今、正法正師(しょうぼうしょうし)に辿(たど)り着いた喜びを実感!
東京都練馬区・華王寺支部 平野 正樹
学会に対する疑問の芽生(めば)え
私は、写真学校時代のアルバイト先の経営者・Nさんの紹介で、昭和五十一年一月、二十三歳の時に練馬の華王寺で御受戒を受け、学会員となりました。当時は、生きることへの意味や目的が分からず悶々としており、高校生の時に夢中になった社会主義運動にも挫折して、今度は世界三大宗教の一つである仏教を信仰してみよう、と思っての入信でした。その後、年収(!)二十四万円写真家助手の生活が十年ほど続き、あまりの厳しさから逃げ出したくなる気持ちも起こりかけましたが、そのつど、日蓮大聖人の御金言が、自分の宿業や弱さを凝視させ、支えてくれました。
池田大作との出会いは、入信まもない頃、創価学会の「練馬の日」でした。練馬文化会館の御宝前に現れた池田は、紙幅の御本尊様を背にタバコを一服し、固唾(かたず)を呑んで見守っている会員に向かって、
「ここでタバコを吸いたかったら、会長になりなさい」
と第一声を放ちました。
私の常識ではとうてい考えられないこの言動に、度肝を抜かれ、世の中には凄い人がいるものだと、呆気にとられたことを鮮明に覚えています。
この時はわかりませんでしたが、この池田の行動は、自身が日蓮大聖人の再誕、もしくは、”絶対者”であるかのように会員に印象付けようとするパフォーマンスの一つだったと確信します。
私は学会では芸術部の人材グループにも身を置き、昭和六十年、二十五歳の時にはフリーランスの写真家として独立、経済的にも安定した昭和六十二年、結婚と同時に世田谷区に引っ越しました。
引っ越してすぐ、たまたま選挙の投票日だったのですが、なんと、妻が、世田谷区の学会幹部から”替え玉投票”を強(し)いられました。まだ地域に顔を知られていなかったからでしょう。
その事実を知らされた私は、幹部に抗議しようとしましたが、誰も説明にも現れず、結局ウヤムヤになってしまいました。当時の世田谷区の創価学会では、チャンスさえあれば替え玉投票は当たり前、ということだったようです。
ちなみに、これだけの理由ではありませんが、私はそれ以来、一度も公明党に投票しておりません。
決定打となった池田からの伝言
平成に入った頃になって、ようやく鈍い私ですから『聖教新聞』の紙面から、池田自身が”創価学会トップの世襲を企画していることや、自分が御本尊と同格以上であるかのような振る舞いをしていることを感じ取り、「これはおかしい」とハッキリ見抜けるようになりました。思い余って、会合の際、「最近、センセーはオカシイのではないか」ということを匂わすと、地区の末端幹部は、あえて「センセー」を連呼して池田礼賛の度合いを増すばかりでした。
これに閉口した私は、役職は一切受けませんでした。
池田大作に対する不信・嫌悪は、日増しに強まっていきましたが、周囲には私と同じように感じる人は見当たらず、
「もしかすると、自分のほうがオカシイのでは?」
と思う時すらあり、まともな話し相手は妻だけという、孤立した苦しい日々が続きました。
しかし、転機の時が来ました。
信濃町文化会館での芸術部の会合の折り、池田本人から伝言が回ってきたのですが、その内容は
「アメリカのSGIメンバーが登山のために来日したが、御開扉が受けられなくなった。しかし、大御本尊様にお目通りできなくとも、ボクに会えればよいのだ」
というものでした。この頃はまだ、学会員の御開扉は許されておりましたから、なぜアメリカのメンバーが御開扉を受けられなかったのかは不明です。
何はともあれ、この伝言で私は吹っ切れました。
「宗祖日蓮大聖人のような法難も受けていないくせに、三国四師(釈尊・天台・伝教・日蓮大聖人)に並んで、おまえは三国五師のつもりか!
