初参り
生まれた子が、初めて寺院に参詣するのを初参りといいます。ふつう、この際受戒も受けます。世間では、お宮参りとか、産土詣でといって、氏子入りをさせるため、土地の神社に参拝する習わしですが、大聖人の教えを信ずる私たちは、赤ちゃんを神社などへ連れていってはいけません。それはなぜかというと、
大聖人は、 「此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔・寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費・民の歎きにて・いらかを並べたる計りなり、是れ私の言にあらず経文にこれあり習うべし」(新池御書、御書一四五八頁) と仰せられ、神社や、他宗の寺などで、祈願すれば、善事のつもりであっても、悪鬼と縁を結ぶこととなり、かえってそれは、謗法行為となるからです。 初参りの日について、世間では、生後三十日前後、あるいは百日前後と、土地の風習によりさまざまですが、本宗では、特に何日目という定めはありません。赤ちゃんの生育のとうすや、健康を中心として、常識的に考えればよいのです。ある程度抵抗力がつき、首も坐るなど、外へ連れて出ても大丈夫な状態になってからがよいでしょう。その意味では、一般に百日位たってからで、赤ちゃんの気げんがよく、天候に恵まれた日を選んで参詣するのがよいと思います。 また、祖母が赤ちゃんを抱き、母親が付き添ってお参りするとか、祝着を着せるなどの習慣もありますが、むろん、これらにこだわる必要はありません。赤ちゃんが初めて寺院に参詣して、御本尊にお目通りし、受戒を受ける厳粛な行事であり、親として健全に育ち、行く行くは法燈相続して、信行に励む立派な人になるよう祈念するところに初参りの意義があるのですから、両親そろって参詣するほうが望ましいといえましょう。 大聖人は、 「就中、夫婦共に法華の持者なり。法華経流布あるべきたねをつぐ所の玉の子出で生まれん。目出度く覚へ候ぞ。色心二法をつぐ人なり。争でかをそなはり候べき。とくとくこそうまれ候はむずれ。」(四条金吾女房御書、御書四六四頁) と仰せのとおり、妙法を受持し、実践する夫婦の間に生まれる子供は、正法が流布していく種を継ぐべき者として、この世に生まれてくるのです。法華経法師功徳品にも,「安楽産福子」と説かれており、妙法の縁によって生まれてくる大切な子供であります。 正法を持つ私たちは、初参りについて、ただ世間的な人生の慶事としてのみではなく、正法広布の種を継ぐべき「福子」であるゆえに、その誕生を寿ぎ、健全な生育を祈念するという意義を忘れてはならないと思います。 七五三
七五三が、現在のように、三才の男女児、五才の男児、七才の女児の祝いとして、十一月十五日に、日を決めて行われるようになったのは、江戸時代の中期といわれています。それ以前には、七・五・三才の男女児の各々の誕生日に、祝儀を行なったといわれています。
その三才の祝いは、男女子ともに「髪置の式」と呼ばれていました。これには人望の厚い人を選んで「髪置の親」として式を司どってもらいます。 まず祝の間としての部屋を整えて、髪結の道具を一式揃え、三才の男女児を、中央に着座させます。三才になると、はじめて頭髪を長く蓄えるので、それを円形又は輪形(ドーナツ型)、に残し、その周囲を剃り落とします。現在のお河童頭というのはその名残です。 「髪置の式」が終わると、氏神に参詣し、更に近所・親類・縁故の人たちを招いて祝宴を催し披露します。 五才の男児の祝いは、「袴着の式」と呼びました。男児は、五才になると、大人と同じ装いをするようになり、袴も着用します。この式も人徳ある人に依頼して行います。まず、祝いの間を設け、広蓋に袴、小袖、扇や足袋などを入れて置きます。祝い児は袴を着けるばかりにして部屋の中央に立たせ、つぎに袴を左足から着け、扇子を腰に差すのが習わしであります。そのあとで三献の杯を行ない、氏神に詣で、親類縁故を招いて祝宴を開きます。 次に、七才の祝いは、女児の祝いとされてきました。この祝いは、幼児期から少女期への移り目で、子供の成長の段階として、重要な意味があり、この年齢になると、着物に直接縫い付けてある帯代りの紐を取り除くので、「帯直しの式」とか,「帯解きの式」などと云われます。これより、四ツ身か、本裁ちの二枚重ねの振り袖を着せ、巾広い帯を締めます。