という言葉の翻訳で、元来は、「転変」とか、あるいは、「発展」を意味する言葉であります。これらを含めて、「回転趣向」と翻訳し、さらに簡単に縮めて「回向」と名づけたのであります。すなわち、己の一切の善い行ないの功徳を転じて他に施し、向かわせるから回向というのであります。
大聖人は御書に、
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向 するを上品とす。存生の父母にだに尚功徳を回向するを上品とす。況や亡親にをいてをや」(十王賛嘆抄、新定一-六九頁)
とお示しのように、追善のためには、功徳を回向することが最上であり、上品の孝養であることがわかります。
しかも、同抄によれば、追善をもって功徳を回向する福は、七分の一を亡くなった人が受け、残りは全て回向した人に帰すると説かれております。回向とは、自分自身で積んだ功徳を他に回らすことによって自他共に利益を生ずることですから、進んで行うべきであります。
さらに、この回向には、三種の回向があるとされています。
まず第一は、菩提回向で、自分の功徳を回らして、菩提(悟りの道)に趣向することをいいます。
法華経譬喩品の中に
「我れ方便を以って、汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり」(開結一九九㌻)
とあるように、舎利弗が、小乗教において、「滅度に至る」(身を灰にし、智を滅却して空無に帰する悟り)と思っていたのを、仏の種々の説法により、小乗を恥じ、大乗を慕う心を生じ、その心を大乗に回転して。極大乗の法華経に趣向したことがその例です。
第二は、衆生回向で、法華経化城喩品に、
「願わくは此の功徳わ以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」 (開結三三三㌻)
とあるように、自分の修得した功徳を、一切の人に施して成仏の大業を成ぜしめようとすることであります。
第三は、実際回向で、法華経提婆品に
「勤求して此の法を獲て、遂に成仏を得ることを致せり」(開結四二四㌻)
と説かれるように、自分で法華経の修行の功徳をもって、直に仏身を成ずることであります。これらに共通して言えることは、自己の功徳善根を積むことが肝要であります。
大聖人は観心本尊抄に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(全二四六㌻)
と仰せのように、法華経本門寿量品の文底の南無妙法蓮華経を、今日の人々のために下種されたのであります。
私たちは、疑うことなく、御本尊に唱題し、併せて折伏を行ずることが、真の功徳回向となり、自他ともに即身成仏の利益を得るのであります。
唱題について
唱題とは宗祖日蓮大聖人様が『日女御前御返事』に、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり」
(御書一三八八㌻)
と仰せのように、日蓮正宗の信仰において最も大切な修行は、御本尊様を深く信じて「南無妙法蓮華経」と、御題目を唱えることです。
御題目の「妙法蓮華経」とは、久遠元初という仏法根源の御本仏の尊い悟りそのものであり、「南無」は自身の命を奉る帰命(きみょう)という意味があります。つまり「南無妙法蓮華経」とは、御本尊様に命を奉るという意味です。
唱題の意義と功徳
唱題の意義と功徳は広大無辺で、言葉では言い尽くすことはできませんが、そのうち五つの意義と功徳を述べます。
まずは、「即身成仏」ということです。
御本尊様に向かって御題目を唱えるとき、御本仏日蓮大聖人様の「仏力」と、御本尊様の「法力」と、御本尊様の「法力」と、私たちが御本尊様を信じる「信力」と、唱題修行の「行力」との四つの力が一致和合して、
「此の五字は凡夫を仏となす」(同一四九二㌻)
と仰せられた即身成仏の功徳を成就することができるのです。
次に「御報恩謝徳(ごほうおんしゃとく)」ということです。総本山第60世日開上人は、
「仏法の信心修行は知恩報恩に過ぎたるはなし(中路)法華経の外に知恩報恩の道これなし。主師親の三徳大恩を知るは法華経に限る。故に法華経を信ずるは知恩報恩の本なり」(日開上人全集四九六㌻)
