[宗 祖] 隠元隆琦 (大光普照国師・一五九二 ~ 一六七三)
[本尊]特定の本尊を崇拝しない。個々の寺院の縁によって釈迦牟尼仏・観音像・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩等が祀られる
[経典]心を宗とし無門を法門とする。化法として大小乗経論を用いる
般若心経・阿弥陀経
[大本山]万福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割三四
[寺院協会数]四六三
[教師数]四六二
[信徒数]三五〇、〇〇〇
黄檗宗(おうばくしゅう)は、明から来朝した隠元が京都宇治に黄檗山万
福寺を開創したことにはじまる。 黄檗宗の名称は明治九年に公称したものである。隠元は、明時代の末、中国の福建省で生まれ、二九歳のとき、同省福州の臨済宗黄檗山万福寺に入り、鑑源について得度し禅を修行した。また中国の各地を訪れ、密雲円悟や費隠通容(ひおんつうよう)のもとで修行を重ね、四三歳のとき、費隠のあとを受けて黄檗山万福寺を継いだ。
その後、肥前(長崎県)の興福寺(俗称・南京寺) 逸然などの請いによって、承応三 (一六五四)年七月、隠元六三歳のとき、万福寺を弟子の慧門に譲り、二〇余人
の弟子とともに日本に渡来した。
隠元は、万治元 (一六五八)年一一月、将軍徳川家綱より宇治の土地を与えられ、寛文元(一六六一)年八月、その地に黄檗山万福寺を建立し、この山号にちなんで黄檗宗という日本独自の宗派を開いた。なお日本の黄檗山に対して、中国の黄檗山を古黄檗という。
寛文四(一六六四)年、隠元は万福寺を木庵に譲り、延宝元 (一六七二)年四月、八二歳で入寂した。
隠元没後の黄檗宗は、上皇や幕府の帰依を受けて全国に寺院が建立され、宗勢は大きく発展し、最盛期には末寺三、五〇〇を数えたという。黄檗宗の僧は明からの留学生が多く、万福寺の第二一代までは一人を除き渡来僧が住持を務め、二二代以降は日本の僧が住職となっている。
明治時代になり黄檗宗は、帰依していた諸大名の没落と廃仏毀釈の施策によって、廃寺となる寺院が続出した。
明治七(一八七四)年、太政官布告(明治五年発布)により臨済宗に合併したが、二年後にはまた黄檗宗として分離独立し、今日に至っている。
<黄檗宗の特徴>
隠元の教えは、人が生まれながら具えている仏心を坐禅によって見出し、仏と同じ境地を体得させようとするものである。
黄檗宗では坐禅を重視するとともに、作務、朝夕の念仏、写経、食事の作法など生活のすべてに精進し、実践による錬心を中心とした修行で仏の世界に至れるように努力すべきである、と説いている。
黄檗宗の第一の特徴は、念仏禅といわれるものである。黄檗禅は本来臨済禅の一つであるが、臨済宗や曹洞宗の禅とは異なり、禅のなかに念仏を取り入れた念禅一致を説いている。黄檗禅でいう浄土は、浄土教でいう浄土で
はなく、己の心のなかにあるとする天台・真言で説くような浄土である。
隠元は、朝夕の勤行に、浄土讃 阿弥陀経などを読誦し、参禅で仏心をきわめ、念仏によって阿弥陀を体得することを主張した。
第二の特徴は、読経の発音である。一般仏教では呉音であるが、黄檗宗の読経は唐音を用いている。たとえば「南無阿弥陀仏」も、読み方は「ナムオミトーフー」と読む。
また木魚(もくぎょ)・磬子(けいう)・銅鑼(どら)・引磬(いんきん)等の鳴り物を使い、リズムにのって経を読むことから、「黄檗の梵唄(ばんばい)」といわれ第三の特徴は、黄檗山万福寺に見られる建築の様式である。寺院のたたずまい、窓の形、壁の色彩等は、すべて中国の明朝時代の様式が取り入れられている。
【破折】
禅宗の付法蔵は欺瞞
曹洞宗の道元は「単伝正直の仏法」といい、釈尊から付嘱を受けた迦葉より、第二八祖達磨が相承して中国に伝えた禅が仏法の正統であり、その教えが自らに伝わったとする。しかし釈尊からの付法は、第二祖迦葉・第三祖阿難と次第して第二四祖師子尊者に至ったが、師子尊者はダンミラ王に殺されたので付法蔵はそこで断絶している。
しかし禅宗では、付法蔵の断絶後も、勝手に婆舎斯多・不如蜜多・般若多羅と次第させ、第二八祖菩提達磨に付嘱されたとしている。 これは何の根拠もない後世の偽説にほかならない。
「拈華微笑」について
道元は『大梵天王問仏決疑経』の「拈華微笑」の説話『正法眼蔵』の中に引用し、自宗の拠り所としている。
釈尊が、迦葉に付法蔵の第一として小乗の法を付嘱されたことは事実であるが、禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたという。
しかし釈尊の涅槃のときには、 迦葉はその場にいなかったのである。ゆえに『大梵天王問仏決疑経』のように、釈尊が華を括って迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、まったく根拠のない作り話である。
教外別伝・不立文字