御本仏は七百年間に二回も出てこないよ!」
ー怒りに駆られて、心中で池田に宣戦布告し、勝負を挑みました。
「池田大作に弓を引いた私が、充実した人生を送れたら私の勝で、あんた(池田)の負け」--
この心中の宣戦布告は、数人の芸術部員だけに話しました。
平成四年、現在の目黒区に引っ越したのを機に、家族で創価学会を辞めました。まず『公明新聞』をやめ、「聖教新聞』をやめ、広布部員(財務)も降りました。
平成四年といえば、その前年、すでに創価学会は日蓮正宗から破門されていたわけですが、当時の私の中には、”日蓮正宗に帰伏する”という選択肢はまったくありませんでした。もとより池田創価学会がオカシイのは明らかですが、申し訳ないことに「宗門側にも何か問題があるのだろう、どっちもどっちだ」などと
考えていました。知らず知らずのうちにも、創価学会による宗門攻撃のデッチ上げ宣伝の悪影響を受けていたのです。そして、自分は池田に宣戦布告して創価学会を辞めたのだから、謗法は免れ、昔どおりに功徳の現証はあるはず、と自分に都合のよいように解釈しておりました。
模刻本尊を拝んで恐怖の体験
創価学会と縁を切り、せいせいして写真撮影に打ち込んでいたところ、二〇〇〇年(平成十二年)に自費出版した『人間の行方・DOWN THE ROAD OF LI)FE』という写真集で「日本写真協会賞・新人賞」「写真の会賞」などをいただいたのをはじめ、数年のうちにフォトフェスティバルに参加できる運びとなりました。
しかし、なぜか、その後が弾みません。憧れていた、国際的写真家集団に加盟しようとして推薦を取り付けたものの、ニューヨークの審査であえなく敗退してしまいました。
今思えば、それもそのはず、創価学会は辞めたものの、ただ写真の面白さに没頭し、いつしか大御本尊様への信仰を忘れ去っていたからです。
大量にあった仕事もサアーーと無くなり、新たな作品のアイデアも湧かず、昼から酒を飲んだり、一日中ボーとしてテレビを見る日が続き、見かねた妻から勧められて心療内科の受診をしたこともありました。
そんな生活が十年近くも続き、今から思えば「善に付き悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」「頭破作七分」との御金言を身で実感するような生活でした。
そのような時にインターネットで、
「創価学会が、本門戒壇の大御本尊をいよいよ否定・放棄した」
との書き込みを見て、なぜか動揺し、漠然としながらも
「もしかすると自分が大石寺信仰に戻る時が来たのかな」
と初めて思ったのです。
また、インターネットでは、破門されるずっと以前の昭和五十年頃に、池田大作による八体もの板本尊摸刻がなされていたことも知りました。
振り返ってみると、私は摸刻のうちの一体を、一度だけ拝んだ記憶があります。それは、入信から数年後のことです。信濃町文化会館地下の仏間にピカピカの真新しい御本尊が安置されていて、
芸術部十数人と唱題を始めたところ、直後に私は不可解な現証に襲われ、唱題を続けることができなくなってしまったのです。あまりにの驚きと苦しさに仏間から這い出て、皆に助けてもらいました。
他のメンバーは平然としているのに、御本尊をを拝めない自分が恥ずかしくて、誰にも話せないまま、四十年近くもこの事は無かったことにしておりました。
大御本尊から離れた罪に気づく
あの四十年間の摸刻板本尊を拝んだ時の現証をどう評価したらよいのか、考えに考えぬいた結果「私は、時の御法主上人が開眼も許可されていないニセ本尊を拝み、現証の経験をした学会員のハシリだったのだ」
と、ようやく腑に落ち、それと同時に、宗祖日蓮大聖人から現在の六十八世日如上人猊下にまで伝わる唯授一人の血脈相承は絶対にある、との確信に至りました。