と、法華経つまり御本尊様への信仰こそが、下種の御本仏の大恩を知り、その大恩に報いる道であると仰せられています。具体的に言えば唱題が知恩報恩の本なのです。
三に「罪障消滅・所願成就」ということです。
宗祖大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(御書四〇六㌻)
と仰せです。これは唱題によって過去世からの悪業の罪障を消滅すると同時に、必ず幸福が訪れるのですから、御本尊様に向かい真心から唱題することが肝心であると勧められているものです。
四に「臨終正念」ということです。臨終正念とは、臨終の生死の境の時に、余念なく御本尊様を信じることです。大聖人様は、
「我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(同七五一㌻)
と仰せられ、弟子檀那であっても信心の薄い者は臨終正念ならずに地獄に堕ちると示されています。
総本山第26世日寛上人は『臨終用心抄』に、
「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸(こころがけ)に依る也」(富士宗学要集第三巻二五九㌻)
と、臨終正念は普段からの信心修行の積み重ねによる功徳であると仰せられています。この御指南の通り、日々弛まず唱題に励むことが大切です。
五に「折伏成就に通じる唱題」ということです。前御法主日顕上人猊下が、
「コップのなかに水を一杯に入れ、さらにそこへ水を注げば必ず外へあふれます。そのように、皆様方の命、生活のなかに妙法唱題の功徳が真に入りきったならば、必ず他に向かってこの妙法の功徳を『五十展転随喜の功徳』として示していくところの姿が顕れると思うのであります」(大白法四七五号)
と御指南されたように、唱題には必ず折伏成就に通じる意義と功徳があるのです。
このほかにも重々の意義と功徳があります。御本尊様を深く信じ、真剣に御題目を唱える人には、必ず法華守護の諸天善神も動き、折伏を達成させ、また間断なく守護してくださるのです。真剣に唱題をすれば、必ず困難を乗り越える道が開けます。また悪業の宿命を転換し、善縁にも恵まれます。そして日々、御本尊様の加護を得て、感謝に満ちた人生を送れるようになるのです。
このように、一切を開く鍵はまさしく唱題にあるのです。こうした功徳の体験は、本紙でも紹介していますが、皆さんの周りの法華講の同志の中にも体験を持った方がたくさんおられることでしょう。
広布唱題会へ参加して折伏に行こう
総本山をはじめ全国の末寺では、毎月第一日曜日の午前九時から,広布唱題会が行われています。この広布唱題会は、私たちの罪障消滅や御本尊様への御報恩感謝を申し上げるだけでなく、御本仏の大願である広宣流布を祈り、私たちの折伏が成就するための原動力となる唱題会なのです。
大聖人様は『諸法実相抄』に、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし」
(御書六六六㌻)
と御指南されています。私たちが広宣流布を願い、縁ある人に日蓮正宗の信心をして幸せになってもらいたいと強く祈るならば、不思議と折伏する機会が訪れたり、折伏の追い風となる出来事が起きたりするなど、必ず結果が顕れてきます。
御法主日如上人猊下が、「真剣に題目をあげ、祈り、動き、講中が一致団結・異体同心して折伏に立ち上がれば、諸天も必ず動き、折伏は達成できると固く信じます」(大白法六九〇号)
と仰せられたように、広布唱題会に参加して、御住職をはじめ法華講の同志と共に真剣に唱題し、御本尊様への確信と慈悲の気持ちを胸に、果敢なる折伏に打って出ましょう。
(大白法平成十九年二月一日号)
その他の御指南
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(同一三二一㌻)
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(同四〇六㌻)
御法主日如上人猊下御指南
「妙法を唱えていくことによって、我々の持つ煩悩がそのまま菩提に変わる。煩悩即菩提、生死即涅槃、そういう境界に立つことができるのです」(功徳要文 二〇㌻)
日興上人が書かれた古い記録には、
「大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を 待つべきなり」(日興跡条条事、聖典五一九頁)