禅宗で主張する教外別伝の根拠は、『大梵天王問仏決疑経』の「仏言はく、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り、文字を立てず、教外に別伝し (中略)摩訶迦葉に付嘱するのみ」という文である。
禅宗では、これを根拠に「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないか。また
不立文字とは文字を立てないことであるから、当然、経典等は用いないことになるが、教外別伝の根拠を 『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違である。
しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、唐時代の末の慧炬(えこ)の『宝林伝』の中に記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』 『開元釈教録』にもその名称はない。このことからも『大梵天王問仏決疑経』
は古来偽経扱いされているのである。
また、達磨は『楞伽経』四巻を註釈した書五巻を作り、第二祖慧可に禅の法を正しく伝えたとしているが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違している。
一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の
「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」
と説かれるように、天魔の所業といわざるをえない。
◆直指人心・見性成仏
禅宗では、「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとする。たしかに円教の理においては十界の衆生はすべて仏といえるが、しかしこれは単なる理仏であって
実際の仏ではない。
三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできない。だからこそ、釈尊は『涅槃経』に
「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」
と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきではない、と誠められているのである。完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは、増上慢以外の何ものでもない。
(諸宗破折ガイド 95㌻)
[本尊]特定の本尊を崇拝しない。個々の寺院の縁によって釈迦牟尼仏・観音像・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩等が祀られる
[経典]心を宗とし無門を法門とする。化法として大小乗経論を用いる
般若心経・阿弥陀経
[大本山]万福寺 京都府宇治市五ケ庄三番割三四
[寺院協会数]四六三
[教師数]四六二
[信徒数]三五〇、〇〇〇
黄檗宗(おうばくしゅう)は、明から来朝した隠元が京都宇治に黄檗山万
福寺を開創したことにはじまる。 黄檗宗の名称は明治九年に公称したものである。隠元は、明時代の末、中国の福建省で生まれ、二九歳のとき、同省福州の臨済宗黄檗山万福寺に入り、鑑源について得度し禅を修行した。また中国の各地を訪れ、密雲円悟や費隠通容(ひおんつうよう)のもとで修行を重ね、四三歳のとき、費隠のあとを受けて黄檗山万福寺を継いだ。
その後、肥前(長崎県)の興福寺(俗称・南京寺) 逸然などの請いによって、承応三 (一六五四)年七月、隠元六三歳のとき、万福寺を弟子の慧門に譲り、二〇余人
の弟子とともに日本に渡来した。
隠元は、万治元 (一六五八)年一一月、将軍徳川家綱より宇治の土地を与えられ、寛文元(一六六一)年八月、その地に黄檗山万福寺を建立し、この山号にちなんで黄檗宗という日本独自の宗派を開いた。なお日本の黄檗山に対して、中国の黄檗山を古黄檗という。
寛文四(一六六四)年、隠元は万福寺を木庵に譲り、延宝元 (一六七二)年四月、八二歳で入寂した。
隠元没後の黄檗宗は、上皇や幕府の帰依を受けて全国に寺院が建立され、宗勢は大きく発展し、最盛期には末寺三、五〇〇を数えたという。黄檗宗の僧は明からの留学生が多く、万福寺の第二一代までは一人を除き渡来僧が住持を務め、二二代以降は日本の僧が住職となっている。
明治時代になり黄檗宗は、帰依していた諸大名の没落と廃仏毀釈の施策によって、廃寺となる寺院が続出した。
明治七(一八七四)年、太政官布告(明治五年発布)により臨済宗に合併したが、二年後にはまた黄檗宗として分離独立し、今日に至っている。
<黄檗宗の特徴>
隠元の教えは、人が生まれながら具えている仏心を坐禅によって見出し、仏と同じ境地を体得させようとするものである。
黄檗宗では坐禅を重視するとともに、作務、朝夕の念仏、写経、食事の作法など生活のすべてに精進し、実践による錬心を中心とした修行で仏の世界に至れるように努力すべきである、と説いている。
