謗法厳誡(ほうぼうげんかい)を宗是とする本宗では、他宗の神社仏閣へ
の参拝は固く禁じられている。
では、神社にお参りしなければ、祭りで市中を練り歩く「おみこし」には参加してもよいのではないか、などと考える読者はいないだろうか。
さらに、祭りは宗教ではなく地域の伝統行事なのだから問題ない。そんな認識
であったならば、何とも恐ろしい謗法行為となってしまう。夏は祭りの多い季節。そうしたことがないよう、「おみこし」の意義を再確認しておこう。
神輿(みこし)は神の乗り物
そもそも「輿」(こし)とは、二本以上の棒の上に座席や箱が置かれ、人足(にんそく)に担がれる形式の、貴人が用(もち)いた乗り物の総称である。「おみこし」は神が乗る輿であるので「御神輿(みこし)」といわれ、
「御輿(みこし)」と「神輿」は同義で、社(やしろ)から神が外出する際の乗り物を意味する。
そのため形は社殿の形を踏襲(とうしゅう)したものが多く、よく見ると小さい鳥居が前部にあることが多い。つまり神輿とは、動き回る神社そのものといえる。 なので、担がれる神輿に人が乗っていることは基本的にはない。有名な京都の祇園(ぎおん)祭や岸和田のだんじり祭などで、人が乗ってお囃子(はやし)をしたり、うちわで煽(あお)ったりしているものは「山車(だし)」といって、神のお供をする屋台といった意味がある。 見分け方としては、人が担ぐのではなく、車輪がついてひいて曳(ひ)かれているのが特徴である。
地域の文化行事?
ところで、現在の創価学会では神輿を担ぐことは、容認傾向にあるらしい。創
価学会青年部が運営するメディアサイトの記事では、
「かつて創価学会の中では、お祭りに積極的に参加することは日蓮仏法の
信仰に背くことになるのではないかと考え、みこしを担ぐことなどを控える人もいました。しかし仏法では、『随方毘尼』と言って、仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、随うべきであると説いています」 (「地元の『みこし』を担いでみた件」 SOka youth media H. P.)
と述べる。
「みこしを担ぐこと」は風俗や風習の類(たぐ)いであるとするが、それこそ「仏法の根本の法理」である日蓮大聖人の教えに背く謗法行為である。
神は天上へ担ぐは悪鬼
大聖人は『新池御書』に、
「此(こ)の国は謗法の土(ど)なれば、守護の善神法味(ほうみ)にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入りか(替)はりて多くの人を導く(中略)堂塔寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)と成りぬ」
(御書 一四五八㌻)
と御教示のように、謗法の者が充満する国土では諸天神は法味(ほうみ)を求めて天に帰ってしまい、社は魔縁の住処(すみか)であるとされる。
よって、祭りの際に神輿に担がれるのは悪鬼、魔縁であることを知らなければならない。
善神は正法の行者を守護
大聖人は『四条金吾許(もと)御文』に、
「諸天善神の八幡大菩薩は、謗法の不正直者を憎んで天に上(のぼ)られているが、法華経の行者である大聖人の正法を正直に信ずるならば、その影を惜しむことなく、必ず守護される(趣意)」(同 一五二五㌻)
とも御教示である。仏法における正直とは、
「正直に方便を捨(す)てて但(ただ)無上道を説く」(法華経 一二四㌻)
と法華経 『方便品』に説かれるように、法華経以外の方便権教(ごんきょう)を捨てることであり、末法においては、本門戒壇の大御本尊を受持信行することにあたる。
悪鬼魔神の通力(つうりき)は恐ろしいもので、祭りには一見、華やかに人々を引きつける魅力があり、信仰心がない人々も集め、伝統行事と化して各地に根深く浸透している。
みこしを担いで一時の高揚感を得ても、諸天善神の守護はなく、肩が痛くなる
だけである。
真の「無上道」を知る我らは、今こそ大御本尊のもとへ多くの人を導いていく
よう精進しなければならない。
(大白法 第一一七七号 令和8年7月16日)
