令和六年、アメリカのシンクタンクであるピュー研究所 (Pew Research Center)
が、東アジアの国々を対象に宗教意識調査を実施した。
調査結果によると、日本人の四十二パーセントは
「自分は無宗教である」と自覚しており、「宗教は生活のなかで非常に重要である」と考えるのは、わずか六パーセントであった。一方、同調査で六十四パーセントの日本人が「神や目に見えない存在を信じている」と答えており、「過去一年間に先祖にお供え物をしたか」に「はい」と返答した人は、七十パーセントにものぼった。
この調査が示しているように、現代日本人は宗教に準じた習慣や信条を持ってはいるものの、「特定の宗教を信仰している」と自認している人は少ない、というのが実情である。
「SBNR」と脱・宗教
近年の無宗教化の傾向のなか、人口に膾炙(かいしゃ)するようになってきたものに「SBNR (Spiritual but not religious)」がある。
これは「自分は宗教的ではないが、スピリチュアルなことには関心がある」と
自認する人を表わす用語である。
元来、「宗教的 (religiousレリジャス)」と「スピリチュアル(spiritual)」は、ともに宗教的信仰的なものを指す言葉であったが、近年において「宗教的」とは「何らかの宗教組織・団体への所属」を示唆(しさ)し、「宗教団体や伝統に拘束されない、個人的・非制度的な宗教意識」との意味合いで使われるのが通例である。それに対し「スピリチュアル」な人々の具体的活動は、ウォーキング・キャンプ・サウナ・推(お)し活・瞑想(めいそう)・お墓参り・史跡観光など、必ずしも宗教色を伴わないのが特徴である。
大手広告代理店である博報堂は、令和七年三月に出版した著書のなかで、
「(SBNRは今や世界的な傾向であり) 宗教や精神文化がかつて持っていた社会的な権威や地位が、世俗的な価値観や実践に置き換えられ、それが個人や社会の精神的充足のために用いられている」(SBNRエコノミー 一一三㌻)
と述べており、既存の宗教にまつわる行事・儀式・教義・実践が「脱・宗教化」されることで、多くの人々に受け入れられている、と主張している。
今こそ団結行動を
『無量義経』には、
「其(そ)れ衆生有って、聞くことを得ざる者は、当(まさ)に知るべし。是等(これら)は為(こ)れ大利(だいり)を失えるなり(中略)
菩提の大直道(じきどう)を知らざるが故に、険逕(けんきょう)を行(ゆ)くに、留難(るなん)多きが故に」(法華経 三二㌻)
と説かれている。
「脱・宗教」の気風に流され、一時の精神的安らぎに気を取られて、真実の宗教から遠ざかれば、正しい信仰による一生成仏という大利益を失うことになる。
また、第六十七世日顕上人は、
「特に教えを何も信じないで『私は宗教は大嫌いだ』というような無宗教の人も今は大勢おるけれども、そういう人は結局、自分一人の判断であらゆるものを見ているのであって、それで自分は偉いと思っているのだろうが、しかし非常に狭いのである。したがって、何かにぶつかり、長い間の人生のなかの生・老・病・死・愛別離苦・求不(ぐふ)得苦・五盛陰(じょうおん)苦・怨憎
会(おんぞうえ)苦等の様々な苦しみにぶつかってくると途端に心が動揺し乱れて、その結果が不幸の姿に陥(おちい)っていくことにもなります」
(大日蓮 五一三号)
と御指南されている。
人生を歩むうえにおいて、あらゆる困難を乗り越えるためには、正しい信仰が必要である。また、正しい信仰を持(たも)っていくには、けっして一人信心ではなく、講中組織の存在が欠かせない。
私たちが苦しみの最中(さなか)にあるとき、手を差し伸べ、励ましてくれるのは講中の同志である。また、常に法を護り、正しい道へと導いてくださるのは、代々の御法主上人猊下と、それに連なる各末寺の御住職・御主管にほかならない。
私たち日蓮正宗の僧俗は、世間に「脱・宗教」の風潮が広がる今こそ団結・行動し、果敢に折伏を行じていかなければならない。
(大白法 第一一六九号 令和八年三月十六日)