この祝日は、三才・五才のときの氏神参詣よりは重要な意味を持つものとして、正式に神社参詣を行ない、一般には、これを七つ詣りといいました。 以上の三、五、七才の祝いは、普通は、各々の誕生日に行なわれていたようです。また、地方によって、その呼び名、祝儀の内容、行われる年齢の異なる場合も多くあります。 それが、十一月十五日に行なわれるようになったのは、一つには、この日は鬼宿日といわれ、全てが吉の日と考えられていたことにもよります。 また、徳川五代将軍綱吉の子、徳松の祝いが、天和元年(一六八一年)十一月十五日に行なわれました。いらいこれが一般化して、今日のように、誕生日にかかわりなく、七五三才の祝いは、十一月十五日に行なわれるようになったとも伝えられています。 また、七五三の祝には、千歳飴が見られます。これは、江戸時代の初めに、大阪で平野甚左衛門という人が水飴を初めて作り、後に、江戸浅草に出て、神社や寺院の門前で売り出したのが始まりで、長生きするようにとの縁起をかついで,「千歳飴」と名づけ、専ら、子供の宮参り、七・五・三専用のもとして広まったといわれております。 以上が七五三祝い、千歳飴の由来であります。 日蓮正宗の信徒としては、七五三祝いを信心という面から、考えていかなければならないと思います。 大聖人は、 「子は財と申す経文あり」(上野殿御前御返事、御書一五五二頁) また、 「女子は門をひらく、男子は家をつぐ・日本国を知っても子なくば誰にか・つがすべき、財は大千にみてても子なくば誰にかゆずるべき、されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ、内典五千余巻には子なき人を貧人という」 (上野殿御返事、御書一四九四頁) とも仰せられて、子供は無上の財であると教えられています。親にとって、子供は宝であると同時に、社会全体から見ても、子供は財であることに違いないのであります。 特に本宗の信仰をする者にとって、子供は、大聖人の仏法を受持し、広く流布して行く大事な後継者であります。 本宗では、一応世間の風俗に慣って、七五三祝いの日に寺院でその祝儀を行ないます。これは悪鬼の宿る神社に詣でるのを防ぎ、正法の寺院に参詣せしめるという目的によるのであります。 また、この日は三祖日目上人の祥月命日に当ります。広宣流布の時には、日目上人が出現せられるという、宗門古来のいい伝えがあります。したがって。この日に寺院に参詣して仏祖三宝に御報恩申し上げ、今後の息災と成長、更に信心倍増をお祈りし、親子共々広布への精進と、成仏を、願うことに深い意義があるのであります。 成人式
一般の成人式は,「国民の祝日に関する法律」に定められている、一月十五日の「成人の日」に、満二十歳をむかえた青年男女を、対象として行われる祝の儀式であります。この成人式に類する儀式は、洋の東西を問わず、古くから行われているようですが、「成人」の観念は、その時代・文化などの環境・風俗習慣によって異なり、式に臨む心構えも自から異なっているようです。
現に文明未開の地には、今なお、男子は死を賭して儀式に臨み、それを無事に済ませなければ一人前の男子として認められないという厳しい成人式も見られます。 我が国の古代における成人式は、大体中国の例に習い、元服をもって、成人式になったことをみとめていたのであります。 元服とは元とは、首の意であり、服とは、着用することで、首に冠を着ける。すなわち、大人の衣冠を着ける儀式のことであります。冠とは礼の始め也」といい、四大礼、すなわち、人生における大きな冠婚葬祭の四つの行事の最初の“冠”に当たるのであります。 男子は、天武天皇の十一年(六八三年)に結髪加冠の制度が設けられ、じらい広く一般に冠帽着用の風習が普及し、幼年の髪形を改めて、冠または烏帽子を戴く儀式が行なわれました。これを初冠、初元結とも呼ばれて、烏帽子祝を行なったり、また、貴人は童名を廃して改名、叙位が行なわれるなど、姿、形の上に成人になったことを示し、それによって、大人の仲間入りをし、大人としての社会的信用と、その責任を負ったのであります。 女子は、髪上着裳などをもって成人のしるしとし、また、一般庶民は前髪を剃るなど、時代と住む社会によって、その年齢、風俗、習慣の異なりが見られます。いずれも、成人としての自覚と責任を明確にする意味で、姿、形、立場の上に、大人と子供の区別がはっきりと示され、それによって、成人としての誇りが与えられていることが注目されます。 