黄檗宗の第一の特徴は、念仏禅といわれるものである。黄檗禅は本来臨済禅の一つであるが、臨済宗や曹洞宗の禅とは異なり、禅のなかに念仏を取り入れた念禅一致を説いている。黄檗禅でいう浄土は、浄土教でいう浄土で
はなく、己の心のなかにあるとする天台・真言で説くような浄土である。
隠元は、朝夕の勤行に、浄土讃 阿弥陀経などを読誦し、参禅で仏心をきわめ、念仏によって阿弥陀を体得することを主張した。
第二の特徴は、読経の発音である。一般仏教では呉音であるが、黄檗宗の読経は唐音を用いている。たとえば「南無阿弥陀仏」も、読み方は「ナムオミトーフー」と読む。
また木魚(もくぎょ)・磬子(けいう)・銅鑼(どら)・引磬(いんきん)等の鳴り物を使い、リズムにのって経を読むことから、「黄檗の梵唄(ばんばい)」といわれ第三の特徴は、黄檗山万福寺に見られる建築の様式である。寺院のたたずまい、窓の形、壁の色彩等は、すべて中国の明朝時代の様式が取り入れられている。
【破折】
禅宗の付法蔵は欺瞞
曹洞宗の道元は「単伝正直の仏法」といい、釈尊から付嘱を受けた迦葉より、第二八祖達磨が相承して中国に伝えた禅が仏法の正統であり、その教えが自らに伝わったとする。しかし釈尊からの付法は、第二祖迦葉・第三祖阿難と次第して第二四祖師子尊者に至ったが、師子尊者はダンミラ王に殺されたので付法蔵はそこで断絶している。
しかし禅宗では、付法蔵の断絶後も、勝手に婆舎斯多・不如蜜多・般若多羅と次第させ、第二八祖菩提達磨に付嘱されたとしている。 これは何の根拠もない後世の偽説にほかならない。
「拈華微笑」について
道元は『大梵天王問仏決疑経』の「拈華微笑」の説話『正法眼蔵』の中に引用し、自宗の拠り所としている。
釈尊が、迦葉に付法蔵の第一として小乗の法を付嘱されたことは事実であるが、禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたという。
しかし釈尊の涅槃のときには、 迦葉はその場にいなかったのである。ゆえに『大梵天王問仏決疑経』のように、釈尊が華を括って迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、まったく根拠のない作り話である。
教外別伝・不立文字
禅宗で主張する教外別伝の根拠は、『大梵天王問仏決疑経』の「仏言はく、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り、文字を立てず、教外に別伝し (中略)摩訶迦葉に付嘱するのみ」という文である。
禅宗では、これを根拠に「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないか。また
不立文字とは文字を立てないことであるから、当然、経典等は用いないことになるが、教外別伝の根拠を 『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違である。
しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、唐時代の末の慧炬(えこ)の『宝林伝』の中に記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』 『開元釈教録』にもその名称はない。このことからも『大梵天王問仏決疑経』
は古来偽経扱いされているのである。
また、達磨は『楞伽経』四巻を註釈した書五巻を作り、第二祖慧可に禅の法を正しく伝えたとしているが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違している。
一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の
「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」
と説かれるように、天魔の所業といわざるをえない。
◆直指人心・見性成仏
禅宗では、「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとする。たしかに円教の理においては十界の衆生はすべて仏といえるが、しかしこれは単なる理仏であって
実際の仏ではない。
三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできない。だからこそ、釈尊は『涅槃経』に
「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」
と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきではない、と誠められているのである。完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは、増上慢以外の何ものでもない。
(諸宗破折ガイド 95㌻)