結論が出た以上、一刻も早く大石寺に登山し、御開扉を受け、自分の二十数年間の大謗法をお詫びするしかないと思い、平成二十七年暮れ、かつて御受戒を受けた華王寺に駆け込み、勧戒をしていただきました。
六十三歳からの再スタートです。
それから六日後の平成二十八年一月三日、三十年ぶりに登山し、御法主日如上人猊下の大導師のもと、大御本尊様の御開扉を受けることができました。
大石寺が創価学会時代よりさらに整備され立派になっていることに驚きました。
また、その夜、初めて丑寅勤行に参加させていただき、血脈付法の御法主上人猊下の執り行う儀式の荘厳さに息をのみました。学会時代は、芸術部夏季講習会に参加した際、一度だけ丑寅勤行に参加できるチャンスがありました。
ところが、
「深夜の暗い境内を歩くのは危険だから、丑寅勤行には行かなくてもよい」
との池田大作からの伝言が回ってきたので、それをよいことに参加しなかったのです。
過日、御隠尊日顕上人猊下の『すべては唱題から』(『三大秘法義』よりの抜粋)を読ませていただきました。
私の教学力不足から理解はいささか難しいものの、唱題して何度も読んでいくと、その素晴らしさがジワジワと伝わってきます。
そして、「こんなに凄い御境界があったのか!もし、若いころに猊下の御指南に触れることができていたら、私の五十代は違っていただろうに、なんと自分は勿体ないことをしてしまったのだろう」と、目から鱗が落ちる思いでした。ひるがえって、池田大作は昔、大勢の学会員を前にして「(猊下の御説法は)ドイツ語を聞いているみたいで、わかんないんだよ!」
と言い放ち、同調を煽りましたが、自分の素養の無さを棚に上げたこの言動、まさに池田の無信心もここに極まれり!という感じです。
池田大作の信心の無さを知りつつも、彼の術中にはまり、無駄に過ごした二十数年が悔しく残念でなりません。
内から外から功徳の現証が!
日蓮正宗に帰伏して二年過ぎ、私もやっと正しい信心の入り口に辿(たど)り着いたのだな、との感があります。
帰伏以来、何度も登山させていただき、昨年九月には妻と長男が勧戒を受けることができました。今は毎日、定時に妻と勤行をしております。
帰伏以降は経済的な問題や健康上の不安、そして何よりも自分のあらゆる判断に自信が持てず、前途を悲観するばかりだったのですが、正法・正師のもとで信心している中、落ち込むようなことはなくなり、常に安堵感に包まれて、以前が嘘のように不安から解放されました。
仕事上でも、思いがけない人からの紹介で手がけた仕事が高評価をいただき、新規の制作代理店との仕事が始まったり、予想もしていなかったヨーロッパでの巡回四人写真展会への参加も決まるなど、内からも外からも功徳が顕われ、有り難くてたまりません。
人生これからです。創価学会・池田大作との勝負もまさにこれからです。あらためて負ける気はしません。
現在、機会あるごとに、学会時代に親交のあった芸術部員等を次々と折伏しておりますが、ほとんどの方が、創価学会にしがみつきつつも、功徳のない創価学会に希望を見いだせないでいる、という感じです。
この人達にも、代々の血脈相承は厳然とあるということを納得させ、勧戒を受けさせて、なんとしても大石寺にお連れしたいと思っています。
私はいささか遠回りをしたものの、今世で大御本尊様のもとに戻ることができました。
創価学会員の皆様も、学会が本門戒壇の大御本尊を放棄したニュースを知り、「こんなはずではなかった」と、心の奥底で感じている方はいらっしゃると思います。わずかでも遠和感を感じることの出来る方は、それを、捨てず、閉じず、放り出さず、思い切って、心の奥底の声にしたがって、お近くの日蓮正宗寺院を訪ねてください。
そして、御住職様にお話を聞いてみてください。親切に本当の事をお話してくださるはずです。私達が帰る所は、ここしかないのです。この拙(つたな)い体験談が縁で、私の所属寺院である華王寺の「平野正樹」を訪ねて頂いてもかまいません。誠意をもって対応させていただきます。