とあります。
また日寛上人の当流行事抄には、
「開山已来化儀・化法四百余年全く蓮師の如し、故に朝暮の勤行但両品に限るなり」(聖 典九四八頁)
とあるように、日蓮大聖人、日興上人の古より方便・寿量の両品を読み、題目を唱えることが当宗の勤行であり、修行の根本であることがわかります。
「勤行」とは、その字のとおり、「行を勤める」ことであり、また「勤め行う」ことでもあります。毎日、朝夕五座三座の勤行を真心込めて、たゆまず実践することによって、成仏という、真の幸福境界に到達することができるのです。
御法主日如上人猊下御指南(大日蓮平成二二年九月号 六十五ページ)
「毎日の心掛けとしては、朝晩の勤行をしっかり行うことが最も大切であります。
朝夕の勤行は仏道修行の基本であり、大御本尊様の計り知れない大きな功徳を受ける元であります。
覆(ふく)・漏(ろ)・汙(う)・雑(ぞう)の四つの失(※)に陥(おちい)らないためにも、けっして欠かしてはならない
大切な仏道修行であります。
そもそも勤行とは時間を決めて行うもので、日によって勤行の時間が異なるというのではなくして、時間を決めて毎日、欠かさずに行うことが必要であります。
また家族がそろって行うことも大切であります。
(※)
覆(ふく)・・覆る
漏(ろ)・・正法を聞いても漏れる。
汙(う)・・・命と心の汚れ
雑(ぞう)・・・正法・正義に邪法・邪義を交える。
(平成二十七年第五期夏期講習会登山テキストより)
五座三座
初座では、正しい仏法を昼夜にわたって守護している諸天善神に対し、東天に向かって、「方便品」と、「自我偈」を読み、「引き題目」を唱えて法味を供えるのであります。
法華経安楽行品に、
「虚空の諸天、法を聞かんが為の故に、亦常に随侍せん。・・諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し、能く聴く者をして、皆歓喜することを得せしめん」(開結四六二頁)とあり、御書に、
「一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食なり」(平左衛門尉頼綱への御状、 御書三七八頁)
とありますように、諸天善神は正法の法味、すなわち文底下種の南無妙法蓮華経を食することによって威光を盛んにし、衆生国土を守護する力が強くなってくるのです。ゆえに、初座で諸天善神に対し法味を送り、その威光の倍増を祈るのであります。
二座では、久遠元初の本仏の当体である本門戒壇の大御本尊に対し奉り、その偉大な功徳を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。
三座では、一切衆生の主師親である本仏日蓮大聖人を讃歎し、報恩謝徳を申し上げます。続いて、二祖日興上人、三祖日目上人、日道上人、日行上人等の歴代の法主上人に報恩謝徳を申し上げます。
四座では、広宣流布の祈願をします。日興上人以来、代々の法主上人によって、一日も欠かすことなく大石寺において丑寅勤行んが行われ、広宣流布の祈願がなされています。
私たちも、この四座で大聖人の御遺命である、一天四海・皆帰妙法の広宣流布を祈念し、その達成のため、精進することをお誓いするのです。
次に、自己自身の無始已来に犯した謗法の罪障消滅と信心倍増、さらに無事息災等、諸々の祈念もここで行います。
五座では、先祖への追善回向を行ないます。この追善回向とは、読経唱題の功徳を先祖に対して回り向わしめることであります。先祖を成仏に導くのも、地獄の苦にあわせるのも、法の邪正によるのですから、末法独一本門の御本尊に成仏を願うことこそ、唯一無二の追善供養になるのです。
最後に、「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と観念し、題目三唱して勤行を終了しますが、この文は、大法界の有情非情のすべてがこの南無妙法蓮華経の功徳に浴し、みな平等に成仏得道し、寂光土となるように願うのであります。
なお、四座までは、お経のあとに引き題目を唱えますが、これは、文底下種の妙法を遠く一天四界に流布する意義を顕わすため、長く引いて唱えるのでありますまた夕の勤行には初座と四座を除きます。
方便品寿量品読誦
勤行の時に方便品と寿量品を読むのは、
