”大聖人は釈尊の法華経で末法衆生を救済”!?
日蓮宗と同じ主張を堂々開陳(かいちん)した『創価新報』
本年五月より、『創価新報』の紙面が一新した。その紙面たるや、宗教関係の
新聞には見えない。まるで、その辺のタウン紙である。
どうやら、学会青年部や若年層向けの紙面へと変更し、「創価学会」という名を隠そうとしているようにも思える。
しかし、宗門批判はいつも通りだ。(笑)
さて、その「創価新報」六月号の「闘魂TALK」なるコーナーに「仏教正統の系譜に連なる創価学会」との内容が掲載されている。メインテーマは、「日蓮大聖人は釈尊とどう違うの?」だ。
一読してみると、釈尊の説かれた法華経こそが最高の教えであり、一切衆生を成仏に導いた教主であることを述べ、
〈大聖人は仏がそなえる三徳を具備されている。だからこそ、末法の衆生救済の方途を示された大聖人は「末法の教主」であり、「末法の御本仏」として仰ぐんだ。末法に入り、大聖人に教主が交代したとも言えるね)(当該紙)
と掲載し、さらにこの文章の解釈として、〈大聖人は、釈尊に代わり、末法において衆生を救済する教えを説く「末法の教主」として、末法の万人成仏の道を現実に開き残された。その偉業を仰ぎ、創価学会では日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇する(同)
などと説明している。つまり、釈尊と日蓮大聖人を同等に扱い、大聖人は釈尊の法を流布させるために現れた者でしかない、としているのである。
これは日蓮宗の
〈日蓮宗は、久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付属された、本化上行菩薩の応現日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏法正統の宗団である>
(日蓮宗宗憲第一条)
と同様な発想といえよう。しかも同紙は、それだけでは飽き足らず、
<日蓮正宗(日顕宗)は、大聖人を久遠実成釈尊より先に存在した仏だとして神秘性をことさらに強調し、御書に完全に背(そむ)き、当代の法主を〝現代における大聖人様"などと言わせた〉(当該紙)
との大謗法発言をしているのだ。
そこまで釈尊を尊崇するのであれば、早く本尊を釈尊像にすればよい。大聖人はどこまでいっても、「釈尊の代わり」「釈尊の法を弘める人」でしかない、というのだから...。
以前、池田大作は、
「釈迦は、過去に下種された衆生の仏種を、熟し、脱せしめる教え、つまり脱益仏法を説く仏にすぎません。釈迦の教法には、熟・脱の功徳をそなえているにすぎないのです。下種を本因とするのに対して、熟・脱は本果となりますから、釈迦を本果妙の教主と呼ぶのです。
また、寿量品の釈迦といえども、本果第一番成道を遂げた久遠実成の仏にすぎないのです。仏の資格からいっても、釈迦は本果妙の仏となるのです。
ところで大聖人は、本末有善の衆生に、成仏の根本因たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植える仏ですから、 本因妙たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植え付ける仏ですから、 本因妙の教主に名づけるのであります。 大聖人の仏法には、種・熟・脱の功徳がことごとく内包されていることはいうまでもありません」(『百六箇抄講義』序文)
と述べていた。まさに正論で、大聖人を根本の仏として拝していたのだ。
しかし今は、釈尊の後継者でしかないとする。 それなのに、日蓮大聖人の正統門下だと名乗っている。
大聖人の教法を理解できず、釈尊の法華経に固執するのなら、釈尊の正統門下とでも名乗ればいい。
(慧妙 令和六年八月一日号)
日蓮宗と同じ主張を堂々開陳(かいちん)した『創価新報』
本年五月より、『創価新報』の紙面が一新した。その紙面たるや、宗教関係の
新聞には見えない。まるで、その辺のタウン紙である。
どうやら、学会青年部や若年層向けの紙面へと変更し、「創価学会」という名を隠そうとしているようにも思える。
しかし、宗門批判はいつも通りだ。(笑)
さて、その「創価新報」六月号の「闘魂TALK」なるコーナーに「仏教正統の系譜に連なる創価学会」との内容が掲載されている。メインテーマは、「日蓮大聖人は釈尊とどう違うの?」だ。
一読してみると、釈尊の説かれた法華経こそが最高の教えであり、一切衆生を成仏に導いた教主であることを述べ、
〈大聖人は仏がそなえる三徳を具備されている。だからこそ、末法の衆生救済の方途を示された大聖人は「末法の教主」であり、「末法の御本仏」として仰ぐんだ。末法に入り、大聖人に教主が交代したとも言えるね)(当該紙)
と掲載し、さらにこの文章の解釈として、〈大聖人は、釈尊に代わり、末法において衆生を救済する教えを説く「末法の教主」として、末法の万人成仏の道を現実に開き残された。その偉業を仰ぎ、創価学会では日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇する(同)
などと説明している。つまり、釈尊と日蓮大聖人を同等に扱い、大聖人は釈尊の法を流布させるために現れた者でしかない、としているのである。
これは日蓮宗の
〈日蓮宗は、久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付属された、本化上行菩薩の応現日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏法正統の宗団である>
(日蓮宗宗憲第一条)
と同様な発想といえよう。しかも同紙は、それだけでは飽き足らず、
<日蓮正宗(日顕宗)は、大聖人を久遠実成釈尊より先に存在した仏だとして神秘性をことさらに強調し、御書に完全に背(そむ)き、当代の法主を〝現代における大聖人様"などと言わせた〉(当該紙)
との大謗法発言をしているのだ。
そこまで釈尊を尊崇するのであれば、早く本尊を釈尊像にすればよい。大聖人はどこまでいっても、「釈尊の代わり」「釈尊の法を弘める人」でしかない、というのだから...。
以前、池田大作は、
「釈迦は、過去に下種された衆生の仏種を、熟し、脱せしめる教え、つまり脱益仏法を説く仏にすぎません。釈迦の教法には、熟・脱の功徳をそなえているにすぎないのです。下種を本因とするのに対して、熟・脱は本果となりますから、釈迦を本果妙の教主と呼ぶのです。
また、寿量品の釈迦といえども、本果第一番成道を遂げた久遠実成の仏にすぎないのです。仏の資格からいっても、釈迦は本果妙の仏となるのです。
ところで大聖人は、本末有善の衆生に、成仏の根本因たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植える仏ですから、 本因妙たる南無妙法蓮華経の種子を直ちに植え付ける仏ですから、 本因妙の教主に名づけるのであります。 大聖人の仏法には、種・熟・脱の功徳がことごとく内包されていることはいうまでもありません」(『百六箇抄講義』序文)
と述べていた。まさに正論で、大聖人を根本の仏として拝していたのだ。
しかし今は、釈尊の後継者でしかないとする。 それなのに、日蓮大聖人の正統門下だと名乗っている。
大聖人の教法を理解できず、釈尊の法華経に固執するのなら、釈尊の正統門下とでも名乗ればいい。
(慧妙 令和六年八月一日号)