の参拝は固く禁じられている。
では、神社にお参りしなければ、祭りで市中を練り歩く「おみこし」には参加してもよいのではないか、などと考える読者はいないだろうか。
さらに、祭りは宗教ではなく地域の伝統行事なのだから問題ない。そんな認識
であったならば、何とも恐ろしい謗法行為となってしまう。夏は祭りの多い季節。そうしたことがないよう、「おみこし」の意義を再確認しておこう。
神輿(みこし)は神の乗り物
そもそも「輿」(こし)とは、二本以上の棒の上に座席や箱が置かれ、人足(にんそく)に担がれる形式の、貴人が用(もち)いた乗り物の総称である。「おみこし」は神が乗る輿であるので「御神輿(みこし)」といわれ、
「御輿(みこし)」と「神輿」は同義で、社(やしろ)から神が外出する際の乗り物を意味する。
そのため形は社殿の形を踏襲(とうしゅう)したものが多く、よく見ると小さい鳥居が前部にあることが多い。つまり神輿とは、動き回る神社そのものといえる。 なので、担がれる神輿に人が乗っていることは基本的にはない。有名な京都の祇園(ぎおん)祭や岸和田のだんじり祭などで、人が乗ってお囃子(はやし)をしたり、うちわで煽(あお)ったりしているものは「山車(だし)」といって、神のお供をする屋台といった意味がある。 見分け方としては、人が担ぐのではなく、車輪がついてひいて曳(ひ)かれているのが特徴である。
地域の文化行事?
ところで、現在の創価学会では神輿を担ぐことは、容認傾向にあるらしい。創
価学会青年部が運営するメディアサイトの記事では、
「かつて創価学会の中では、お祭りに積極的に参加することは日蓮仏法の
信仰に背くことになるのではないかと考え、みこしを担ぐことなどを控える人もいました。しかし仏法では、『随方毘尼』と言って、仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代の風習を尊重し、随うべきであると説いています」 (「地元の『みこし』を担いでみた件」 SOka youth media H. P.)
と述べる。
「みこしを担ぐこと」は風俗や風習の類(たぐ)いであるとするが、それこそ「仏法の根本の法理」である日蓮大聖人の教えに背く謗法行為である。
神は天上へ担ぐは悪鬼
大聖人は『新池御書』に、
「此(こ)の国は謗法の土(ど)なれば、守護の善神法味(ほうみ)にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入りか(替)はりて多くの人を導く(中略)堂塔寺社は徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)と成りぬ」
(御書 一四五八㌻)
と御教示のように、謗法の者が充満する国土では諸天神は法味(ほうみ)を求めて天に帰ってしまい、社は魔縁の住処(すみか)であるとされる。
よって、祭りの際に神輿に担がれるのは悪鬼、魔縁であることを知らなければならない。
善神は正法の行者を守護
大聖人は『四条金吾許(もと)御文』に、
「諸天善神の八幡大菩薩は、謗法の不正直者を憎んで天に上(のぼ)られているが、法華経の行者である大聖人の正法を正直に信ずるならば、その影を惜しむことなく、必ず守護される(趣意)」(同 一五二五㌻)
とも御教示である。仏法における正直とは、
「正直に方便を捨(す)てて但(ただ)無上道を説く」(法華経 一二四㌻)
と法華経 『方便品』に説かれるように、法華経以外の方便権教(ごんきょう)を捨てることであり、末法においては、本門戒壇の大御本尊を受持信行することにあたる。
悪鬼魔神の通力(つうりき)は恐ろしいもので、祭りには一見、華やかに人々を引きつける魅力があり、信仰心がない人々も集め、伝統行事と化して各地に根深く浸透している。
みこしを担いで一時の高揚感を得ても、諸天善神の守護はなく、肩が痛くなる
だけである。
真の「無上道」を知る我らは、今こそ大御本尊のもとへ多くの人を導いていく
よう精進しなければならない。
(大白法 第一一七七号 令和8年7月16日)
RSSフィード