(慧妙 二〇一八年四月十六日号)
東京都練馬区・華王寺支部 平野 正樹
学会に対する疑問の芽生(めば)え
私は、写真学校時代のアルバイト先の経営者・Nさんの紹介で、昭和五十一年一月、二十三歳の時に練馬の華王寺で御受戒を受け、学会員となりました。当時は、生きることへの意味や目的が分からず悶々としており、高校生の時に夢中になった社会主義運動にも挫折して、今度は世界三大宗教の一つである仏教を信仰してみよう、と思っての入信でした。その後、年収(!)二十四万円写真家助手の生活が十年ほど続き、あまりの厳しさから逃げ出したくなる気持ちも起こりかけましたが、そのつど、日蓮大聖人の御金言が、自分の宿業や弱さを凝視させ、支えてくれました。
池田大作との出会いは、入信まもない頃、創価学会の「練馬の日」でした。練馬文化会館の御宝前に現れた池田は、紙幅の御本尊様を背にタバコを一服し、固唾(かたず)を呑んで見守っている会員に向かって、
「ここでタバコを吸いたかったら、会長になりなさい」
と第一声を放ちました。
私の常識ではとうてい考えられないこの言動に、度肝を抜かれ、世の中には凄い人がいるものだと、呆気にとられたことを鮮明に覚えています。
この時はわかりませんでしたが、この池田の行動は、自身が日蓮大聖人の再誕、もしくは、”絶対者”であるかのように会員に印象付けようとするパフォーマンスの一つだったと確信します。
私は学会では芸術部の人材グループにも身を置き、昭和六十年、二十五歳の時にはフリーランスの写真家として独立、経済的にも安定した昭和六十二年、結婚と同時に世田谷区に引っ越しました。
引っ越してすぐ、たまたま選挙の投票日だったのですが、なんと、妻が、世田谷区の学会幹部から”替え玉投票”を強(し)いられました。まだ地域に顔を知られていなかったからでしょう。
その事実を知らされた私は、幹部に抗議しようとしましたが、誰も説明にも現れず、結局ウヤムヤになってしまいました。当時の世田谷区の創価学会では、チャンスさえあれば替え玉投票は当たり前、ということだったようです。
ちなみに、これだけの理由ではありませんが、私はそれ以来、一度も公明党に投票しておりません。
決定打となった池田からの伝言
平成に入った頃になって、ようやく鈍い私ですから『聖教新聞』の紙面から、池田自身が”創価学会トップの世襲を企画していることや、自分が御本尊と同格以上であるかのような振る舞いをしていることを感じ取り、「これはおかしい」とハッキリ見抜けるようになりました。思い余って、会合の際、「最近、センセーはオカシイのではないか」ということを匂わすと、地区の末端幹部は、あえて「センセー」を連呼して池田礼賛の度合いを増すばかりでした。
これに閉口した私は、役職は一切受けませんでした。
池田大作に対する不信・嫌悪は、日増しに強まっていきましたが、周囲には私と同じように感じる人は見当たらず、
「もしかすると、自分のほうがオカシイのでは?」
と思う時すらあり、まともな話し相手は妻だけという、孤立した苦しい日々が続きました。
しかし、転機の時が来ました。
信濃町文化会館での芸術部の会合の折り、池田本人から伝言が回ってきたのですが、その内容は
「アメリカのSGIメンバーが登山のために来日したが、御開扉が受けられなくなった。しかし、大御本尊様にお目通りできなくとも、ボクに会えればよいのだ」
というものでした。この頃はまだ、学会員の御開扉は許されておりましたから、なぜアメリカのメンバーが御開扉を受けられなかったのかは不明です。
何はともあれ、この伝言で私は吹っ切れました。
「宗祖日蓮大聖人のような法難も受けていないくせに、三国四師(釈尊・天台・伝教・日蓮大聖人)に並んで、おまえは三国五師のつもりか!
