長野県 妙相寺支部 石井 努(広島県在住)
冷酷無慈悲(れいこくむじひ)な顕正会で苦悩した日々 ”法戦”とは名ばかりの過酷な数争い。
長野県 妙相寺支部 石井 努(広島県在住)
浅井の我見(がけん)で動く顕正会
私は、平成十一年の四月より平成二十七年一月まで顕正会で活動し、その間に中国地方及び香川県の一部の組織を預かる形で幹部職を務め、多くの方々に顕正会を弘めてしまいました。そして、平成二十八年に顕正会を脱会して、四名の仲間と一緒に日蓮正宗に入信したのです。顕正会とは、元々は「妙信講(みょうしんこう)」といって、日蓮正宗の一講中だったのですが、”国立戒壇”に固執して脅迫や街宣
活動等を繰り返し、宗門から再三の教導にも反発し続けたあげく、昭和四十九年、ついに日蓮正宗から解散処分を受け、破門された団体
です。しかし、顕正会の中ではこの一連の状況が浅井昭衛(しょうえい)会長によって巧みに美化され、
「妙信講は、日蓮大聖人の御遺命を正しく主張したために、不当の解散処分を受けた」
という内容の指導が徹底されており、解散処分の真の理由に触れることはありませんでした。
その上、顕正会内部では、全ての会合で浅井会長を賛嘆し、
「自分達こそが、日蓮大聖人の仏法を正しく実践している唯一の団体」
と強く信じ込んでいるのです。
そして、創価学会はもちろんのこと、日蓮正宗に対しても
「宗門は御遺命を曲げた」
「僧侶は腐敗堕落している」
などと罵って憚(はば)らず、あげくの果てには、会内には浅井会長の教えだとして
「日達上人から日顕上人への血脈は断絶している。しかし、、この非常事態に正しい法主上人が出現して、血脈は蘇(よみがえ)る。そういうことになっている」
「近く日目上人が法主として再誕され、御遺命を正しく堅持し血脈は蘇る」
などという話がまことしやかに語り継がれ、私も顕正会に入って早い段階で、そのように聞かされておりました。
それに輪をかけて馬鹿げた話ではありますが、顕正会では
「広宣流布の暁には、日目上人が顕正会の本部会館に訪れる」
と教えられており、実際、顕正会本部には、広宣流布の暁に日目上人をお迎えする準備として、通称「貴賓室」と呼ばれる一室まで設けてあるのです。
顕正会には『御書』もなく、また平成二十年代からは日蓮大聖人の御文を学ぶ機会も少なくなって、幹部の指導は常に、、浅井会長の指導に基づくものであり、浅井会長の意図が反映されています。インターネットについても、
「顕正会に批判的な情報は見るな」
もしくは
「信じるな」
と指導されてるので、多くの会員は浅井会長と幹部の話のみを”日蓮大聖人の仏法”と信じて育ち、事実を知る機会がありません。私自身、十数年間、そうした環境下で
「顕正会だけが正しい、浅井会長だけが正しい。日蓮正宗や創価学会は大聖人様の御遺命に背いている」
と教えられ続け、
「浅井会長に従っていけば間違いない」
「自分達顕正会員こそが”地湧の菩薩”で浅井会長と共に広宣流布を成し遂げるのだ、宗門を正し、晴れて大聖人様のお褒めをいただくのだ」
との使命感に燃え、人生を懸けて活動していたのです。
理不尽(りふじん)な”数”の押付け
そのように顕正会を信じてやまなかった私が、脱会することになった最初のきっかけは、顕正会の中枢幹部の振る舞いと実態に疑問を持ったことでした。
顕正会は前向きには、
「尊敬し、励まし、いたわりあい、うるわしい団結」
とか
「白蓮華(びゃくれんげ)のような団体」
[「顕正会は正しいから強いのだ」
などと謳(うた)っています。しかし、組織内部の実態は、それとは真逆でした。
顕正会では「法戦」といって、数ヵ月程度で期間を区切り、組織ごとに
「折伏誓願」と称する勧誘の目標数を決められて活動します。
この「折伏誓願」の数字は、
「浅井先生が広宣流布から逆算して決めらている」
という意義付けがされており、会長・浅井昭衛の息子で、
顕正会の理事長でもある総男子部長の浅井城衛(じょうえい)をはじめとする中枢の幹部がそう喧伝するので、中間の幹部から末端まで
「浅井先生の戦い」
「広宣流布の逆算の戦い」
と思い込み、懸命に戦います。とにかく、この誓願数を達成しないと、大幹部から
「広宣流布を遅らせることになる」
「浅井先生に申し訳ない」
などと言っては厳しく追及されるので、会員、とくに中間幹部は、連日通夜
