”釈尊の人間主義こそが根幹”と嘯(うそぶ)く学会
大聖人は”鎌倉時代の新修行の確立者”?
本文について入ってこうと思う。
「教学要編』第一章
仏法の人間主義の系譜
第一節 釈尊から流れる仏法の人間主義の系譜
ここでは、仏教の基礎概念として、釈尊について取り上げ、そこからどのように仏教が波及していったかを述べている。 そして、釈尊入滅から大乗仏教への流れ、さらに中国へ渡り『法華経』が成立していく過程を簡略に述べ、その流れに創価学会があるということを説明している。
この中で、創価学会が大聖人をどのように捉えているかの一文を示す。
<二千五百年にわたる仏教の広範な伝統の中で、日本の鎌倉時代に生きた日蓮大聖人(一二二二~一二八二年)は、インドで成立した大乗仏教の代表的な経典の一つである『法華経』(鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』)を根本の経典と定め
て、万民を救済する新しい修行法を確立された。創価学会は、この日蓮大聖人の仏法を継承し実践する仏教団体である。(一九頁)
この説明を読み、首をかしげることが多い。
まず、大聖人を、鎌倉時代に生きた人間日蓮としてしか見ていないことである。つまり、末法の御本仏として敬うことができなくなって
いるのである。
その証左として、「万民を救済する新しい修行法を確立された」などと記している。だが、大聖人が確立されたのは本当に修行法だけであろうか。法華経の新しい修行法を確立されたが故に尊い、としたら、大聖人が説かれたのはどこまでも釈尊の法華経の範疇(はんちゅう)を出ないことになる。
だが大聖人は、
「彼は脱、此は種なり」
(御書六五六頁)
と仰せられ、釈尊の法華経と大聖人の仏法との異なりを明示されている。されば、まずもって、大聖人の所持される法とは何であるのか、ここを追究すべきであり、そこに大聖人が御本仏にましますことが拝されるのである。
つまりは、大聖人の説かれる文底下種の妙法こそが根本であり、さらに、その妙法を久遠元初において大聖人が悟られた、というところに人法一箇の御法門がある。けっして、釈尊の法華経の修行法を確立したわけではないのである。
『教学要綱』は、こうした根本的誤りを犯した上で、<一人一人の個人の苦悩の現実から出発し、その苦悩からの解放、幸福の実現を目指して人間存在への深い洞察に基づき、さまざまな教えと実践を説かれた。
そこには、仏教における「生命の尊厳」「万民の尊敬」という思想性が示されている>(二二頁)
と記して、釈尊の教えが「生命の尊厳」「万民の尊敬」にあるなどとしている。そして、「生命の尊厳」「万人の尊敬」の思想を、創価学会では仏法の人間主義と呼んでいる〉(同頁)と勝手に命名している。
以上のことから、学会は大聖人よりも、釈尊の人間主義こそが根幹であるとしていること、また、大聖人を法華経の修行法を確立された方とすることからも、すでに御本仏として拝することができなくなったことが明らかである。
(慧妙 令和六年三月十六日号)
大聖人は”鎌倉時代の新修行の確立者”?
本文について入ってこうと思う。
「教学要編』第一章
仏法の人間主義の系譜
第一節 釈尊から流れる仏法の人間主義の系譜
ここでは、仏教の基礎概念として、釈尊について取り上げ、そこからどのように仏教が波及していったかを述べている。 そして、釈尊入滅から大乗仏教への流れ、さらに中国へ渡り『法華経』が成立していく過程を簡略に述べ、その流れに創価学会があるということを説明している。
この中で、創価学会が大聖人をどのように捉えているかの一文を示す。
<二千五百年にわたる仏教の広範な伝統の中で、日本の鎌倉時代に生きた日蓮大聖人(一二二二~一二八二年)は、インドで成立した大乗仏教の代表的な経典の一つである『法華経』(鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』)を根本の経典と定め
て、万民を救済する新しい修行法を確立された。創価学会は、この日蓮大聖人の仏法を継承し実践する仏教団体である。(一九頁)
この説明を読み、首をかしげることが多い。
まず、大聖人を、鎌倉時代に生きた人間日蓮としてしか見ていないことである。つまり、末法の御本仏として敬うことができなくなって
いるのである。
その証左として、「万民を救済する新しい修行法を確立された」などと記している。だが、大聖人が確立されたのは本当に修行法だけであろうか。法華経の新しい修行法を確立されたが故に尊い、としたら、大聖人が説かれたのはどこまでも釈尊の法華経の範疇(はんちゅう)を出ないことになる。
だが大聖人は、
「彼は脱、此は種なり」
(御書六五六頁)
と仰せられ、釈尊の法華経と大聖人の仏法との異なりを明示されている。されば、まずもって、大聖人の所持される法とは何であるのか、ここを追究すべきであり、そこに大聖人が御本仏にましますことが拝されるのである。
つまりは、大聖人の説かれる文底下種の妙法こそが根本であり、さらに、その妙法を久遠元初において大聖人が悟られた、というところに人法一箇の御法門がある。けっして、釈尊の法華経の修行法を確立したわけではないのである。
『教学要綱』は、こうした根本的誤りを犯した上で、<一人一人の個人の苦悩の現実から出発し、その苦悩からの解放、幸福の実現を目指して人間存在への深い洞察に基づき、さまざまな教えと実践を説かれた。
そこには、仏教における「生命の尊厳」「万民の尊敬」という思想性が示されている>(二二頁)
と記して、釈尊の教えが「生命の尊厳」「万民の尊敬」にあるなどとしている。そして、「生命の尊厳」「万人の尊敬」の思想を、創価学会では仏法の人間主義と呼んでいる〉(同頁)と勝手に命名している。
以上のことから、学会は大聖人よりも、釈尊の人間主義こそが根幹であるとしていること、また、大聖人を法華経の修行法を確立された方とすることからも、すでに御本仏として拝することができなくなったことが明らかである。
(慧妙 令和六年三月十六日号)