御本仏は七百年間に二回も出てこないよ!」
ー怒りに駆られて、心中で池田に宣戦布告し、勝負を挑みました。
「池田大作に弓を引いた私が、充実した人生を送れたら私の勝で、あんた(池田)の負け」--
この心中の宣戦布告は、数人の芸術部員だけに話しました。
平成四年、現在の目黒区に引っ越したのを機に、家族で創価学会を辞めました。まず『公明新聞』をやめ、「聖教新聞』をやめ、広布部員(財務)も降りました。
平成四年といえば、その前年、すでに創価学会は日蓮正宗から破門されていたわけですが、当時の私の中には、”日蓮正宗に帰伏する”という選択肢はまったくありませんでした。もとより池田創価学会がオカシイのは明らかですが、申し訳ないことに「宗門側にも何か問題があるのだろう、どっちもどっちだ」などと
考えていました。知らず知らずのうちにも、創価学会による宗門攻撃のデッチ上げ宣伝の悪影響を受けていたのです。そして、自分は池田に宣戦布告して創価学会を辞めたのだから、謗法は免れ、昔どおりに功徳の現証はあるはず、と自分に都合のよいように解釈しておりました。
模刻本尊を拝んで恐怖の体験
創価学会と縁を切り、せいせいして写真撮影に打ち込んでいたところ、二〇〇〇年(平成十二年)に自費出版した『人間の行方・DOWN THE ROAD OF LI)FE』という写真集で「日本写真協会賞・新人賞」「写真の会賞」などをいただいたのをはじめ、数年のうちにフォトフェスティバルに参加できる運びとなりました。
しかし、なぜか、その後が弾みません。憧れていた、国際的写真家集団に加盟しようとして推薦を取り付けたものの、ニューヨークの審査であえなく敗退してしまいました。
今思えば、それもそのはず、創価学会は辞めたものの、ただ写真の面白さに没頭し、いつしか大御本尊様への信仰を忘れ去っていたからです。
大量にあった仕事もサアーーと無くなり、新たな作品のアイデアも湧かず、昼から酒を飲んだり、一日中ボーとしてテレビを見る日が続き、見かねた妻から勧められて心療内科の受診をしたこともありました。
そんな生活が十年近くも続き、今から思えば「善に付き悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」「頭破作七分」との御金言を身で実感するような生活でした。
そのような時にインターネットで、
「創価学会が、本門戒壇の大御本尊をいよいよ否定・放棄した」
との書き込みを見て、なぜか動揺し、漠然としながらも
「もしかすると自分が大石寺信仰に戻る時が来たのかな」
と初めて思ったのです。
また、インターネットでは、破門されるずっと以前の昭和五十年頃に、池田大作による八体もの板本尊摸刻がなされていたことも知りました。
振り返ってみると、私は摸刻のうちの一体を、一度だけ拝んだ記憶があります。それは、入信から数年後のことです。信濃町文化会館地下の仏間にピカピカの真新しい御本尊が安置されていて、
芸術部十数人と唱題を始めたところ、直後に私は不可解な現証に襲われ、唱題を続けることができなくなってしまったのです。あまりにの驚きと苦しさに仏間から這い出て、皆に助けてもらいました。
他のメンバーは平然としているのに、御本尊をを拝めない自分が恥ずかしくて、誰にも話せないまま、四十年近くもこの事は無かったことにしておりました。
大御本尊から離れた罪に気づく
あの四十年間の摸刻板本尊を拝んだ時の現証をどう評価したらよいのか、考えに考えぬいた結果「私は、時の御法主上人が開眼も許可されていないニセ本尊を拝み、現証の経験をした学会員のハシリだったのだ」
と、ようやく腑に落ち、それと同時に、宗祖日蓮大聖人から現在の六十八世日如上人猊下にまで伝わる唯授一人の血脈相承は絶対にある、との確信に至りました。
結論が出た以上、一刻も早く大石寺に登山し、御開扉を受け、自分の二十数年間の大謗法をお詫びするしかないと思い、平成二十七年暮れ、かつて御受戒を受けた華王寺に駆け込み、勧戒をしていただきました。