生活時間を削って死に物狂いで達成に突き進みます。しかし、この各組織に割り当てられる誓願の数が、それぞれの組織の力や現状を把握していない浅井城衛や無能な中枢幹部連中が決めた場合、理不尽な数字を課せられる組織もあったりするのです。
そして、分を超える数字を課せられた組織は、離脱していく人も多く、私が隊長として担当した組織では、私を含め多くの同志が愚痴や不満、疲労も激しく重なり、時間の経過とともに沈滞の一途を辿っていきました。
そのような状況を、本部にいる上層の幹部に相談した時などは、「それ、隊長の愚痴じゃない?」と一蹴され、責任を全て私に押し付けてくる始末で相談にもなりませんでした。
このように、顕正会の表向きの謳い文句である「尊敬し、励まし云々」など、幹部間では微塵も実行されていない組織がある事実が、私の中で顕正会への不信として募っていったことは否めません。
「顕正会は、とんでもない邪教かも」
こうした異常な体質や異常な幹部達を目の当たりにした経緯から、私は、幹部職を降格になった平成二十六年の五月末、幹部との関わりを全て断ちたく、翌月の六月に全ての役職を解いてほしい、との願いを出しました。
すると、部長(当時、中国・四国をまとめている人物)から怒りの電話がありました。内容は本当にくだらない、意味不明のものでしたが、ただ一点、
「俺は浅井総男子部長の命(めい)で電話している。(お前は)弟子ではない、叱り飛ばせ、と言われた」
との、浅井城衛が吐いた、との言葉だけは強く心に残りました。
当時の私は、組織は組織は腐っていても浅井会長と浅井総男子部長は私の苦悩を理解してくれる、と勝手に思っていたからです。
ところが、現実はそうではなく、十数年に亘って自今も人生も尽くした顕正会の男子部の長に、ここまで励ましも理解もなく、冷酷に突き放されるとは思ってもいなかったので、数ヵ月もの間、本当に苦しみました。
その後、放置・降格・隔離、さらに活動停止処分を警告する旨の本部通達を受け、組織への不信が極まった私は、自ら、平成二十七年の元旦を最後に顕正会の全ての活動を停止しました。
そして、平成二十七年の初頭、顕正会で禁じられていたインターネットを閲覧したところ、そこで初めて、「顕正会の本尊はニセ本尊」との記事と出会いました。
最初は「何をバカな、浅井先生がそんなことするわけがない」と思いながらも読み進めました。すると、そこに書いてある内容の具体性と裏付けの確かさ、そして、私も不思議に思っていた顕正会の本尊が常に真新しいという事実、さらには、御形木(おんかたぎ)の導師曼荼羅など世の中に絶対にありえないということ・・私は、記事を読んでいて、手が震えだしました。
「顕正会は、本尊を複製したとんでもない邪教かもしれない」ーー
組織や幹部への不信は極まっていた私でしたが、初めて浅井会長への信頼が激しく揺らいだ展開でした。
ただ、容易に相談できる内容ではないことから、一年以上、自分なりに調べていた時、縁あって顕正会時代に同じ組織にいた高知県の下元さんがすでに妙相寺の信徒となっていたので、三名の仲間と共に下元さんを訪ね、話を伺いました。
さらにその後日を改めても四時間にわたって話し合った結果、胸につかえていた疑問のほとんどが氷解しました。そして、後日、福山市の正教寺に行き、長谷川御住職も同席されての深夜に及ぶ折伏を受けて、数名の仲間と共に晴れて御受戒を受けることができたのです。
対論から逃げた大幹部
この日を境に、私は、顕正会員としての清算をするために準備を進めました。
知り得る限りの顕正会員に、ニセ本尊を始めとする顕正会の間違えを伝えねば、と思ったのです。
私が日蓮正宗に移ったことを、かつての顕正会仲間にメールで連絡すると、すぐに隊長から「除名通告」が送られてきました。
そして、かつて担当していた組織の中に、
「石井からの電話を取るな」
「メールへの返事はしなくていい」
「石井の連絡先を消せ」
という指示が出されたのです。そういう状況の中でも、隊長・部長といった、組織を束ねる幹部を折伏しようと連絡を試みましたが、
これにも返事がなく、顕正会の弱さ・卑怯さを目の当たりにした次第です。
そうした中、小沼貴寛から電話がありました。この小沼という男は、本部職員で、『顕正新聞』の発行人であると同時に、多くの組織を束ねる中枢幹部の一人で、近年の顕正会では名の通った人物です。
