【『学会要綱』の主張】
「大乗仏教の起源についてはさまざまな仮説があり結論は出ていないが、紀元前後頃から多種多様な大乗経典が編纂されていったことは確かな事実である。 その中で、先行する系統の異なる教説を整理・評価して、新しい思想を提唱する経典も誕生した。その一つが、あらゆる衆生が成仏できることを説く 『法華経』である」(二四)
1、法華経は釈尊の直説ではないとする妄説
『学会要綱』では大乗仏教の成立について、昨今の仏教学の潮流に乗り、大乗仏教は釈尊の説いたものではなく、部派仏教の後から興(おこ)った一つの思想であるとし、法華経については釈尊滅後に起こった大乗仏教の一つであり、あらゆる衆生の成仏を説く、新しい思想を提唱した経典であると述べている。
その上で法華経をどのように評価するのかについて、
「あらゆる差異を超えて万人成仏を説いた『法華経』は、万人の幸福を願った釈尊の思想と行動を、新たな形で復活・蘇生させたものといえる。創価学会では仏教における『生命の尊厳』『万人の尊敬』の思想を仏法の人間主義と呼ぶと先に述べたが、『法華経』はまさしく、この仏法の人間主義を体現するものであり、万人の幸福の実現という釈尊の願いを正しく説き表した、大乗仏教の真髄ともいうべき経典である」(二七㌻)
と、万人の成仏を説く法華経は、万人の幸福を願った釈尊の思想と合致し、釈尊の教えを新たに復活させたものであり、人間主義を体現し、釈尊の願いを説き表した大乗仏教の真髄であるという。
要するに『学会要綱』 では、法華経は釈尊が実際に説いたものではないが、釈尊の精神には適(かな)っているというのである。
こうした言い分は、法華経を正法と立てる以上、全く成り立たない。言うまでもなく法華経は一貫して「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」が説いたものである。
如来寿量品第十六には、
「今(いま)の釈迦牟尼仏は、釈氏(しゃくし)の宮(みや)を出でて、伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に坐(ざ)し
て、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえりと謂(おも)えり。然(しか)るに善男子(ぜんなんし)、我(われ)実に成仏してより巳来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫(なゆたこう)なり」(法華経四二九㌻)
と、インド応誕の釈尊が成道して法華経を説き、始成正覚(しじょうしょうかく)を破って久遠実成(くおんじつじょう)の仏身を開顕したことが説かれている。 法華経が釈尊ののちから興った思想であるとするならば、 法華経の教説とは明らかに矛盾する。
法華経の釈尊直説(じきせつ)を認めない以上、久遠実成も、上行等の地涌の菩薩も、結要(けっちょう)付嘱も、さらには妙法蓮華経の五字までもが虚妄(こもう)となり、法華経を正法と立てることなど不可能となる。
大聖人は、
「我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり」
(『善無畏三蔵抄』御書四三九㌻)
「我等が本師釈迦如来、初成道の始めより法華を説かんと思(おぼ)し食(め)ししかども(中略)先づ権教たる方便を四十余年が間説きて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり」(『如説修行抄』同六七一㌻)
等と、諸御書の中で、明確に法華経および諸経は仏の金言、すなわち釈尊が説かれたものと御教示である。
『学会要綱』では、
「『御書根本』『日蓮大聖人直結』の立場から、大聖人の仏法の本義に基づき、創価学会の教学を形成してきました」(一㌻)
などと述べているが、その内容たるや大聖人の法門を明確に否定するものである。「御書根本」「大聖人直結」などの主張は全く当たらない。
2、大聖人は法華経の真実を証明
大聖人の「大難四カ度、小難数知れず」といわれる御一期の御化導は、大聖人御自ら法華経の身読(しんどく)であると仰せになっている。
それゆえ 『開目抄』に、
「法華経の第五の巻、勧持品(かんじほん)の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生まれずば、ほ(殆)とをど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆(だいば)が虚証罪(こおうざい)にも堕ちぬべし(中略)日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語(もうご)となりぬ」(御書五四一㌻)
等と、大聖人がいなければ法華経は妄語になってしまうと仰せられている。
大聖人の忍難弘通のお振る舞いは、法華経の真実を証明するものである。釈尊の真実の経説である法華経によって宗旨を立てるのが日蓮大聖人のお立場であり、大乗仏教全般が釈尊の直説ではないかのように述べる『学会要綱』が、法華経・大聖人に違背することは明白である。