本来成人とは“ひととなる”ことであり、論語では“学徳兼備の完全な人物”を指しています。しかし現在の成人式は、一応心身共に発達し、完全な行為、思考能力を有するに到る年齢を満二十歳と定め、この日を期し社会の一員となることを祝う“国民の祝日”として行なわれているのであります。 したがって、二十歳の青年たち全部に対し、完全な人格を求めるのはむつかしいことであるといえます。 物質文明と、精神文明との格差の著しい現代、そして、理想的な精神的訓練や薫陶が、あまりにも見失われている今日、よほど確たる信念がなければ、成人の自覚と誇りを持つことはできないでしょう。 もともと成人式の日を境にして、子供と大人との区別ができるものではありません。それ故に、単に社会の一員となった責任と権利を自覚するだけでなく、生涯「ひととなる」ことへの努力を積み重ねてゆくことが肝要であります。そこに、真の人生の目的と意義を示された大聖人の仏法にたいする信心の必要性があるのであります。 経文に、 「諸の衆生、虚妄に是れは此、是れは彼、是れは得、是れは失と横計して不善の念を起し 衆の悪業を造って六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫自から出ずること能わず」(開結八三ページ) と説かれているように、凡夫が悟りを得ることは、なかなかむつかしいことです。 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事、御書七九四頁) と説かれているように、煩悩や欲望、悩みの大井凡心の赴くまゝでなく、その凡心を自然に正しく発揚し、正しく赴かせるところの、いわゆる心の師となる方法を知らなければならないのであります。 大聖人の大御本尊こそ唯一無二にして、あらゆる人生の師であり、一切の指導原理の根本であります。 御本尊に向って、南無妙法蓮華経と唱え、信心修行してゆくことによって、しらずしたずのうちに、立派な妙法の大人格的境界に成長して行くのであります。 本宗信徒である私たちは、まず寺院に参詣し、成人を迎えたことへの報恩感謝を申しあげるべきであります。さらに、 「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」(富木殿御書、御書一一六九頁) の御金言を心肝に染め、生涯御本尊を受持し、広宣流布の人材として、更にまた、立派な社会人として成長することを御祈念するところに、日蓮正宗の信者としての、まことの成人式の意義があるのであります。 |
結婚式
異なった環境に生れ育った男女が、互いに結びつき、家庭生活を営むことが結婚であります。
古来、冠婚葬祭という言葉で示されているように、結婚式は、人生において、もっとも大切な儀式の一つといえましょう。 したがって、昔から全ての国々や民族において、あらゆる人々が、結婚式というものを厳粛に考え、二人の人生の門出として、親族・友人・知己をあげて、祝福してきたのであります。 普通、我が国での結婚式は、神社や教会で、神官や牧師が、主催して行なうか、あるいはそれに係わりなく、公民館や自宅などで行なわれているようです。 しかし、必ずしも、神社で式を行なう人が、そこに祀られている神の信仰者であり、教会で行なう人が、キリスト教徒であるということではないようです。つまり、結婚する当人たちの信仰の有無などに係わりなく、場所や形式が選ばれています。これはまったく意味のないことであります。たとえ、二人がそれぞれなんらかの信仰をもっていたとしても、深い考えもなく、 一般的な通念によって、これら神社や教会で式を行なうことは、結婚の根本的意義と宗教の正邪を知らないものといえましょう。 日蓮正宗の信者の結婚式は、両人が、日蓮正宗寺院の御本尊の前において、夫婦の契りを結ぶことを基本とします。これは、唯一の正法を受持した夫婦が、その信心を基盤として、健全な家庭を築き、本仏大聖人の広大な大慈悲に報いるため、正法興隆を期して精進し、またあわせて家運の興隆、子孫の繁栄を祈り、法燈相続を願うという、深い意義と目的があるのです。 したがって、正宗信者同志の結婚式を、神社や教会で行なうことは、全く誤りであり、正宗寺院が遠くて利用できないときは、せめて、正宗の御本尊の安置された場所で行なうべきであります。 