私は、この小沼のやり口については私が幹部だった時から知っておりましたので、電話だと適当にゴマカして逃げるだろう、と踏み、あとに証拠の残る文書を持って、「面談での対論」を迫りました。
小沼は電話で解決しようとしていたのでしょう。私が電話に応じず、あくまでも眼前での対論を迫ると、彼は無視するようになりました。その一方で、組織の中では恰好をつけたかったのでしょう。会員の前では、「石井の件は私が対応する」とか「石井と会いたい」
「石井と対論するために、文証を集め、準備している」などと強がっていたそうです。
それを伝え聞いた私が、「会いたいと言うならば、会いましょう」と、さらに直接の対論を迫ると、小沼は、
「私と対論する資格がないことを知れ」
などと、対論を拒否してきたのです。この二枚舌には呆れを通り越して、苦笑いするしかありませんでした。
結局、小沼は、ニセ本尊の説明や、勤行の改変、塔婆供養・戒名の否定、御僧侶抜きでの葬儀法要の執行と、こちらから提示した顕正会が抱える問題には何一つ返答せず。黙秘を決め込んで遁走したのです。
その後、私は地元顕正会への折伏と並行して、顕正会幹部の実態を体験の上から広く喧伝するようにしました。
すると、心ある現役の顕正会の方々から声が集まりだし、地元に限らず、北は青森などから、広範囲で顕正会を辞めて入信してくる方が相次いで出て来ました。
法華講で得た本物の信心の喜び
今、日蓮正宗法華講に入って思うことは、顕正会で語られる日蓮正宗の姿は全くのデタラメだった、とうことと、本当の広宣流布の闘いはこんなにも楽しいものなのか、ということです。顕正会で、情報を制限された中、理不尽かつ無制限な活動を強いられてきた時とは大違いで、大聖人様の本当の教えを正しく学ぶことができ、騙されているかつての同志に本当の仏法を教えてあげたいと、自然に折伏の念が涌いてるのです。
今後とも私は、自分が邪教に与(くみ)した経験をもとに、疑い、迷い、躊躇する顕正会員にできるかぎり、戒壇の大御本尊様との架け橋
と慣れれば、と思っております。
(平成三十一年二月十六日 慧妙)
冷酷無慈悲(れいこくむじひ)な顕正会で苦悩した日々 ”法戦”とは名ばかりの過酷な数争い。
長野県 妙相寺支部 石井 努(広島県在住)
浅井の我見(がけん)で動く顕正会
私は、平成十一年の四月より平成二十七年一月まで顕正会で活動し、その間に中国地方及び香川県の一部の組織を預かる形で幹部職を務め、多くの方々に顕正会を弘めてしまいました。そして、平成二十八年に顕正会を脱会して、四名の仲間と一緒に日蓮正宗に入信したのです。顕正会とは、元々は「妙信講(みょうしんこう)」といって、日蓮正宗の一講中だったのですが、”国立戒壇”に固執して脅迫や街宣
活動等を繰り返し、宗門から再三の教導にも反発し続けたあげく、昭和四十九年、ついに日蓮正宗から解散処分を受け、破門された団体
です。しかし、顕正会の中ではこの一連の状況が浅井昭衛(しょうえい)会長によって巧みに美化され、
「妙信講は、日蓮大聖人の御遺命を正しく主張したために、不当の解散処分を受けた」
という内容の指導が徹底されており、解散処分の真の理由に触れることはありませんでした。
その上、顕正会内部では、全ての会合で浅井会長を賛嘆し、
「自分達こそが、日蓮大聖人の仏法を正しく実践している唯一の団体」
と強く信じ込んでいるのです。
そして、創価学会はもちろんのこと、日蓮正宗に対しても
「宗門は御遺命を曲げた」
「僧侶は腐敗堕落している」
などと罵って憚(はば)らず、あげくの果てには、会内には浅井会長の教えだとして
「日達上人から日顕上人への血脈は断絶している。しかし、、この非常事態に正しい法主上人が出現して、血脈は蘇(よみがえ)る。そういうことになっている」
「近く日目上人が法主として再誕され、御遺命を正しく堅持し血脈は蘇る」
などという話がまことしやかに語り継がれ、私も顕正会に入って早い段階で、そのように聞かされておりました。
それに輪をかけて馬鹿げた話ではありますが、顕正会では
「広宣流布の暁には、日目上人が顕正会の本部会館に訪れる」
と教えられており、実際、顕正会本部には、広宣流布の暁に日目上人をお迎えする準備として、通称「貴賓室」と呼ばれる一室まで設けてあるのです。