月水御書に、
「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」(御書 三〇三頁)
とあるように、この両品は、法華経の迹門と本門の中心であり、大聖人も日常お読みになっていました。これは、題目の意義と功徳を助け顕すためであり、助行といいます。
日寛上人の当流行事抄には、
「譬えば灰汁の清水を助け塩酢の米麺の味を助くるが如し、故に助行と言うなり」(聖 典九二二頁)
とあります。すなわちお経を読むのは、例えば、洗濯をするのに洗剤を加えて水の助けとし、食物の味をひきたたせるための調味料のようなものであるといわれるのです。これに対して、題目を唱えることを正行といいます。
よく、信心を始めたばかりの人の中には、忙しいとか面倒だといって、お経を読まずに題目だけを唱える人がいます。しかし、これは誤りであって、大聖人の仰せのように、正しい勤行は、きちんとお経を読み、題目を唱えることが大切であります。
心構え・態度
心構え・態度 勤行は、仏様に感謝申し上げ、祈願をする重要ん儀式ですから、姿勢を正し、きちんとした身なりで行ないましょう。暑いからといって裸に近い姿であったり、寝巻きのまま行なうようなことは慎むべきです。勤行することに化他の行も含まれているのですから、周囲の人への影響も考えて、節度ある態度が大切であります。唱題のときの心構えについて、五十九世日亨上人は、
「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい、口より 出す声は早口であったり粘口であったりしてはならぬ、落着いて確固と尻強に中音に唱 えねばならぬ。唱える数には定まりがない、多くとも少なくとも其の人の都合であるが、身体の方は両の指掌を合わせて指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向うように、其して身体中が歓喜で踊躍するようにありたい。御本尊と吾等と一体不二に成るまで励まねばならぬ」(日蓮正宗綱要、一三四頁)
と述べておられます。よくよく熟読玩味すべき教示です。ここに仰せのごとく、唱題の数に決まりはありませんが、数多く心ゆくまで唱えることが最も大切です。また、お経の文は、正確に発音し観念文も声こそ出しませんが、語句を正しく理解し記憶すべきであります。そのためにも、なるべくお教本を見て勤行することが望ましいのです。姿勢も、背筋をきちんと伸ばし、両手を自然な形で合唱しましょう。勤行の時間は、基本的には朝夕の二回ですが、特に何時という決まりはありません。職業などによって事情が異なりますから、自分の生活に合わせて、無理のないように行ないます。とくに永続して実行するために、勤行を、生活の中の習慣とすることが大切です。しかし、毎日の勤行が惰性に流れてしまっては仕方がありません。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」
という、真剣さを基本とすることを忘れてはならないと思います。
ここで、朝夕の勤行の心構えを言うならば、各座の観念文をしっかり念ずることは勿論ですが、朝の勤行は、一日の出発点ですから、妙法の広宣流布を願う仏子として、一日を有意義に過し、生活の上にも妙法の功徳を実証できるよう御祈念申し上げ、爽やかな一日のスタートとなるように五座を勤めます。また、夕の勤行では、仏法僧の三宝に加護された一日の生活を感謝申し上げ、三座の勤行とするのです。こうして、朝夕の勤行を、水の流れるように欠かさず正しく実践してゆくことが信心の肝要であり、功徳の源泉となるのです。
勤行の功徳
生命は十界互具といって、あらゆる世界を具しているので、縁にふれてさまざま生命作用を起こします。例えば、コップの水は無色透明でも、周囲の光によってさまざまな色彩に変化するように、私たちの生命も、周囲の縁によって種々に変化してゆきます。この中で、最も崇高かつ絶対的な幸福境界の生命作用を仏界といいます。この生命を湧現させるためには、大聖人出世の本懐である御本尊に向って読経唱題する以外にありません。勤行は、御本尊に、他力本願的にお願いするためのものではなく、また、自力本願的な難行苦行でもありません。あくまでも、対境の御本尊と、私たちの信心が境地冥合することによって、はじめて仏の生命が凡心に湧現し躍動しはじめるのであります。それによって、毎日の生活を歓喜に満ち、力強く送ることができるのです。