「大乗仏教の起源についてはさまざまな仮説があり結論は出ていないが、紀元前後頃から多種多様な大乗経典が編纂されていったことは確かな事実である。 その中で、先行する系統の異なる教説を整理・評価して、新しい思想を提唱する経典も誕生した。その一つが、あらゆる衆生が成仏できることを説く 『法華経』である」(二四)
1、法華経は釈尊の直説ではないとする妄説
『学会要綱』では大乗仏教の成立について、昨今の仏教学の潮流に乗り、大乗仏教は釈尊の説いたものではなく、部派仏教の後から興(おこ)った一つの思想であるとし、法華経については釈尊滅後に起こった大乗仏教の一つであり、あらゆる衆生の成仏を説く、新しい思想を提唱した経典であると述べている。
その上で法華経をどのように評価するのかについて、
「あらゆる差異を超えて万人成仏を説いた『法華経』は、万人の幸福を願った釈尊の思想と行動を、新たな形で復活・蘇生させたものといえる。創価学会では仏教における『生命の尊厳』『万人の尊敬』の思想を仏法の人間主義と呼ぶと先に述べたが、『法華経』はまさしく、この仏法の人間主義を体現するものであり、万人の幸福の実現という釈尊の願いを正しく説き表した、大乗仏教の真髄ともいうべき経典である」(二七㌻)
と、万人の成仏を説く法華経は、万人の幸福を願った釈尊の思想と合致し、釈尊の教えを新たに復活させたものであり、人間主義を体現し、釈尊の願いを説き表した大乗仏教の真髄であるという。
要するに『学会要綱』 では、法華経は釈尊が実際に説いたものではないが、釈尊の精神には適(かな)っているというのである。
こうした言い分は、法華経を正法と立てる以上、全く成り立たない。言うまでもなく法華経は一貫して「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」が説いたものである。
如来寿量品第十六には、
「今(いま)の釈迦牟尼仏は、釈氏(しゃくし)の宮(みや)を出でて、伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、道場に坐(ざ)し
て、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえりと謂(おも)えり。然(しか)るに善男子(ぜんなんし)、我(われ)実に成仏してより巳来(このかた)、無量無辺百千万億那由他劫(なゆたこう)なり」(法華経四二九㌻)
と、インド応誕の釈尊が成道して法華経を説き、始成正覚(しじょうしょうかく)を破って久遠実成(くおんじつじょう)の仏身を開顕したことが説かれている。 法華経が釈尊ののちから興った思想であるとするならば、 法華経の教説とは明らかに矛盾する。
法華経の釈尊直説(じきせつ)を認めない以上、久遠実成も、上行等の地涌の菩薩も、結要(けっちょう)付嘱も、さらには妙法蓮華経の五字までもが虚妄(こもう)となり、法華経を正法と立てることなど不可能となる。
大聖人は、
「我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり」
(『善無畏三蔵抄』御書四三九㌻)
「我等が本師釈迦如来、初成道の始めより法華を説かんと思(おぼ)し食(め)ししかども(中略)先づ権教たる方便を四十余年が間説きて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり」(『如説修行抄』同六七一㌻)
等と、諸御書の中で、明確に法華経および諸経は仏の金言、すなわち釈尊が説かれたものと御教示である。
『学会要綱』では、
「『御書根本』『日蓮大聖人直結』の立場から、大聖人の仏法の本義に基づき、創価学会の教学を形成してきました」(一㌻)
などと述べているが、その内容たるや大聖人の法門を明確に否定するものである。「御書根本」「大聖人直結」などの主張は全く当たらない。
2、大聖人は法華経の真実を証明
大聖人の「大難四カ度、小難数知れず」といわれる御一期の御化導は、大聖人御自ら法華経の身読(しんどく)であると仰せになっている。
それゆえ 『開目抄』に、
「法華経の第五の巻、勧持品(かんじほん)の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生まれずば、ほ(殆)とをど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆(だいば)が虚証罪(こおうざい)にも堕ちぬべし(中略)日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語(もうご)となりぬ」(御書五四一㌻)
等と、大聖人がいなければ法華経は妄語になってしまうと仰せられている。
大聖人の忍難弘通のお振る舞いは、法華経の真実を証明するものである。釈尊の真実の経説である法華経によって宗旨を立てるのが日蓮大聖人のお立場であり、大乗仏教全般が釈尊の直説ではないかのように述べる『学会要綱』が、法華経・大聖人に違背することは明白である。
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