ここで本宗における結婚式の次第を簡単に紹介します。 〈入場〉両家の親族、新郎新婦、媒酌人が入場し、前図のごとく着座します。 〈読経唱題〉導師が着座し、読経(方便品・自我偈)唱題を行ないます。両人や参列者は導師に合わせて勤行し、御本尊に御報恩申しあげ、偕老同穴の契りを誓います。 〈杯義〉はじめに、新郎新婦が三三九度の杯の儀を行ない、次に、親子、兄弟、親族の順に固めの杯を行ないます。 〈諭戒〉導師が、新夫婦に対して大聖人の御教示並びに結婚生活への心構えと、祝福の言葉を含めた諭戒文を読みあげます。 〈媒酌人挨拶〉媒酌人はしめくくりとして、結婚式が滞りなく済んだ旨の挨拶をいたします。 〈退場〉導師の退場後、一同も退場いたします。 なお、新郎新婦の希望により、指輪の交換(贈呈)が行なわれることもあります。 以上が、通常一般的な挙式であり、寺院の実情によって多少の差異があります。 大聖人は、夫婦の在り方について、千日尼御返事に、 「をとこははしらのごとし女はなかわのごとし、をとこは足のごとし・女人は身のごとし、をとこは羽のごとし・女はみのごとし、羽とみと・べちべちに・なりなば・なにを・もってか・とぶべき、はしらたうれなばなかは地に堕ちなん」(御書一四七六頁) 兄弟抄に、 「女人となる事は物に随って物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れ偏に今生計りの事に はあらず世世、生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておわするぞかし……夫と妻 とは是くの如し」(御書九八七頁) 富木殿御前御返事に、 「やのはしる事は弓の力・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり」(御書九五五頁) と、お示しのように、夫婦は二をもって一とし、はじめてその働きが全うするのであります。 人生の第二の出発点にあたり、大聖人の御聖訓をよく拝し、結婚の深い因縁と意義を自覚することが大切です。 |
葬式
人類の起源このかた、生あるものは必ず滅びるの言葉どおり生死をくりかえしてきました。この厳粛な事実は、経験的に誰しも知っていたに違いありません。しかし人が死ぬという現象に対して、他の遺された人達が弔いの儀式を行なうようになったのは、かなり後のことと思われます。
インドにおいては釈尊在世中、父浄飯大王の葬式の模様が、浄飯王般涅槃経というお経に詳しく書かれています。そのようすは現今とさほど変らず、火葬も行なわれたと記されています。 日本では、上古土葬が行なわれていましたが、仏教の伝来と共に火葬が伝えられました。初めは高貴な人たちの間で行なわれ、十世紀以後には、広く民間の風習として広まったようです。 葬式は、単なる形式ではなく、故人が今生を終って、苦楽さまざまの未来を開く境目であり、遺されたものが一心にその即身成仏を願う大事な儀式であります。そのためには、正しい宗教によるべきです。仏教の中でも、法華経の根元である大御本尊によってのみ、それがかなうことを知らなくてはなりません。 本宗で行なう葬儀は、大体次のとおりですが、地方の慣習により多少の違いは差支えありません。 まず、臨終に当っては、御書にも、 「臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いける事は・一眼のかめの浮木の穴に入り・天よ り下いとの大地のはりの穴に入るがごとし、あらふしぎふしぎ」(御書一二一八頁) とあるように、ひたすら正念を祈り、お題目を唱えます。いよいよ息を引きとり死を迎えたならば、枕もとに簡単な仏具をととのえ,枕経をあげます。(所属寺院から導師曼荼羅をお借りして、奉掲することを原則とする)このとき、遺体を北枕にす慣わしのようですが、その場の情況により、とらわれる必要はありません。 それから、湯潅といい、遺体を湯・アルコールなどを用いて遺族・親族の人たちの手でふき清め、新しい白衣(経帷子)を着せるのが慣わしですが、清潔な浴衣を用いてもよいでしょう。そして、遺族・親族の手によって、唱題しながら、遺体を棺に納めます。納棺の後、祭壇を飾り、その後ろに導師曼荼羅を奉掲し、通夜を行ないます。 