大聖人は、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う」(法華初心成仏抄、御書一三二〇頁)
「南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり 甚深なり是を信受すべし」(聖愚問答抄、全四九七頁)
また日寛上人は、大御本尊の功徳を讃えて、
「此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として 滅びざるなく、福としてきたらざるなし理として顕われざるなきなり」(観心本尊抄文 段上、富士宗学要集、四-二一三頁)
と仰せられております。このように、強い信力と行力があってはじめて御本尊の偉大な仏力と法力がこれに呼応し、この四力があい契って大利益を生ずるのです。しかし、
「魔競はずば正法と知るべからず」(兄弟抄、御書九八六七頁)
とあり、また、
「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。」(四条金吾殿御返事、御書七七六頁)
と説かれているように、成仏の大直道である勤行を、朝夕欠かさず行なうことは、なかなか容易なことではありません。大聖人は、御書のいたるところに、水の流れるような不退の信心を貫くことが肝要である旨を御教示あそばされています。
「六郎次郎殿御返事」に、
「正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし」(御書一一〇四頁)
とあるように、末法の利益は顕益よりも、むしろ冥益が表であるといわれています。信心によって病気が治った、生活苦が解決したなどの利益は数多くの人が体験することです。
これは、御本尊の功徳の一端を示されたもので、このような表面的・一時的な利益を顕益といいます。しかし、御本尊の功徳は広大無辺ですから、信心の目的もさらに深く大きいものでなければなりません。すなわち、あたかもこんこんと湧き出て尽きることのない清浄な泉のごとく、生命の奥底より常に金剛不壊の仏界を湧現し、自己の人生を力強く向上させていく境界こそ冥益であり、不求自得の大利益といえましょう。
六巻抄に、
「法華経を信ずる心強きを名ずけて仏界となす」(三重秘伝抄、聖典八一〇頁)
という言葉があります。日夜勤行に励み、水の流れるような信心を三年、五年、十年と貫いてゆくことによって、ますます己心の仏界が開けていき、仏の境界に近づいてゆくのです。例えば、幼児の成長は、一日二日で計ることはできません。ところが、一年二年の歳月を経てみると、驚くほどに成長しています。そのように、真面目に勤行を実行する人と、そうでない人とは、境界も功徳もいつのまにか大きな開きができることはまちがいありません。
今日も、真心こめて音吐朗々と勤行を実践し、
「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す」(『就註法華経口伝』、御書一七四九頁)
の金言のように、御本尊の大慈悲に包まれて衆生所遊楽の人生を力強く築いてゆきましょう。
先祖回向
毎日の勤行において、先祖代々の諸精霊の追善回向を行なっています。仏教徒に限らず、人間として、自分の先祖や縁ある人々に対して、回向することは、情として当然であります。今日、世間一般では,「回向」という言葉は、死者に対してお経を読んだり、あるいは香華を供えて、故人の冥福を祈ることだけを指しているようです。これも確かに回向に相違ありません。しかし、本来回向とは、このような狭い、通俗的なもののみを指すのではなく、広い深い宗教的哲学的意味を含むものなのです。
これを知らず、世俗的な考え方で、ただ手を合わせて祈ればよいと思ったり、また死者や先祖の位牌などを仏壇に祀ることだけでは、少しも追善回向にならないのです。そればかりか、邪宗邪義によって先祖回向を行なった場合は、その苦しみを取り除き、成仏に導こうとする行為が、先祖はもちろん、その本人までも苦しむ結果になり、かえって目的に反してしまいます。
そこで、回向の正しいあり方についてかんがえてみたいと思います。