六十三歳からの再スタートです。
それから六日後の平成二十八年一月三日、三十年ぶりに登山し、御法主日如上人猊下の大導師のもと、大御本尊様の御開扉を受けることができました。
大石寺が創価学会時代よりさらに整備され立派になっていることに驚きました。
また、その夜、初めて丑寅勤行に参加させていただき、血脈付法の御法主上人猊下の執り行う儀式の荘厳さに息をのみました。学会時代は、芸術部夏季講習会に参加した際、一度だけ丑寅勤行に参加できるチャンスがありました。
ところが、
「深夜の暗い境内を歩くのは危険だから、丑寅勤行には行かなくてもよい」
との池田大作からの伝言が回ってきたので、それをよいことに参加しなかったのです。
過日、御隠尊日顕上人猊下の『すべては唱題から』(『三大秘法義』よりの抜粋)を読ませていただきました。
私の教学力不足から理解はいささか難しいものの、唱題して何度も読んでいくと、その素晴らしさがジワジワと伝わってきます。
そして、「こんなに凄い御境界があったのか!もし、若いころに猊下の御指南に触れることができていたら、私の五十代は違っていただろうに、なんと自分は勿体ないことをしてしまったのだろう」と、目から鱗が落ちる思いでした。ひるがえって、池田大作は昔、大勢の学会員を前にして「(猊下の御説法は)ドイツ語を聞いているみたいで、わかんないんだよ!」
と言い放ち、同調を煽りましたが、自分の素養の無さを棚に上げたこの言動、まさに池田の無信心もここに極まれり!という感じです。
池田大作の信心の無さを知りつつも、彼の術中にはまり、無駄に過ごした二十数年が悔しく残念でなりません。
内から外から功徳の現証が!
日蓮正宗に帰伏して二年過ぎ、私もやっと正しい信心の入り口に辿(たど)り着いたのだな、との感があります。
帰伏以来、何度も登山させていただき、昨年九月には妻と長男が勧戒を受けることができました。今は毎日、定時に妻と勤行をしております。
帰伏以降は経済的な問題や健康上の不安、そして何よりも自分のあらゆる判断に自信が持てず、前途を悲観するばかりだったのですが、正法・正師のもとで信心している中、落ち込むようなことはなくなり、常に安堵感に包まれて、以前が嘘のように不安から解放されました。
仕事上でも、思いがけない人からの紹介で手がけた仕事が高評価をいただき、新規の制作代理店との仕事が始まったり、予想もしていなかったヨーロッパでの巡回四人写真展会への参加も決まるなど、内からも外からも功徳が顕われ、有り難くてたまりません。
人生これからです。創価学会・池田大作との勝負もまさにこれからです。あらためて負ける気はしません。
現在、機会あるごとに、学会時代に親交のあった芸術部員等を次々と折伏しておりますが、ほとんどの方が、創価学会にしがみつきつつも、功徳のない創価学会に希望を見いだせないでいる、という感じです。
この人達にも、代々の血脈相承は厳然とあるということを納得させ、勧戒を受けさせて、なんとしても大石寺にお連れしたいと思っています。
私はいささか遠回りをしたものの、今世で大御本尊様のもとに戻ることができました。
創価学会員の皆様も、学会が本門戒壇の大御本尊を放棄したニュースを知り、「こんなはずではなかった」と、心の奥底で感じている方はいらっしゃると思います。わずかでも遠和感を感じることの出来る方は、それを、捨てず、閉じず、放り出さず、思い切って、心の奥底の声にしたがって、お近くの日蓮正宗寺院を訪ねてください。
そして、御住職様にお話を聞いてみてください。親切に本当の事をお話してくださるはずです。私達が帰る所は、ここしかないのです。この拙(つたな)い体験談が縁で、私の所属寺院である華王寺の「平野正樹」を訪ねて頂いてもかまいません。誠意をもって対応させていただきます。
(慧妙 二〇一八年四月十六日号)