通夜は、文字通り夜通し読経などをして、故人の冥福を祈ることですが、現在では、僧の読経は一、二回で、時間も夜七時から九時までの間に行なわれるのが通例であります。そのあと、親族知人などが更に読経唱題を行なうこともあります。 葬式は普通、通夜の翌日に行なわれます。故人の霊を懇ろに弔うとともに、一期の別れの儀式ですから、荘厳かつ厳粛を旨とすべきであります。 斎場や祭壇、葬式の次第は、地方の慣習や故人の社会的地位によっても異なるでしょうが、見栄などで、特別豪華な祭壇にする必要はありません。各々の家に合った祭壇を作ればよいのです。 葬式の式次第は、大体、次のとおりです。 一、喪主、親族等着席 一、僧侶出仕 一、題目三唱 一、読経(方便品・寿量品) 一、焼香(寿量品に入ったら導師に引き続き喪主・親族などの順) 一、弔辞・弔電披露 一、読経(自我偈)・題目 一、観念文 一、題目三唱 一、僧侶退出 で一応終り、引き続いて出棺となりますが、導師も、喪主も、その他弔問者も、一体となって、故人の即身成仏を心より願い、大御本尊の御威光に照らされて、霊山浄土に向えるよう御祈念いたいします。 土葬の場合は、葬列を組んで墓地へ向い、埋葬後読経唱題を行ないます。 火葬のときは、棺を火炉に入れ、荼毘の準備ができたら、炉前で読経唱題を行ないます。 同時に焼香も開始します。 骨上げの際は、唱題しながら丁重に、遺骨を取り上げます。 なお、七本塔婆、門牌、大幡、小幡、銘旗などの用否は、地方の慣習に従えばよいと思います。 葬儀に奉掲する曼荼羅は、使者が即身成仏し、寂光浄土へ引導されるための御本尊であり.特に、導師曼荼羅と称されております。この曼荼羅は,「衣」ともいわれ,経文に、「裸者の衣を得たるがごとし」とあるように、使者の恥を隠す信楽、慚愧の衣となって、現世と来世との関所を通るともいわれております。 次に戒名は、その初め、出家して仏道に帰依し、五戒・十善戒・具足戒・菩薩戒などの戒を受けた者に対して、俗名を改めて法号を授けられました。この法号を戒名といったのであります。後生には、在家のままで仏門に帰依し、受戒式に加わった者も戒名を受けるようになり、また、生前戒名を受けなかった者には、死後与えられるようになりました。現在では、死者につけられる諡号(おくりな)として、一般に知られております。 さて本宗においても、以前は間々御受戒の際に戒名を授けたこともありましたが、現在ではほとんど死亡した時に授けられています。 位牌と過去帳 位牌は、もと中国の儒家において「霊の座」として、儀式に使われていたのが、宋の時代に仏教に転入して、用いられるようになりました。仏教、神道においても、しだに儀式などに使うようになりました。位牌の書きよう、及び大きさは、各宗において色々ありますが,死者の戒名,俗名,死亡年月日,年齢などを書くことに違いはありません。 一般仏教においては、位牌そのものを霊・霊魂というように解釈し、仏壇にいつまでも安置して、礼拝する習慣がありますが、これは正しい祭り方ではありません。日蓮正宗において位牌は、拝む対象ではないとされています。すなわち、死者の霊は、妙法蓮華経の御本尊の内に帰入してこそ成仏できるのであり、位牌が、戒名を印すものであっても、それを中心にして拝むということは誤りであります。 本宗においても、葬儀の場合に白木の位牌を用いますが、五七日忌、七七日忌などが終り次第、戒名を速やかにその家の過去帳に帰入し、位牌は、寺院に納めるのが最も良いのであります。 日有上人の化儀抄に、 「神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗弟子等の示し書之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方弟子の方は九界なる故に、師弟相向かう所中央の妙法なる故に、併しながら 即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ則ち自行の妙法事の即身成仏等云々」 (聖典九九六頁) とあります。ただし、初信者が、故人の位牌を祀ることを願う場合は、一応これを許可しますが、やがて信仰が深くなるにしたがって、自然に位牌を取り除き、過去帳に記入せしめるように、指導すべきであります。 本宗の過去帳は、大聖人をはじめ総本山歴代の法主上人の命日も記されており、毎日の報恩回向に便利なようになっております。 |