回向とは、梵語のパリナーマ(Parinama )という言葉の翻訳で、元来は、「転変」とか、あるいは、「発展」を意味する言葉であります。これらを含めて、「回転趣向」と翻訳し、さらに簡単に縮めて「回向」と名づけたのであります。すなわち、己の一切の善い行ないの功徳を転じて他に施し、向かわせるから回向というのであります。
大聖人は御書に、
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違はざるを中品とし、功徳を回向 するを上品とす。存生の父母にだに尚功徳を回向するを上品とす。況や亡親にをいてをや」(十王賛嘆抄、新定一-六九頁)
とお示しのように、追善のためには、功徳を回向することが最上であり、上品の孝養であることがわかります。
しかも、同抄によれば、追善をもって功徳を回向する福は、七分の一を亡くなった人が受け、残りは全て回向した人に帰すると説かれております。回向とは、自分自身で積んだ功徳を他に回らすことによって自他共に利益を生ずることですから、進んで行うべきであります。
さらに、この回向には、三種の回向があるとされています。
まず第一は、菩提回向で、自分の功徳を回らして、菩提(悟りの道)に趣向することをいいます。
法華経譬喩品の中に
「我れ方便を以って、汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり」(開結一九九㌻)
とあるように、舎利弗が、小乗教において、「滅度に至る」(身を灰にし、智を滅却して空無に帰する悟り)と思っていたのを、仏の種々の説法により、小乗を恥じ、大乗を慕う心を生じ、その心を大乗に回転して。極大乗の法華経に趣向したことがその例です。
第二は、衆生回向で、法華経化城喩品に、
「願わくは此の功徳わ以って、普く一切に及ぼし、我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」 (開結三三三㌻)
とあるように、自分の修得した功徳を、一切の人に施して成仏の大業を成ぜしめようとすることであります。
第三は、実際回向で、法華経提婆品に
「勤求して此の法を獲て、遂に成仏を得ることを致せり」(開結四二四㌻)
と説かれるように、自分で法華経の修行の功徳をもって、直に仏身を成ずることであります。これらに共通して言えることは、自己の功徳善根を積むことが肝要であります。
大聖人は観心本尊抄に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(全二四六㌻)
と仰せのように、法華経本門寿量品の文底の南無妙法蓮華経を、今日の人々のために下種されたのであります。
私たちは、疑うことなく、御本尊に唱題し、併せて折伏を行ずることが、真の功徳回向となり、自他ともに即身成仏の利益を得るのであります。
唱題について
唱題とは宗祖日蓮大聖人様が『日女御前御返事』に、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄によるべきなり」
(御書一三八八㌻)
と仰せのように、日蓮正宗の信仰において最も大切な修行は、御本尊様を深く信じて「南無妙法蓮華経」と、御題目を唱えることです。
御題目の「妙法蓮華経」とは、久遠元初という仏法根源の御本仏の尊い悟りそのものであり、「南無」は自身の命を奉る帰命(きみょう)という意味があります。つまり「南無妙法蓮華経」とは、御本尊様に命を奉るという意味です。
唱題の意義と功徳
唱題の意義と功徳は広大無辺で、言葉では言い尽くすことはできませんが、そのうち五つの意義と功徳を述べます。
まずは、「即身成仏」ということです。
御本尊様に向かって御題目を唱えるとき、御本仏日蓮大聖人様の「仏力」と、御本尊様の「法力」と、御本尊様の「法力」と、私たちが御本尊様を信じる「信力」と、唱題修行の「行力」との四つの力が一致和合して、
「此の五字は凡夫を仏となす」(同一四九二㌻)
と仰せられた即身成仏の功徳を成就することができるのです。
次に「御報恩謝徳(ごほうおんしゃとく)」ということです。総本山第60世日開上人は、
「仏法の信心修行は知恩報恩に過ぎたるはなし(中路)法華経の外に知恩報恩の道これなし。主師親の三徳大恩を知るは法華経に限る。故に法華経を信ずるは知恩報恩の本なり」(日開上人全集四九六㌻)