が、東アジアの国々を対象に宗教意識調査を実施した。
調査結果によると、日本人の四十二パーセントは
「自分は無宗教である」と自覚しており、「宗教は生活のなかで非常に重要である」と考えるのは、わずか六パーセントであった。一方、同調査で六十四パーセントの日本人が「神や目に見えない存在を信じている」と答えており、「過去一年間に先祖にお供え物をしたか」に「はい」と返答した人は、七十パーセントにものぼった。
この調査が示しているように、現代日本人は宗教に準じた習慣や信条を持ってはいるものの、「特定の宗教を信仰している」と自認している人は少ない、というのが実情である。
「SBNR」と脱・宗教
近年の無宗教化の傾向のなか、人口に膾炙(かいしゃ)するようになってきたものに「SBNR (Spiritual but not religious)」がある。
これは「自分は宗教的ではないが、スピリチュアルなことには関心がある」と
自認する人を表わす用語である。
元来、「宗教的 (religiousレリジャス)」と「スピリチュアル(spiritual)」は、ともに宗教的信仰的なものを指す言葉であったが、近年において「宗教的」とは「何らかの宗教組織・団体への所属」を示唆(しさ)し、「宗教団体や伝統に拘束されない、個人的・非制度的な宗教意識」との意味合いで使われるのが通例である。それに対し「スピリチュアル」な人々の具体的活動は、ウォーキング・キャンプ・サウナ・推(お)し活・瞑想(めいそう)・お墓参り・史跡観光など、必ずしも宗教色を伴わないのが特徴である。
大手広告代理店である博報堂は、令和七年三月に出版した著書のなかで、
「(SBNRは今や世界的な傾向であり) 宗教や精神文化がかつて持っていた社会的な権威や地位が、世俗的な価値観や実践に置き換えられ、それが個人や社会の精神的充足のために用いられている」(SBNRエコノミー 一一三㌻)
と述べており、既存の宗教にまつわる行事・儀式・教義・実践が「脱・宗教化」されることで、多くの人々に受け入れられている、と主張している。
今こそ団結行動を
『無量義経』には、
「其(そ)れ衆生有って、聞くことを得ざる者は、当(まさ)に知るべし。是等(これら)は為(こ)れ大利(だいり)を失えるなり(中略)
菩提の大直道(じきどう)を知らざるが故に、険逕(けんきょう)を行(ゆ)くに、留難(るなん)多きが故に」(法華経 三二㌻)
と説かれている。
「脱・宗教」の気風に流され、一時の精神的安らぎに気を取られて、真実の宗教から遠ざかれば、正しい信仰による一生成仏という大利益を失うことになる。
また、第六十七世日顕上人は、
「特に教えを何も信じないで『私は宗教は大嫌いだ』というような無宗教の人も今は大勢おるけれども、そういう人は結局、自分一人の判断であらゆるものを見ているのであって、それで自分は偉いと思っているのだろうが、しかし非常に狭いのである。したがって、何かにぶつかり、長い間の人生のなかの生・老・病・死・愛別離苦・求不(ぐふ)得苦・五盛陰(じょうおん)苦・怨憎
会(おんぞうえ)苦等の様々な苦しみにぶつかってくると途端に心が動揺し乱れて、その結果が不幸の姿に陥(おちい)っていくことにもなります」
(大日蓮 五一三号)
と御指南されている。
人生を歩むうえにおいて、あらゆる困難を乗り越えるためには、正しい信仰が必要である。また、正しい信仰を持(たも)っていくには、けっして一人信心ではなく、講中組織の存在が欠かせない。
私たちが苦しみの最中(さなか)にあるとき、手を差し伸べ、励ましてくれるのは講中の同志である。また、常に法を護り、正しい道へと導いてくださるのは、代々の御法主上人猊下と、それに連なる各末寺の御住職・御主管にほかならない。
私たち日蓮正宗の僧俗は、世間に「脱・宗教」の風潮が広がる今こそ団結・行動し、果敢に折伏を行じていかなければならない。
(大白法 第一一六九号 令和八年三月十六日)
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