法事
法事とは、故人の命日・忌日などに追善供養のため、営む法要のことです。私たちが亡き肉身・知人などのために、善根を積み、その功徳をもって、故人の抜苦与楽・仏道精進に資するのであります。
優婆塞戒経に、 「若し父喪し已りて、餓鬼中に堕つるに、子為めに追福すれば当に知るべし即ち得」 とあるように、故人の苦しみを救うことができるのは、遺された人たちの追善供養のほかにはないのです。 大聖人は、 「我が父母・地獄・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみち牛馬眷属・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん」(四条金吾殿御書、御書四七〇頁) と示されています。自分は何一つ不自由ない豊かな生活をしていながら、親や先祖の法事も営まず、追善供養を怠るならば、故人は、どんなに恨みに思うことでしょう、との意です。 「存生の父母にだに尚功徳を回向するを上品とす。況や亡親においておや」(十王讃歎抄、新定一ー六九頁) とあるように、遺族が常々亡くなった方のことを忘れず、善根を回向することは、最高の孝養となるのであります。 また亡くなった人たちも、遺族の追善供養を唯一の頼みとしているのであり、同抄の次下に、 「今頼む方とては塔婆の追善計也。相構て相構て追善を営み、亡者の重苦を助くべし」 (十王讃歎抄、新定一ー七二頁) とあります。御書を拝すると、富木入道や阿仏房の遺子藤九郎は、親の遺骨を頚にかけて、はるばる大聖人のもとへ参り、懇ろな御回向をお願いしています。また、富木入道は母親の三回忌に当り、身延の大聖人のもとへ御供養を奉り、追善供養をお願いしたことがうかがえます。曽谷入道、千日尼、刑部左衛門尉女房などにも同じように、親の十三回忌に追善供養を行なっています。 このように遺族として、心から故人の追善供養を行ったときにつき、大聖人は、 「その時・過去聖霊は我が子息・法蓮は子にはあらず善知識なりとて娑婆世界に向って おがませ給うらん、是こそ実の孝養にては候なれ」(法蓮抄、御書八二〇頁) というように、その功徳を称讃されています。 私たちも、恩知らずの不幸者とならないよう、忌日・年忌には、真心をもって追善の仏事も行ないたいものです。 もちろん、この追善は、正法によって行なうことが肝心であります。いくら志が厚くても、誤った宗教によって修したのでは、かえって故人を苦しめることになってしまうからです。末法の正境である御本尊を中心に営むことによってのみ、初めて正しい追善供養が可能となるのであります。私たちが御本尊に向って、読経・唱題することにより、御本尊の仏力・法力と私たちの信力・行力の四力が成就し、そこに生じた功徳を故人に回向してこそ、真の追善供養になるのです。 故人が亡くなった日を入れて七日目が初七日忌、さらに数えて七日目毎に二七日忌、三七日忌、四七日忌、五七日忌(三十五日忌)、六七日忌、七七日忌(四十九日忌)となり、この後は百箇日忌、一周忌、三回忌(二年目)と続きます。 これらの忌日の由来は、十王讃歎抄という御書に、仏教説話に基づき、次のように説かれています。すなわち、人間が死ぬと中有という暗黒の世界を旅し、七日目に秦広王という冥界の王のもとで、その亡者の生前の所業によって、未来の生所を裁定されてといわれております。ここで決まらなければまた苦しい旅を続けて、二七日目には初江王に裁かれます。更に決まらない場合は、三七日目の宗帝王の所へというように、各忌日ごとにそれぞれの王が亡者を裁き、最後まで決まらなければ、三回忌の日に五道転輪王が「娑婆の追善もあらば善処に遣すべし。若しまた弔う事も無ければ、今より渡すべき方も無き間、地獄へ遣す」といって、残りの総ての人々が裁かれるといわれております。 この説話によって、七七日忌や百箇日忌、一周忌、三回忌等の裁判の折には、故人の成仏を願って追善供養を修し、菩提を弔うわけです。 この忌日について、現代の我々はどのように考えるべきでしょうか。それは結局これらの忌日が幽界のみに限らず、顕冥の一切の生命の何らかの変化・節度の時期に当っているのであります。ゆえに、この時を基準として、特に塔婆を建て法事を行なうのです。 一般に、初七日忌と七七日忌(又は五七日忌)には、僧侶を迎えるか、あるいは寺院において、法事を営みます。