顕正会には『御書』もなく、また平成二十年代からは日蓮大聖人の御文を学ぶ機会も少なくなって、幹部の指導は常に、、浅井会長の指導に基づくものであり、浅井会長の意図が反映されています。インターネットについても、
「顕正会に批判的な情報は見るな」
もしくは
「信じるな」
と指導されてるので、多くの会員は浅井会長と幹部の話のみを”日蓮大聖人の仏法”と信じて育ち、事実を知る機会がありません。私自身、十数年間、そうした環境下で
「顕正会だけが正しい、浅井会長だけが正しい。日蓮正宗や創価学会は大聖人様の御遺命に背いている」
と教えられ続け、
「浅井会長に従っていけば間違いない」
「自分達顕正会員こそが”地湧の菩薩”で浅井会長と共に広宣流布を成し遂げるのだ、宗門を正し、晴れて大聖人様のお褒めをいただくのだ」
との使命感に燃え、人生を懸けて活動していたのです。
理不尽(りふじん)な”数”の押付け
そのように顕正会を信じてやまなかった私が、脱会することになった最初のきっかけは、顕正会の中枢幹部の振る舞いと実態に疑問を持ったことでした。
顕正会は前向きには、
「尊敬し、励まし、いたわりあい、うるわしい団結」
とか
「白蓮華(びゃくれんげ)のような団体」
[「顕正会は正しいから強いのだ」
などと謳(うた)っています。しかし、組織内部の実態は、それとは真逆でした。
顕正会では「法戦」といって、数ヵ月程度で期間を区切り、組織ごとに
「折伏誓願」と称する勧誘の目標数を決められて活動します。
この「折伏誓願」の数字は、
「浅井先生が広宣流布から逆算して決めらている」
という意義付けがされており、会長・浅井昭衛の息子で、
顕正会の理事長でもある総男子部長の浅井城衛(じょうえい)をはじめとする中枢の幹部がそう喧伝するので、中間の幹部から末端まで
「浅井先生の戦い」
「広宣流布の逆算の戦い」
と思い込み、懸命に戦います。とにかく、この誓願数を達成しないと、大幹部から
「広宣流布を遅らせることになる」
「浅井先生に申し訳ない」
などと言っては厳しく追及されるので、会員、とくに中間幹部は、連日通夜
生活時間を削って死に物狂いで達成に突き進みます。しかし、この各組織に割り当てられる誓願の数が、それぞれの組織の力や現状を把握していない浅井城衛や無能な中枢幹部連中が決めた場合、理不尽な数字を課せられる組織もあったりするのです。
そして、分を超える数字を課せられた組織は、離脱していく人も多く、私が隊長として担当した組織では、私を含め多くの同志が愚痴や不満、疲労も激しく重なり、時間の経過とともに沈滞の一途を辿っていきました。
そのような状況を、本部にいる上層の幹部に相談した時などは、「それ、隊長の愚痴じゃない?」と一蹴され、責任を全て私に押し付けてくる始末で相談にもなりませんでした。
このように、顕正会の表向きの謳い文句である「尊敬し、励まし云々」など、幹部間では微塵も実行されていない組織がある事実が、私の中で顕正会への不信として募っていったことは否めません。
「顕正会は、とんでもない邪教かも」
こうした異常な体質や異常な幹部達を目の当たりにした経緯から、私は、幹部職を降格になった平成二十六年の五月末、幹部との関わりを全て断ちたく、翌月の六月に全ての役職を解いてほしい、との願いを出しました。
すると、部長(当時、中国・四国をまとめている人物)から怒りの電話がありました。内容は本当にくだらない、意味不明のものでしたが、ただ一点、
「俺は浅井総男子部長の命(めい)で電話している。(お前は)弟子ではない、叱り飛ばせ、と言われた」
との、浅井城衛が吐いた、との言葉だけは強く心に残りました。
当時の私は、組織は組織は腐っていても浅井会長と浅井総男子部長は私の苦悩を理解してくれる、と勝手に思っていたからです。
ところが、現実はそうではなく、十数年に亘って自今も人生も尽くした顕正会の男子部の長に、ここまで励ましも理解もなく、冷酷に突き放されるとは思ってもいなかったので、数ヵ月もの間、本当に苦しみました。
その後、放置・降格・隔離、さらに活動停止処分を警告する旨の本部通達を受け、組織への不信が極まった私は、自ら、平成二十七年の元旦を最後に顕正会の全ての活動を停止しました。