と、法華経つまり御本尊様への信仰こそが、下種の御本仏の大恩を知り、その大恩に報いる道であると仰せられています。具体的に言えば唱題が知恩報恩の本なのです。
三に「罪障消滅・所願成就」ということです。
宗祖大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(御書四〇六㌻)
と仰せです。これは唱題によって過去世からの悪業の罪障を消滅すると同時に、必ず幸福が訪れるのですから、御本尊様に向かい真心から唱題することが肝心であると勧められているものです。
四に「臨終正念」ということです。臨終正念とは、臨終の生死の境の時に、余念なく御本尊様を信じることです。大聖人様は、
「我が弟子等の中にも信心薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(同七五一㌻)
と仰せられ、弟子檀那であっても信心の薄い者は臨終正念ならずに地獄に堕ちると示されています。
総本山第26世日寛上人は『臨終用心抄』に、
「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸(こころがけ)に依る也」(富士宗学要集第三巻二五九㌻)
と、臨終正念は普段からの信心修行の積み重ねによる功徳であると仰せられています。この御指南の通り、日々弛まず唱題に励むことが大切です。
五に「折伏成就に通じる唱題」ということです。前御法主日顕上人猊下が、
「コップのなかに水を一杯に入れ、さらにそこへ水を注げば必ず外へあふれます。そのように、皆様方の命、生活のなかに妙法唱題の功徳が真に入りきったならば、必ず他に向かってこの妙法の功徳を『五十展転随喜の功徳』として示していくところの姿が顕れると思うのであります」(大白法四七五号)
と御指南されたように、唱題には必ず折伏成就に通じる意義と功徳があるのです。
このほかにも重々の意義と功徳があります。御本尊様を深く信じ、真剣に御題目を唱える人には、必ず法華守護の諸天善神も動き、折伏を達成させ、また間断なく守護してくださるのです。真剣に唱題をすれば、必ず困難を乗り越える道が開けます。また悪業の宿命を転換し、善縁にも恵まれます。そして日々、御本尊様の加護を得て、感謝に満ちた人生を送れるようになるのです。
このように、一切を開く鍵はまさしく唱題にあるのです。こうした功徳の体験は、本紙でも紹介していますが、皆さんの周りの法華講の同志の中にも体験を持った方がたくさんおられることでしょう。
広布唱題会へ参加して折伏に行こう
総本山をはじめ全国の末寺では、毎月第一日曜日の午前九時から,広布唱題会が行われています。この広布唱題会は、私たちの罪障消滅や御本尊様への御報恩感謝を申し上げるだけでなく、御本仏の大願である広宣流布を祈り、私たちの折伏が成就するための原動力となる唱題会なのです。
大聖人様は『諸法実相抄』に、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし」
(御書六六六㌻)
と御指南されています。私たちが広宣流布を願い、縁ある人に日蓮正宗の信心をして幸せになってもらいたいと強く祈るならば、不思議と折伏する機会が訪れたり、折伏の追い風となる出来事が起きたりするなど、必ず結果が顕れてきます。
御法主日如上人猊下が、「真剣に題目をあげ、祈り、動き、講中が一致団結・異体同心して折伏に立ち上がれば、諸天も必ず動き、折伏は達成できると固く信じます」(大白法六九〇号)
と仰せられたように、広布唱題会に参加して、御住職をはじめ法華講の同志と共に真剣に唱題し、御本尊様への確信と慈悲の気持ちを胸に、果敢なる折伏に打って出ましょう。
(大白法平成十九年二月一日号)
その他の御指南
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(同一三二一㌻)
「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(同四〇六㌻)
御法主日如上人猊下御指南
「妙法を唱えていくことによって、我々の持つ煩悩がそのまま菩提に変わる。煩悩即菩提、生死即涅槃、そういう境界に立つことができるのです」(功徳要文 二〇㌻)