他の七日目ごとには寺院に参詣して、塔婆供養をするのが普通です。 また地方により、遺骨は直ちに墓地に埋葬するところと、七七日忌(又は五七日忌)の法要が済んでから、埋葬するところがあります。墓地がなければ、寺院あるいは総本山大納骨堂の納めることもできます。 埋葬や墓標、墓石などを建てる場合には、所属寺院に相談してください。 なお、三回忌の後は七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌などがあります。 自宅で法事を行なうときは、早目に寺院の都合を問い合わせた上、申し込みます。法事は、故人の忌日に行ないますが、都合のつかない場合は、遅れないように繰り上げて早目に行なう方がよいでしょう。また、寺院の本堂で行なうこともできますが、この場合も前もって申し込むことが必要です。 自宅で行なうときは、仏壇の清掃にも心を配り、仏供と季節の果物や菓子、お酒などを御本尊にお供えし、お霊膳があれば精進料理を作って御本尊に供えます。 法要は、献膳、読経、焼香、唱題の順序で行なわれますから、僧侶の唱導に従い、読経、唱題します。参列者が後ろで雑談をしていることのないよう、慎まなければなりません。 地方の習慣により、異なる点もありますが、大体、以上を基本として行ないます。その他、不明の点については、寺院に問い合わせて行なってください。 お彼岸
お彼岸はわが国の仏教一般に広く行なわれている行事の一つで、春と秋の二回あります。つまり、春分と秋分の日は昼と夜の長さが同じで、太陽が真東から出て真西に沈むわけですが、その日を中日とし、前後七日間に修する法要が彼岸会です。
この彼岸会の習慣は、印度や中国では行なわれたようすはありませんが、わが国では古く聖徳太子の頃から行なわれていたようであり、日本独特の風習といえます。その内容は、時代によって移り変りがありましたが、現在では世間一般に先祖の供養をすることが主になっており、その現われとしてお寺へ参詣して塔婆供養をしたり、お墓参りをする事が通例となっています。 今、この彼岸会の本来の意味を考えてみますと、彼岸という言葉は、梵語のParamita(パーラミーター)という語からきています。パーラミーターは〈波羅蜜〉と音訳し、〈到彼岸〉または〈度〉、つまり渡るという意味です。 仏教では、私達が生活しているこの世界を穢土又は娑婆世界といい、苦しみや悩みの世界であると説いています。そしてこの娑婆世界を此岸、つまり此ちらの岸に譬え、煩悩・業・苦の三道という苦しみの根源を大河の流れに譬え、涅槃、つまり成仏の境界を彼岸に譬えるのです。穢土の此岸から生死の苦しみの大河を渡って、彼岸の楽土に到達するためには〈仏の教え〉という船に乗らなければなりません。 ところがこの船にも、小乗といって二・三人しか乗れない小さな船もあれば大勢の人が乗れて安全な大乗の船などいろいろあります。日蓮大聖人は薬王品得意抄に 「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし」(御書三五〇ページ) とおおせられ、本当の彼岸に到達できるのは大聖人の仏法、大御本尊の大船でなければならないとお示し下さっています。大聖人の教えは仏法の究極である事の一念三千の法門であり、そのはたらきとして煩悩即菩提・生死即涅槃・娑婆即寂光という、即身成仏の要道を説き明かされたものだからです。一生成仏抄には 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書四六ページ) と申され、彼岸と云っても極楽の別世界があるのではなく、此岸、つまりこの世の中で成仏することこそ本当の成仏であると示されています。ですから念仏宗のように西方十万億土に理想の別世界があるというのは、おとぎ話の方便にすぎません。 また一般仏教においては、彼岸に到達するために六波羅蜜という修行を説いています。これは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六つの修行方法であり、成仏を志す菩薩が、幾度となく生まれかわり、永遠ともいえる長い間修行してはじめて成就できる歴劫修行です。このような修行は末法の私達には到達できうるものではありません。 