そして、平成二十七年の初頭、顕正会で禁じられていたインターネットを閲覧したところ、そこで初めて、「顕正会の本尊はニセ本尊」との記事と出会いました。
最初は「何をバカな、浅井先生がそんなことするわけがない」と思いながらも読み進めました。すると、そこに書いてある内容の具体性と裏付けの確かさ、そして、私も不思議に思っていた顕正会の本尊が常に真新しいという事実、さらには、御形木(おんかたぎ)の導師曼荼羅など世の中に絶対にありえないということ・・私は、記事を読んでいて、手が震えだしました。
「顕正会は、本尊を複製したとんでもない邪教かもしれない」ーー
組織や幹部への不信は極まっていた私でしたが、初めて浅井会長への信頼が激しく揺らいだ展開でした。
ただ、容易に相談できる内容ではないことから、一年以上、自分なりに調べていた時、縁あって顕正会時代に同じ組織にいた高知県の下元さんがすでに妙相寺の信徒となっていたので、三名の仲間と共に下元さんを訪ね、話を伺いました。
さらにその後日を改めても四時間にわたって話し合った結果、胸につかえていた疑問のほとんどが氷解しました。そして、後日、福山市の正教寺に行き、長谷川御住職も同席されての深夜に及ぶ折伏を受けて、数名の仲間と共に晴れて御受戒を受けることができたのです。
対論から逃げた大幹部
この日を境に、私は、顕正会員としての清算をするために準備を進めました。
知り得る限りの顕正会員に、ニセ本尊を始めとする顕正会の間違えを伝えねば、と思ったのです。
私が日蓮正宗に移ったことを、かつての顕正会仲間にメールで連絡すると、すぐに隊長から「除名通告」が送られてきました。
そして、かつて担当していた組織の中に、
「石井からの電話を取るな」
「メールへの返事はしなくていい」
「石井の連絡先を消せ」
という指示が出されたのです。そういう状況の中でも、隊長・部長といった、組織を束ねる幹部を折伏しようと連絡を試みましたが、
これにも返事がなく、顕正会の弱さ・卑怯さを目の当たりにした次第です。
そうした中、小沼貴寛から電話がありました。この小沼という男は、本部職員で、『顕正新聞』の発行人であると同時に、多くの組織を束ねる中枢幹部の一人で、近年の顕正会では名の通った人物です。
私は、この小沼のやり口については私が幹部だった時から知っておりましたので、電話だと適当にゴマカして逃げるだろう、と踏み、あとに証拠の残る文書を持って、「面談での対論」を迫りました。
小沼は電話で解決しようとしていたのでしょう。私が電話に応じず、あくまでも眼前での対論を迫ると、彼は無視するようになりました。その一方で、組織の中では恰好をつけたかったのでしょう。会員の前では、「石井の件は私が対応する」とか「石井と会いたい」
「石井と対論するために、文証を集め、準備している」などと強がっていたそうです。
それを伝え聞いた私が、「会いたいと言うならば、会いましょう」と、さらに直接の対論を迫ると、小沼は、
「私と対論する資格がないことを知れ」
などと、対論を拒否してきたのです。この二枚舌には呆れを通り越して、苦笑いするしかありませんでした。
結局、小沼は、ニセ本尊の説明や、勤行の改変、塔婆供養・戒名の否定、御僧侶抜きでの葬儀法要の執行と、こちらから提示した顕正会が抱える問題には何一つ返答せず。黙秘を決め込んで遁走したのです。
その後、私は地元顕正会への折伏と並行して、顕正会幹部の実態を体験の上から広く喧伝するようにしました。
すると、心ある現役の顕正会の方々から声が集まりだし、地元に限らず、北は青森などから、広範囲で顕正会を辞めて入信してくる方が相次いで出て来ました。
法華講で得た本物の信心の喜び
今、日蓮正宗法華講に入って思うことは、顕正会で語られる日蓮正宗の姿は全くのデタラメだった、とうことと、本当の広宣流布の闘いはこんなにも楽しいものなのか、ということです。顕正会で、情報を制限された中、理不尽かつ無制限な活動を強いられてきた時とは大違いで、大聖人様の本当の教えを正しく学ぶことができ、騙されているかつての同志に本当の仏法を教えてあげたいと、自然に折伏の念が涌いてるのです。
今後とも私は、自分が邪教に与(くみ)した経験をもとに、疑い、迷い、躊躇する顕正会員にできるかぎり、戒壇の大御本尊様との架け橋
と慣れれば、と思っております。
(平成三十一年二月十六日 慧妙)