そこで大聖人は、観心本尊抄(御書六五二ページ)の中に 無量義経の「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」 との文を引かれ私達が御本尊を受持することによって自然に六波羅蜜の修行が達成され、彼岸に到達できると説かれています。これは、大聖人の仏法が、すべての根本である久遠元初人法一箇独一本門の本法であり、八万四千の聖教も妙法蓮華経の五字に収まり、六度万行の修行もすべて妙法五字を受持する〈信〉の一行に収まるからです。ゆえに大聖人の仏法こそ末法の私達にとってもっとも簡単で行じ易い修行だということになります。 私たちが御本尊を受持信行するその一行の中に、あの菩薩たちの広大な六波羅蜜の修行と功徳のすべてが含まれているとは何とすばらしいことではありませんか。まず布施波羅蜜の中には、財施、法施、無畏施の三つがありますが、御本尊に御供養申し上げるのは財施、折伏をするのは法施、広宣流布して常寂光土を建立して行くことは無畏施になります。また持戒波羅蜜とは、御授戒を受け、謗法を行なわないということであり、忍辱波羅蜜とは、折伏の時に慈悲の心をもって忍耐することであり、精進波羅蜜とは、退転なく水の流れるような信心を続けることであり、禅定波羅蜜とは御本尊の前に端坐して勤行唱題することであり、智慧波羅蜜とは以信代慧によって信行学に励むことです。 このように、大御本尊を信じ一所懸命信心に励むことによって、菩薩の歴劫修行である六波羅蜜がすべて成就され、もっとも力強い仏の生命を感じつつ、この世の中で彼岸に到達し、即身成仏することができるのです。 このように見てくると、彼岸の本来の意義は、まず生きている私達自身が即身成仏して幸福な境界を切り開くことが重要となってくるのであり、その功徳をもって先祖の追善供養をするわけです。本宗ではこれらの意味から常盆・常彼岸という精神を建て前として仏道修行をするのであり、他宗でいう彼岸とはまったくその趣きを異にしています。つまり毎日々々の信心修行がすでに彼岸の修行であるわけです。 それでは本宗において何ゆえに春秋の両彼岸会を修するのかといえば、まずこれが積功累徳(功徳をつみかさねていくこと)という仏法の精神より起った行事であるからです。彼岸会の本来の意義は今までに述べてきたように、即身成仏して幸福な境界を得るための儀式であり、しかもこの時期は世間においても「暑さ寒さも彼岸まで」といわれているように、一年中でもっとも気候のよい時でもあり、このよい時節に成仏のための功徳善根を積むということはまことに意義深いことです。 また、この日は昼と夜の時間が同じですが、これは陰陽同時・善悪不二を表するものであり、経文には「仏好中道」と説かれてあるように、仏教ではこの時を非常に重要視します。ゆえにこの時に善行を修する功徳は、ほかの時に修する功徳よりも勝れているということができます。この日こそ私達にとっては彼岸に到る絶好の機会であるといわなければなりません。 つぎに、この彼岸会は本宗における衆生教化の一つの方法であるからです。およそ彼岸会は日本国中知らない人はいないほど一般的な行事となっています。大聖人は太田左衛門尉御返事に 「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」 (御書一二二二ページ) と申され、また、白米一俵御書には「まことの・みちは世間の事法にて候、金光明経には『若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり』と」(全一五九七ページ)とも申されています。つまり世間法即仏法であるならば、私達の心がまえとしては世間一般化した彼岸会を御本尊の大善行の中に転換引入し、すべて御本尊の祭りとして盛大にこれを行なうべきといえましょう。 また、仏法で説くところは四恩報謝でありますが、この中で誰にでもすぐできる一番簡単な修行は、父母祖先への知恩報恩です。ゆえに彼岸会のこの日に御本尊に御供養し、先祖の塔婆を立てて回向するのであり、この一番簡単な善行が大善行となって到彼岸の要因となるのであり、これこそ真の彼岸会であります。他宗で行なわれる法要は一切無益であり、わが日蓮正宗で行なわれる法要こそ真の先祖供養であり成仏の要道なのです。 以上、私達は彼岸会の本来の意義をよくわきまえ、さらにこの日を期して信心強盛に、自行化他にわたる折伏行に励み、即身成仏を願い切って行くことがもっとも肝要と思います。 |